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呂布が董卓を殺害する

後漢伝


文醜 ぶんしゅう

姓名文醜
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生没年? - 200年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評官渡の戦いにおいて、荀攸の策にはまり戦死した勇将
主な関連人物 袁紹 顔良 
関連年表

略歴

文醜といい、字も出身地も不明である。

199年、麾下の将軍として顔良とともに並ぶようになった。

200年、袁紹は官渡までに兵を進めて、曹操軍と対峙して睨み合った。白馬において顔良が劉延を攻撃したが、荀攸の策によって背後を突かれて討ち死にした。曹操軍は白馬から西に移動した。

袁紹軍はこれを追い黄河を渡って南の延津に到達した。袁紹は文醜に対し、客将となっていた劉備とともに、曹操を追撃させた。

曹操軍の輜重隊が到着したので、迎撃すべきだと声があがった。しかし、荀攸は「これはおびき寄せる餌です」と動こうとしなかった。曹操は荀攸の策を用いた。

輜重隊を設置させ文醜をおびき寄せた。文醜の軍は乱れて陣形が崩れるのをみるや、曹操は好機として一斉にこれを攻撃した。けっきょく混乱の末、文醜は戦死した。


評価

文醜は顔良と並び称された袁紹麾下の優将だったが、字も本籍も不明であり『三国志』には伝は立てられていない。

孔融は、「三軍をおおわんばかりの勇を誇る顔良・文醜が統率する軍に勝つのは難しい」と言うと、荀彧は袁紹の諸臣の短所を指摘し、「顔良・文醜は大将の器量がない一騎駆けの武者で、一戦して擒に出来る」と答えた。まさにそのとおりとなった。


演義

『三国志演義』では、身の丈8尺、顔は獬豸(かいち、伝説上の神獣)のような姿とされる。顔良とは兄弟同然の親友という設定である。

界橋の戦い前後から登場し、界橋の戦いで公孫瓚に向かって突進し、後一歩でこれを生け捕るところまで追い詰めるが、袁紹の下から出奔していた趙雲に阻まれ取り逃がしている。

白馬の戦いで顔良が討ち取られると、仇を討つために劉備と共に出陣し、史実同様に輜重隊の罠にかかり敗走する。しかし、追撃してきた張遼を弓で射落とし、さらに徐晃をも退けている。だが関羽には打ち負けて、逃亡時に追撃を受け背後から斬殺されてしまう。