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呂布が董卓を殺害する

後漢伝


沮授 そじゅ

姓名沮授
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生没年? - 200年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評袁紹の勢力を磐石にさせ、曹操にも才能を愛された参謀
主な関連人物 袁紹 田豊 審配 郭図 
関連年表 193年 監軍・奮威将軍となる

略歴

沮授といい、冀州広平郡の人である。子は沮鵠、弟は沮宗がいる。

若い頃から大志があって、権謀に富んでいた。

冀州の別駕となり、茂才に推挙されて二県の県令を歴任し、後に韓馥の別駕となり、騎都尉に任命された。

191年、韓馥はこの時代の諸侯の中で一番の臆病者で、袁紹に脅されると、一も二もなく州を彼に与えてしまった。沮授は田豊・審配・張郃らと袁紹に仕えることになった。可惜才能がありながら、韓馥・袁紹という凡庸な人物に仕えたのが、彼の不運だった。

韓馥と交替して冀州の牧となった袁紹に、沮授は渤海郡一郡の兵と冀州の大軍を率いて、東方青州の黄巾を平げ、軍を旋らせて黒山の張燕率いる賊を討ち、北に向かって公孫瓚と匈奴を破るよう勧めた。

そして冀・青・幽・并四州を併合し、各地の英雄を集め、百万の大軍を擁して天子を長安から迎え、洛陽に宗廟を再建して天下に号令すれば、敵対出来る者はいない、数年を経ずして功業は成る、と熱心に説いた。袁紹は「これこそ私の思っていたことだ」と喜び、上表して沮授を監軍・奮威将軍に任命した。

195年7月、董承・楊奉らは献帝を守って長安から東に向かい、12月には河東郡の安邑に達した。袁紹に命じられて河東に派遣された郭図は、天子を迎えて鄴に都を置くよう袁紹に勧めたが、彼は従わなかった。

沮授は「州郡の様子を見ると、外は義兵を名目としながら、内は互いに相手を滅ぼそうと考え、天子を案じて民衆を慈しむ者はいない。こういう時こそ天子を鄴に迎え、その命令を奉じて入朝しない者を討てば、誰がよく拒ぎ得ようか」と勧めたという。しかし郭図と淳于瓊は、それでは自分たちの動き天子によって牽制されると反対した。

沮授はなおも、「今、朝廷を迎えるのは至義であり、時宜を得た大許である。もし早くこれを図らなければ、必ず人に先んじられる。そもそも権謀とは機会を逃さぬことに在り、また功業は敏捷さに懸かっているのだ」と説いたが、袁紹は用いることが出来なかった。初め、沮授が袁紹に見えた時、その案を大いに喜んでおきながらである。この辺が、部下の進言をよく用いた曹操との大きな違いだった。

そうこうする間に、荀彧・郭嘉の意見を容れた曹操は、天子を許に迎えて河南を手中に収めた。

199年、袁紹は易京で公孫瓚を滅ぼし、方南の袁譚を外に出して青州を治めさせた。袁譚の器量が一州を治めるには足りないと知っていた沮授は「必ず禍いの始まりとなりましょう」と諌めたが、これも用いられなかった。さらに袁紹は「息子たちをそれぞれ一州に拠らせてその能力を見たい」と言って次男袁煕に幽州を、また三男袁尚が幼かったので甥の高幹に并州を治めさせた。

200年、許を襲おうとした袁紹に、沮授は田豊とともに反対した。前年の戦役で国力を消耗したから、ここ数年は穀物に力を入れて国力の充実を図るべきだ、というのであった。これに対して審配・郭図は出兵を主張し、沮授の案は安全のみに傾いて、臨機応変の策を缺いていると避難した。袁紹はこれに従った。

さらに審配・郭図は「沮授は内外を統轄して、声威は三軍に轟いています。もし、力を得てその権限が君主並になれば、亡国に繋がります。その上、外部で軍を統御する者を、内政に関与させてはなりません」とそしった。袁紹は疑心を抱き、監軍の権限を三分割して沮授・郭図・淳于瓊にそれぞれ一軍を司らせ、南に向かった。

いよいよ出発という時、沮授は一族を集めて財産を分与し、「勢いがあれば威力はあらゆるものに及ぶが、これを失うと一身すら保てない。哀しいことだ」と言い、袁紹は到底曹操に敵し得ないと弟に語った。

袁紹が黄河を渡ろうとした時、全軍を率いて進むのは危険だと諌めたが、これも用いられなかった。渡河に際して沮授は「上はその野心を満たそうとし、下は功を挙げようとはやっている。悠悠たる黄河よ、私はもう帰れないのか」と嘆いた。

200年10月、袁紹は全滅に近い大打撃を受け、沮授は捕らえられた。沮授と昔なじみだった曹操が、「動乱以来十二年、まだ安定していない国家を君とともに何とかしようではないか」と言うと、沮授は「叔父も母も弟も袁氏に命を托しています。もし公のお情けが得られるならば、速やかに私を死なせていただきたい」と答えた。

曹操は「わたしが早く君を得ていたならば、天子の平定は考えるまでもなく出来たのに」と嘆息した。

その後、沮授は袁氏の許に帰ろうとして失敗し、殺害された。享年不明。


評価

沮授の知略は、あるいは諸葛亮・周瑜・陸遜ら名うての謀臣に引けを取らぬものがあったと言えるが、袁紹を主と仰いだことが、彼の運命を暗転させてしまった。

孫盛は「田豊・沮授の計略は、前漢の高祖の謀臣だった張良・韓信にも等しかった。しかし臣下として暗君に仕えてばかりに覆の禍いを招いてしまった」と残念がっている。

袁紹伝に引く『献帝伝』には、献帝奉戴は郭図の提案ではなく、沮授によるものだと記されている。


演義

『三国志演義』における沮授は、当初は韓馥の部下だったことについて触れられていない。ほぼ史実と同様の顛末を辿っており、悲劇の参謀として散っていった様子が描かれている。ただ曹操との戦いでは、持久戦略が袁紹に受け入れられなかったことに不満を抱き、他の諸将と連携しようとしない場面もある。

官渡の戦いでは、持久戦術を説いたものの、受け入れられずに拘禁されてしまう。さらに獄中から、不吉な星の出現について袁紹に知らせたが、これも無視されている。袁紹の敗戦後、曹操の降伏勧告に従わず死を選ぶのは、史実の通りである。また、曹操が「忠烈沮君之墓」と記した墓碑を黄河の渡し場に立てて、その死を悼む場面が描かれている。