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諸葛亮が五丈原で病死

後漢伝


張角 ちょうかく

姓名張角
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生没年? - 184年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評太平道の教祖として人々の信奉集め、大乱を起こした人物
主な関連人物 張宝 張梁 馬元義 
関連年表 184年 天公将軍を自称する

略歴

張角といい、冀州鉅鹿郡の人である。弟に張宝、張梁らがいる。

張角の出身地鉅鹿郡はショウ水に近く、この辺りは大洪水で河道を南北に上下させる黄河の氾濫に、昔から振り回されてきた。時にはショウ水は黄河に連なって、その支流と化したこともあった。農民は洪水で耕地を失い、その後に発生する疫病や饑饉に苦しみ、上述のようについに郷里を棄てざるを得なかった。

彼らは僅かな家財を投売りして路銀を作り、幼児を背に負い、保護を求めて張角の許に向かった。その数は数十万、道路は人の波に塞がれ、道傍には万単位の半死の病人が倒れていたという。八州の中でも青州と徐州の信者が最も多かった。教団の顔触れの多くが流民だったので、反政府的思考が強く、当初の信仰集団から次第に革命集団へと、その体質は変わっていた。

そこで張角は、信徒を三十六方に分け、それぞれに渠師と呼ぶ指導者を置いて組織化した。そして「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし。歳は甲子に在り。天下大吉たらん」という合言葉の下に結束を固めた。「黄天まさに立つべし」は、火徳の漢の赤色に代わる土徳の黄色を意味し、これは五行説の「相性説」を踏まえたものである。また「歳は甲子に在り」は、彼らの一斉蜂起が甲子の歳、すなわち一八四年を期したものであることを示す。十干十二支の組み合わせで歳を表す中国では甲子は干支の冒頭であり、六十年に一度しか巡って来ない新しい年の始まりである。彼らはこの年をもって漢に代わろうとした。

一味の者は白土で洛陽の寺門や州群の官府に「甲子」と書きつけた。大方の馬元義はしばしば京師にいって、中常侍の封ショ・徐奉ら宦官と繋ぎをつけ、内応を約束させた。馬元義らはまず荊・揚二州の信徒を集め、冀州の州治が置かれた業で挙兵しようとした。

そして184年3月5日を蜂起の日と決めたが、弟子の一人唐周がそれを政府に密告してしまった。馬元義は捕らえられて車裂きの極刑に処せられた。

霊帝は三公と司隷校尉を呼んで、張角の叛乱にどう対処すべきかを審議させた。これと同時にコウ盾令の周ヒンに命じて三公の府の役人を用い、張角に加担する宮省内部の者たちを摘発させた。宮廷の内外だけでも、太平道の使徒千余人を誅殺した。

事が発覚したと知り、張角は激を全国の信者に飛ばし、2月に一斉に蜂起した。張角は天公将軍、張宝は地公将軍、張梁は人公将軍と称し、一味の者は土徳は表象である黄色の布を付けて標識とした。世に「黄巾の賊」と呼ばれるのは此れに由来した。彼らは所在の官庁を焼いて役人を追放し、村落を掠め、旬日の間に諸方を席巻した。

この間、南陽群では張曼成、博陵群では張牛角らが挙兵し、このほか各地で李大目・張・丈八・陶平漢・雷公・白雀・波才らの挙兵があった。

後漢政府は州群に兵器や武具を準備させ、城壁を修理して防備を固めようと布告した。また、函谷関を始めとし、洛陽を取り組むように設けた八つの関所に都尉を置き、河南尹の何進を大将軍に任じて都帝に駐屯させた。また、城内の治安を守るために、西園八校尉を配した。上席は宦官の蹇碩だが、ここには曹操・袁紹の顔もあった。

後漢にとって、まだ解決しなければならない問題があった。ひとつは、二回の党錮によっって終身禁錮の身になった「党人」の処遇問題であった。不遇をかこつ彼らには、黄巾と結託する可能性があった。皇甫嵩はこれを慮って彼らの釈放を提案し、これが受けいれられた。

二つは、戦費の調達の問題だった。これも皇甫嵩の進言で、霊帝が私蔵してきた金銭を充当し、西園で飼育される園遊会用の駿馬を兵士に与えることで賄うことにした。さらに公卿たちに昭を下し、所有する馬匹や弩を提出させ、名将の子孫やシ民の中で、軍略に明るいものを募集して軍に加えた。そして次の三将を選んで黄巾の賊の討伐に当たらせた。

北中朗将盧植を冀州へ、左中朗将皇甫崇と右中朗将朱儁とともに波才を斬り、朱儁と別行動をとって卜胡を斬り、さらに張梁を広宗で斬り、さらに張賓を下曲陽において誅殺した。范曄の『後漢書』によれば、この時、黄巾の賊十万余人が斬首にされた。

朱儁は黄巾の趙弘・韓忠らを斬った。右中朗将盧植は首魁の張角を広宗に包囲して落城寸前にまで追いつめたが、宦官左豊に賄賂を与えなかったため処罰されてしまった。張角は盧植に代わって攻撃して来た董卓を破ったが、まもなく病死した。


見解

後漢の約半世紀の間は、早害・水害・蝗害による饑饉が頻発し、鮮卑・邸族・羌・烏丸・蛮・山越ら異民族の叛乱がほとんど連年起こり、零細な農民は土地を放棄して流民になる例が多かった。しかも朝廷では外威と叛乱が権力争いに明け暮れて、政治を顧みる余裕がなかった。

こんな状況下、民衆が宗教に縋ろうとしたのは不思議ではなかった。この要求に応えたのが巨鹿群の人、張角だった。彼は「黄老の道」を学び、やがて「太平道」という新興宗教を興した。

「黄老」の「黄」は伝説上の五帝の一人、黄帝を指し、彼は人に家屋・衣類の作り方を教え、医薬を発見したとされている。しかも無為自然を生まれながら体得し、不良長寿の人と崇められていた。「老」は諸子百家の一つ、荘子と並んで知られる道家の思想家老子を指す。黄帝伝説と老子の思想が結び付いた「黄老信仰」の萌芽はすでに前漢初期に見られるが、後漢になるとほぼ定着した。

この信仰に基づいて興されたのが、太平道だった。張角は于吉が東海群で得たとされる『太平清領書』と、道教の『太平経』を利用したと言われる。于吉は符水・呪説によって病気を癒し、呉会の間で多くの使者を得た。

太平道も符水・呪説を用い、病気治療に効果があったと信じられ、多くの人々がこれに帰依した。同じ頃、漢中で張修が弘めた「五斗米道」も太平道と同じ流れを沈むものだった。
張角は十数年の愛大に、多くの信者を獲得していった。霊帝の時代には幽・冀・兗・豫・青・徐・荊・揚八州、すなわち現在の華北・華中の大半に教えに弘まった。

張角の太平道がこれだけ多くの信者を獲得できたのは「符水・呪説」といった旧来の信仰を基礎として、その上に、「跪拝首過」という、今までの宗教になかった新しい理念を加えたことにある。


評価

張角の死体は棺から引き出されて曝された。黄巾の乱そのものは2月から11月までの10ヶ月間に過ぎなかったが、漢朝は膨大な戦費の調達に苦しみ、中国全土が戦乱で荒廃した。これに追い打ちをかけるように異民族の大規模な叛乱がつづいた。

また、その残党は黒山や白波谷で百余万の兵衆を擁し、漢朝は鎮圧に苦しんだ。残党が史上から完全に姿を消したのは、実に十余年後のことである。黄巾の乱は後漢に致命的な打撃を与えた。