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三国志入門


四章:董卓の恐怖政治

黄巾の乱が一時平定したことにより、漢王朝では大将軍何進(かしん)と中常侍との確執が激しくなり、対立することになります。

何進は、元々は屠殺業(とさつぎょう)を営んでいた貧しい家柄で、妹が皇帝の后になったことで大出世した男でした。それを面白く思ってない中常侍らや権力者らがいよいよ対立することになります。

そして、皇帝霊帝が崩御し、中常侍らの力が弱まったことを伺い、何進は各地より中常侍抹殺のために檄文を飛ばします。しかし、それは露見され逆に中常侍に暗殺されてしまいます。

檄文に呼応して最初に駆けつけたのは西涼の董卓(とうたく)という人物でした。まず董卓は、何進暗殺の中常侍らを悪政と黄巾の大乱を生んだきっかけとなった原因として、次々と処刑し、まだ皇帝になって間もない幼帝を盾に相国を自ら名乗ったのです。

董卓は、各地の反乱を治めるために戦地を駆け抜け、歴戦の勇士として名声が伝えられており、張温、孫堅らと公績を挙げた人物だったため、当初誰も異議を唱えるものはいなかったのですが、権力を手にした瞬間、幼帝(何進の妹の子)を廃し、陳留王を皇帝に擁立する提案、更に政変による悪政で、中常侍よりも更に民を苦しめることになります。

董卓に真っ向から反対していた丁原(ていげん)を暗殺させ、三国志一の猛将・呂布を加え、誰も手出しすることもできず、幼帝と何皇后(何進の妹)を暗殺し、新しい皇帝として献帝(陳留王)が擁立されるのでした。董卓は権力を欲しいままに酒池肉林の日々を送っていたのです。

さてこの董卓という人物、三国志至上悪として有名ですが、歴史上では確かに悪の行いしか残っていません。しかし、わざわざ悪行のために、幼帝を廃しする必要があったのでしょうか。幼帝はとても皇帝としての器でなく、むしろ陳留王は漢室直径の血筋だけにしっかり者であり、それを擁立することは逆に幼帝を擁立したほうが、意のままに動かせたかもしれません。

思うに董卓は、権力を手に入れ、自分がこの荒れた漢を建て直し名声を得たかったかもしれません。しかし誰もが反対したことに武力でした抑えることができなかったことが、悪行として名を残してしまったのではないでしょうか。

自分は漢のためにこれだけやっている!ということを理解して欲しかった、あるいは認められたい気持ちがあったかもしれません。

董卓を慕うものには、それなりの見返りがあり可愛がっていたことも資料に残っており、また、短気で自分が気に入らないものに対しては武力で抑える両極端が伺えます。

都は荒れに荒れて政治が機能しなくなり、独裁な振る舞いを止めるべく、宮廷で仕えていた曹操は、董卓暗殺を決意し試みますが、失敗して洛陽を脱出、道中出会った陳宮(ちんきゅう)と共に故郷の陳留を目指して逃亡します。

また、大将軍何進の参謀として、名門出身の袁紹(えんしょう)もキ州で勢力を伸ばし、劉虞(りゅうぐ)を皇帝に擁立して董卓と対立しようとしましたが、劉虞がそれを応じることはなく終わりました。

演義では、曹操は董卓討伐の檄文を各地に送り、反董卓連合軍を結成させることになります。
董卓の最期、そして三国志一の猛将呂布について次回語りたいと思います。