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二十三章:曹操死して魏興す

関羽は死んでも、なお三国を揺るがすことになるのでした。
呉の孫権は蜀の復讐に恐れて、関羽の首をそのまま魏の曹操に送り、曹操も蜀の勢いを恐れて関羽の首を送り返そうとしますが、逆手に関羽を丁重に奉り天下に示したのでした。

また蜀では、関羽派閥による呉討伐論と漢再興のための魏討伐論で分断され、大変な騒ぎとなっていたのです。特に関羽に援軍を送らなかった孟達、劉封に対して責任追及が問題になり、それをきっかけに孟達は上庸城から謀反を起こして魏に降るのでした。劉封は孟達に敗れて成都に戻り斬首され、暫くこの問題は膠着状態となったのです。

そんなある日、曹操は脳の病気が原因で寝込むようになり、これも関羽の呪いとして演義では書かれております。元々曹操は脳に病巣を煩っており、手術を拒んだことについに曹操は病に勝てず、病死してしまうのでした。当時、この病気は頭から切り開き病巣を取り除く手術が可能であったと云われておりますが、まだ手術に馴染みの無い時代だっただけに、曹操も恐れこれを拒絶したのではないかと推測されます。

また、この手術を請け負う名医華佗(かだ)は演義によれば、関羽の好みをしていた理由に曹操暗殺を企てたとの疑いで牢獄で殺害してしまうのでした。正史によると、華佗は診察中に女性の体を必要以上に触りセクハラ騒動を起こして処刑されております。

関羽の死からわずか一年後の220年、曹操の死は劉備に衝撃を与えました。敵ながら最大のライバルであった曹操が死に、跡を継いだ曹丕(そうひ)は漢の帝・献帝から無理やり禅譲させて国を奪い、漢が滅んでしまったのです。ここに魏が建国されるのでした。
劉備はこの時、寿命というものを痛感しました。関羽の死に続き、なんとしても早く漢再興のために尽力してきたことが無意味になってしまい、劉備の焦りは加速したのです。

演義では、蜀の漢中にて帝だけが持つとされる玉璽(ぎょくじ)が偶然にも発見され、諸葛亮らの薦めで劉備は皇帝を名乗り、蜀漢を興すのでした。更に関羽弔い合戦として、諸葛亮や趙雲らが反対するも呉討伐を劉備自ら起こし、関羽の次男・関興、張飛の長男・張苞を従えて攻め込むのでした。この討伐軍の先鋒として準備していた張飛は、日頃の暴力癖が災いして配下に暗殺されてしまうのです。この衝撃で劉備の運命は大きく左右し、ますます焦りを隠せない状況となったのです。

呉討伐軍は、夷陵(いりょう)まで破竹の勢いで進み、呉の主だった将ら次々と討たれ快進撃をしていたのです。呉の滅亡は時間の問題とし、孫権は恐れて、和睦を申し入れ荊州の三郡の返還と、同盟を申し入れてきたのでした。