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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


劉繇 正禮りゅうよう せいれい

姓名劉繇
正禮
生没年154年 - 195年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評漢の名門、斉の孝王の末子で、評判がよくなかった群雄
主な関連人物 袁術 劉岱 劉基 
関連年表 193年 揚州刺史となる
194年 揚州牧・振武将軍となる

略歴

劉繇、字を正禮といい、東莱郡牟平県の人である。漢の高祖の孫である斉の孝王劉将閭の直系、父は劉輿、叔父は劉寵、劉韙、兄は劉岱、子は劉基、劉鑠、劉尚らがいる。

劉繇は十九歳のとき、叔父の劉韙が賊の人質となった。彼はそれを奪い返してきて、その名が人々の間に広まった。

孝廉に推挙され郎中となり、下邑の県長となったが、当時の郡守が貴顕と親戚なのを笠にきていたので、官を棄てて去った。

やがて青州の役所に招かれて済南の行政観察にあたった。その相の中常侍の子で、賄賂をむさぼって法を蔑ろにしていたので、劉繇は上奏してこれを罷免した。

平原相の陶丘洪という人が、劉繇を茂才に推挙して青州刺史に推した。刺史は、「前年に公山(劉岱)を推挙し、今またその弟の正禮を推挙するのはどうしてか」と問うた。彼は「もし殿が前に公山を登用し、後に正禮を抜擢されましたならば、二匹の龍を御して長途に就き、名馬を馳せて千里を行くということになり、まことに宜しいではございませんか」と答えた。

このころ、劉繇は司空の掾として招かれ、侍御史の任を受けるようにとの話があったが、これを断った。

193年、戦乱を避けて淮水流域にいたとき、詔が下されて揚州刺史に任じられた。袁術が淮南を占拠していたため、劉繇は恐れ憚って郡の治所が置かれる寿春に行こうとしなかった。そして長江を渡って曲阿に役所を定めた。

当時、孫策の叔父呉景と、孫策の従兄弟孫賁は丹楊にいた。袁術は王朝を奪おうと考えて、次々に郡県を支配下に収めていった。劉繇は樊能・于麋・張英らを長江沿岸の要所に派遣してこれを防ぎ、その一方で呉景・孫賁は袁術に官位を授けられて活動しているという理由で、丹楊から追い出した。

袁術は部下の恵衢を勝手に揚州刺史に任命し、呉景・孫賁とともに樊能・張英を攻撃させたが、一年余り経っても埒が明かなかった。漢の政府は劉繇に揚州牧・振武将軍を加え、その兵は数万人となった。

195年、孫策は袁術に説いて呉景らに加勢し、樊能・張英らを撃ち破った。慌てふためいた劉繇は長江をさかのぼって豫章に拠ろうとし、部下の笮融を派遣した。しかし豫章に入った笮融は太守の朱晧を殺し、自立の勢いを示した。劉繇は軍を進めて笮融を討とうとしたが逆に敗れ、配下の県から兵士を挑発し、再度軍を進めてやっと勝った。

その後、劉繇は間もなく病死した。享年42。


評価

劉繇はいたずらに名声が高いだけで、まさに評判倒れの一生に過ぎなかった。

諸葛亮は後に『出師の表』で、孫氏に江東を席捲させた人物として王朗と共に名指しで批判している。


演義

『三国志演義』では、太史慈を使いこなせず孫策に敗北する凡庸な群雄の一人として描かれ、太史慈に後事を任せて逃走している。豫章没落後については、諸葛亮の経歴説明時に、豫章において従父に敵対した勢力の一人として名前が挙がるのみである。