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後漢伝


淳于瓊 仲簡じゅんうけい ちゅうかん

姓名淳于瓊
仲簡
生没年? - 200年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評袁紹軍の都督の一人で、官渡の戦いで敗れた将軍
主な関連人物 袁紹 沮授 郭図 
関連年表 188年 佐軍校尉となる
199年 都督となる

略歴

淳于瓊、字を仲簡といい、豫州潁川郡の人である。

188年10月、大将軍何進の上奏にて、霊帝自ら平楽観で西園八校尉を抜擢して任命した。曹操、袁紹らも含めて淳于瓊が佐軍校尉となった。

霊帝が崩御すると、董卓が専横して政権を握ったことから中央から逃れ、袁紹につき従っていった。

195年、監軍沮授が、献帝を迎え入れるように袁紹に進言したが、淳于瓊は郭図とともにこれを反対して、袁紹はけっきょく献帝を受け入れなかった。

199年、沮授と不仲だった郭図が袁紹に諫言して、監軍が三都督に分割されると、淳于瓊は沮授、郭図とともに都督となった。

200年、袁紹は黎陽に進軍し、顔良を派遣して白馬にいる劉延を攻撃させた。曹操が劉延の救援にかけつけ、顔良と戦い、これを破って顔良を斬り殺した。袁紹は黄河を渡って、劉備と文醜に攻撃させた。曹操はまたもはこれを撃破して文醜を斬り殺した。

10月、大将二人を殺されたため、軍勢は大恐慌に陥った中、袁紹は沮授の持久戦への意見を取り入れず、進軍しつづけて曹操の陣を破って持ちこたえた。袁紹は、淳于瓊を筆頭に、督将の眭元進、騎督の韓莒子、呂威璜、趙叡らに一万余の軍兵を統率させ、輸送車を迎えに北へ赴かせた。

淳于瓊は、袁紹の本隊を去ること四十里、烏巣に宿営した。

離反した許攸が曹操に密告したため、淳于瓊の軍勢の警備が甘いことを知った。曹操はそこで曹洪に留守させ、みずから歩兵・騎兵五千をひきいて、夜闇に乗じて潜行し、淳于瓊を襲撃した。けっきょく淳于瓊は撃ち破られ、曹操軍の楽進に斬られた。他の四将もことごとく斬り殺された。


逸話

『曹瞞伝』において、烏巣の陣を落とされた淳于瓊は、鼻を削がれて生け捕りとされてしまったという。連行されてきた淳于瓊に曹操が「なぜ君は敗北したのか」と聞くと、淳于瓊は「勝敗は天に委ねるものである。何を問うことがあるのか」と答えた。その潔さを認め、曹操は淳于瓊を帰服させようとしたが、先に帰服した許攸が「鏡を見る度に淳于瓊は我らに恨みを抱くでしょう」と讒言したため、斬首されたという。

『後漢書』「何進伝」によると、西園八校尉の佐軍校尉とあるが、『山陽公載記』によると、右校尉の淳于瓊とある。


演義

『三国志演義』では、無能にして横暴な将軍として描かれている。酒好きの淳于瓊は烏巣で諸将と連日酒宴を開き、任務を放棄してしまう。そのため曹操の襲撃にはまともな抵抗もできずに捕虜にされ、曹操は淳于瓊の耳・鼻・手の指を斬り落とし、馬の背に括り付けて袁紹の陣営に送り返している。生き残った兵士から事情を聞いて激怒した袁紹は、有無を言わさず淳于瓊を処刑してしまう。