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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


皇甫酈 こうほれき

姓名皇甫酈
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生没年生没年不詳
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評詔勅の外交官として諌めて、剛直な態度を貫いた人物
主な関連人物 李傕 郭汜 皇甫嵩 
関連年表 不明

略歴

皇甫酈といい、安定郡朝那県の人である。伯父は皇甫嵩がいる。

192年4月、董卓は王允・呂布の謀計が成功して殺害された。董卓は武将李傕・郭汜・樊稠・張済たちは折から陳留・頴川の諸県を攻撃していた。彼らは賈詡の進言に従ってただちに長安に引き渡し、早くも6月、呂布を破り、王允を殺して董卓の仇を討った。

やがて彼らは主導権争いを起こし、まず樊稠が李傕に殺され、次いで李傕と郭汜が対立した。

195年、李傕は郭汜の機先を制して献帝を人質とし、宮殿を焼いた。一方、郭汜は講和の使者として自陣を訪れた公卿全員を拘禁した。両者の戦いは数ヶ月に及び、その間の使者は万単位に及んだ。

長安周辺の民衆は両軍の涼奪によって飢え苦しみ、二年の間に互いに啖いあうという惨状を呈し、数十万戸の人がほぼ死に絶えた。献帝は謁者僕射の皇甫酈が涼州の名門で、使者として有能だったので、彼に命じて二人を和睦させようとした。

皇甫酈がまず郭汜を訪れると、彼は勅命を受け入れた。次いで李傕に勅命を伝えたが、これに対して彼は「俺には呂布を討ったが功があり、以来4年、輔政の任に当たって三輔の地域が平穏になったのは天下周知の事実だ」と惨状を知らぬふうに装い、「郭汜ごとき馬泥棒同然の奴が、どうして俺と肩を並べようとするのか。見ておれ、俺の方略と軍勢で彼奴を始末出来るかどうかを。彼奴は公卿を脅して大勢を人質にした。あんなことをやる奴に、君がもし利便を図ろうとするのなら、この李傕に胆力があることを、君に思い知らせなくてはならない」と言い、皇甫酈の出方次第によっては一命を奪い兼ねない怒りようだった。

皇甫酈は、董卓があれだけの権力を握りながら呂布に殺されたのは、武勇を生かす知恵がなかったからだと指摘した。そして公卿を脅して人質にしている郭汜と、天子を脅している李傕の罪とを較べれば、どちらが重いか言うまでもない、と鋭く迫った。

また「武軍は鉞節を手にしておられるが、西方の実力者の張済は郭汜・楊定と共謀して、高官にも支持者がいます。楊奉は白波賊に過ぎませんが、それでも将軍の非違を知っており、これに恩恵を与えて郭汜らに抵抗させようとしても、恐らく協力しないでしょう」と言った。

李傕は聞き入れず、一喝して彼を退けた。李傕は勅命を従わず、その言葉も無礼だったと、皇甫酈は上奏した。この時、侍中の胡邈は李傕の党与だったので、係官に命じて皇甫酈の上奏内容を和らげて報告させた。

また胡邈は皇甫酈に対して「李将軍は卿に粗末な扱いをしていない。皇甫公が大尉になられたのも、その尽力のお蔭ではないか」と言った。

これを聞いた皇甫酈は「胡敬才、卿は天子の左右に仕え、輔弼の任に当たる身であろう。そんな言葉をよく言えたものだ」と言い返した。胡邈は、李傕の気持を損なうと重大な結果をもたらすのを卿のために心配したのだと弁解した。

皇甫酈は「私は累世国家の恩を受け、身は常に帷幄に在った。『君辱めらるれば臣死す』と言う。天子のために李傕に殺されようと、それは天命である」と言って引き退がらなかった。

献帝は彼の言葉が厳しく、それが李傕の耳に入るのを恐れて、すぐに詔勅を下して脱出するように命じた。皇甫酈が営門を出た時、果たして李傕は虎賁の王昌に、彼を引っ立てて来るよう命じた。しかし、王昌は皇甫酈の忠直を知っていたから、彼の去るに任せ、追い掛けたがまにあわなかったと報告した。

危うく、皇甫酈は李傕の魔手を免れた。献帝は李傕を大司馬に任じ、三公の上に位させて、その意を宥めた。

その後、皇甫酈の消息は不明である。


見解

『魏書』董卓伝によれば、李傕・郭汜は、これも董卓の部下だった張済の取り成しで和睦したが、この間に、李傕の部下の楊奉・宋果の叛乱があり、李傕の勢いは弱まったという。その間に献帝一行は195年7月、長安を出発、洛陽に還ったのは翌年の7月のことだった。

また、董卓伝に引く『献帝起居注』には、皇甫酈の硬骨ぶりが記されている。


演義

彼は『演義』第十三回に登場、李傕・郭汜を和睦させる使者となる。大筋は右に述べたやりとりがあった後、献帝に命じられて帰郷する際、李傕の兵士たちに「李傕を随う者は逆賊とされて、将来痛い目に遭うぞ」と言い触らし、士気を沮喪させた、と脚色した。