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曹操が丞相となる

後漢伝


笮融 さくゆう

姓名笮融
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生没年? - 195年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評略奪など暴虐非道を振るまい、佛教を振興した人物
主な関連人物 陶謙 劉繇 諸葛玄 
関連年表 194年 下邳の相となる

略歴

笮融といい、丹楊郡の人である。

初め数百人を集めて長江を渡り、徐州の陶謙に身を寄せた。

笮融に広陵・彭城の物資運漕の監督をさせたところ、勝って気ままにふるまって人を殺し、広陵・下邳・彭城三郡の貢納品を自分の物にして資力を蓄えた。

そして大々的に佛教寺院を建立し、銅をいて人の形を造って金粉を塗り、美しい錦の衣服を着せた。

高い承露盤の下には幾層もの樓と閣道を作り、それは三千もの人数を収容できた。人々に佛経を読むことを義務付け、郡内や近辺の郡に「佛教に心を傾ける者には出家を許す」と布告し、一般の賊役を免除して寺に人を集めたので、遠近より訪れた者は五千余戸にも達した。

灌仏会の時は多くの酒食を用意し、数十里にわたって道路に席を布きつめた。見物に来たり酒食をふるまわれたりする民衆は一万人にも及んで、莫大な費用となった。

193年、曹操が陶謙を攻撃すると、笮融は男女一万と馬三千頭を引き連れて、広陵に逃亡、太守の趙昱は彼を賓客の礼で待遇した。笮融は繁華な広陵に目を付けて酒宴の席で趙昱を殺し、兵を放って大掠奪を行ない、その品々を積んで広陵を去り、陶謙に圧迫されて秣陵に駐屯していた薛礼をも殺害した。

当時、淮南に占拠されていた。新たに朝廷から揚州刺史に任じられた劉繇は、袁術を憚って任地の揚州に赴かず、曲阿に駐留していた。

194年、劉繇は孫策に大敗し、豫章に拠ろうとして彭沢に軍を置いた。

そして笮融に命じて郡役所が置かれている南昌を攻撃させた。当時、豫章の情勢は複雑で、豫章太守周術が病死すると、諸葛玄が代わって太守となった。

しかし、朝廷は周術の死を聞くと、改めて朱皓を太守に任命し、諸葛玄と交替させた。劉繇は笮融に朱皓に加勢せよと命じた。笮融は朱皓と組んで諸葛玄を攻撃して戦死させた。

ところが笮融は南昌を襲って朱皓をも殺し、自立の勢いを示した。

裏切りを怒った劉繇の軍を一度は破ったものの、笮融は再度の攻撃はかわしきれず、山中に逃走した。その後、名もない民兵の手にかかって殺されてしまった。


逸話

『江表伝』には、笮融が孫策にしてやられた逸話を残している。彭城国の相の薛礼と、下邳国の相の笮融は、劉繇を主と仰いでいた。孫策を攻撃した笮融は忽ち五百の兵を失って、陣営から出ようとしなかった。一方、薛礼は囲みを破って逃亡した。

この間に、劉繇配下の于糜・樊能らが動きを見せたので、孫策はこれを討って男女一万余人を擒とし、再び長江を下って笮融を攻撃した。この時、孫策は股に矢傷を受けて馬に乗れなくなり、輿に担がれて陣に戻った。

これを逃亡者が「孫郎は矢に中ってなくなりました」と笮融に告げた。笮融は部下の于茲に兵を与えて攻撃させた。しかし彼らは孫策の伏兵が潜んでいる所に誘き寄せられて大敗、千余の首級を奪われた。孫策は敵陣間近まで行って、左右の者に「孫郎のお手並みはどうだ」と呼ばわらせた。

矢傷を負って死んだふりをして敵を誘いだす術を『三国志演義』は、周瑜が江陵を守る曹仁に用いて快勝したように換骨奪胎している。

佛教は前漢末期から後漢初期の間に、印度から西域諸国を経て中国にもたされた、と言われている。桓帝・霊帝の時代(146〜189)には、すでに佛典の漢訳も行われていた。

袁宏の『漢紀』は、「浮屠は『佛』である。西域の天竺国では佛道が行われている。漢言では『佛』とは『覚』のことで、人々に物事の道理を覚らせようとするもの。その教えは慈悲の心を修めることを主眼とし、殺生せず、専ら心を静かに保つことに努める。この境地に到達した人を『沙門』と言い、漢言の『息』である。心に欲する物を去り、無為に帰する人の謂である」と記している。

だが当時、佛教の教義がどれほど民間で理解されていたかは疑問であった。

後漢の襄楷は学問を好み、天文・陰陽の術にも詳しかった。桓帝に宛てた彼の上奏文の中に「宮中に黄老と浮屠の祠を建てたと聞きました」とあるのは、道教と佛教が同時に信仰されていたことを物語っている。

道教は現世の幸福、すなわち長寿・富貴・無病息災と、どうすれば人生の安らかな終焉を得られるかを目的とし、古来から伝わる宗教や民間信仰などを、ほとんど選ぶ所なく取り入れてきた。だから佛教が西方から伝えられた時も、人々は抵抗なくこれを受け入れたとかんがえられる。

『蜀書』諸葛亮伝によると、諸葛玄の就任は袁術に命じられたものであり、また同伝に引く『献帝春秋』は、諸葛玄の就任は荊州の劉表に命じられたものと記す。


演義

『三国志演義』では、笮融は劉繇の部将の一人となっており、史実の暴虐非道振りは全く影を潜めている。それどころか、孫策との戦いで敗走したために、劉繇に処刑されそうになった僚友の張英を弁護したりしている。しかしついには、孫策に敗北した劉繇とともに、劉表を頼って落ち延びている。その後は登場しない。