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孫権が病死する

後漢伝


董承 とうじょう

姓名董承
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生没年? - 200年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評献帝から信任をうけ、密詔を賜って曹操に処刑された人物
主な関連人物 董卓 牛輔 种輯 呉子蘭 王子服 
関連年表 195年 衛将軍となる
199年 車騎将軍となる

略歴

董承といい、字も出身地も不明である。

董承は牛輔の部曲として仕えていた。

193年、董卓が殺されると、李傕・郭汜ら部将たちは遠征先から引き還して長安に入り、第二の董卓として暴威を揮った。彼らはやがて争いを始めたが、これも董卓の旧部将だった張済の取り成しでいったんは和睦した。

195年、長安では旧都洛陽への再遷都の議が持ち上がった。誰の発議か記されていないが、董卓が死んだ以上、一日も早く洛陽に戻り、漢の健在を天下に知らせる必要があったからだった。

7月、献帝は李傕・郭汜・楊奉、それに衛将軍董承らに奉じられて長安を出発した。董承は安集将軍に任命された。

11月、郭汜が謀反して献帝を奪おうとしたため、楊定・楊奉がこれを撃ち破った。郭汜は、献帝を奪い返そうとする李傕と合流した。

その後、献帝と董承ら一行が華陰に入ると、段煨が一行を出迎え、献帝を自陣に迎え入れようとした。しかし、段煨と仲が悪かった楊定・种輯が反対し、董承も楊定に与して「郭汜の軍が段煨の兵営に入りました」と献帝に讒言したため、ついに一行は華陰を離れることになった。なお段煨には、献帝を独占しようという野心は無かった。この後、段煨と交戦状態になった楊定は、追撃してきた李傕・郭汜にまで挟撃され、進退窮まって荊州へ逃げた。

張済が董承・楊奉との対立の末に叛逆し、李傕・郭汜軍に加わった。董承・楊奉らは、李傕・郭汜・張済の軍と東澗で戦ったが敗北した。それでも曹陽澗まで至ったところで、董承は楊奉と共に、白波賊の胡才・李楽・韓暹、さらには南匈奴の左賢王去卑に呼びかけ、これらを援軍として得ることに成功し、李傕らの軍を破った。

196年、執拗に追撃してきた李傕・郭汜・張済らの軍に、董承・楊奉らはまたしても敗れてしまった。水路を使って逃げる途中、多くの官人たちが船に縋り付いてきたが、董承は矛でこれを撃ち払ったため、官人たちの斬られた手指が船中に転がった。

献帝一行は僅か数十人となってしまったが、先行していた李楽や張楊、河東太守王邑らの救援のおかげで、何とか安邑まで逃れた。

途中、さまざまな紆余曲折を経て、洛陽に着いたのは翌年7月のことだった。

機敏な曹操はこの報を知るや、兵を率いて洛陽に行き、9月には曹洪を派遣して自分の根拠地の許に献帝を迎えた。この間に、遷都に関わった将軍たちは、董承を除いては殺害されたか、もしくは病死して、誰もいなくなっていた。

長安とその周辺は李傕・郭汜の手で荒廃し、やっとの思いで還った洛陽も一面の焼き野原だった。そして許では実権は曹操の手中に在り、献帝は天子とは名ばかりの一個の傀儡でしかなかった。献帝はこの時十六歳だった。

献帝から曹操は司空・行者騎将軍に任じられ、197年、袁術を破って淮南に奔らせ、198年、劉表・張繍の連合軍に安衆で大勝し、さらに呂布を殺して徐州を手に入れた。199年には張繍を再び降ろし、最大の敵袁紹との対決を間近に迎えた。

呂布に敗れた劉備は、以後、曹操に身を寄せていた。彼に目を付けたのが献帝だった。献帝にとって信頼出来る人物は、劉備のほかには自分の貴人の父である董承だけだった。

199年、董承は車騎将軍に任命された。また、献帝は董承に与えた衣帯の中に「曹操誅すべし」という密詔を潜ませた。

董承はこれを劉備に打ち明けて協力を求めた。密謀に長水校尉种輯と将軍呉子蘭・王子服も加わって計画を練った。しかし、実行に移る前に、劉備は曹操に朱霊とともに袁術討伐を命じられて出発してしまった。

曹操は劉備を高く評価していて、厚く礼遇して「出れば則ち輿を同じうし、坐せば則ち席を同じうす」るくらいだった。ある時、曹操は劉備に「今、天下の英雄と言えるのは使君と操のみである。袁本初のような輩は物の数にも入らない」と語りかけた。劉備はちょうど食物を口にするだけだったが、これを聞いて思わず匕箸を取り落としたという。

さらに『華陽国志』はこれにつづけて、「その時、雷鳴が轟いたので、劉備は曹操に、聖人も『迅雷風裂に必ず居ずまいを正す』と申していますが、まことに尤もです。雷鳴の音がこれほど激しいとは」と辯解したと記している。真偽はともかく、話としては劉備の小心がよく表れていて面白く、『演義』第二十一回でそっくり用いている。

劉備はそのまま戻らず、下邳に駐屯した。

200年正月、董承らの計画は露顕して、皆殺しにされた。董承の女の董貴人は妊娠中だった。献帝は命乞いを何度もしたが赦されず、彼女もまた殺された。享年不明。


見解

董承の密詔事件はのちにも尾を引いた。

献帝の皇后だった伏寿は、この事件について父の伏完に手紙を出した。『後漢書』によれば曹操の酷い仕打ちを訴え、暗殺を依頼した内容だったという。しかし伏完は行動を起こさぬまま209年に死去した。そして214年、11月にこの一件が表沙汰になり、曹操は激怒して献帝に迫って伏后を廃させた。尚書令華歆は宮中に押し入って伏后を捕え、暴室に下した。間もなく彼女は酖毒を飲まされて死去し、兄弟と一族百余人も殺された。

陳寿は「后は死去、兄弟は法に伏して殺された」と記して、詳しい顛末を記さないのは、曹髦が殺された時と同じである。


演義

『三国志演義』では医師の吉平とのやり取りと、召使との争いから計画が外部に洩れるという筋書きが追加されている。また、事件から20年以上後に、病床の床に伏した曹操を、亡霊となった董承らが枕元に立ち苦しめるという逸話が脚色されている。