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曹操と劉備の英雄論

魏伝


文聘 仲業ぶんぺい ちゅうぎょう

姓名文聘
仲業
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号壮侯
伝評武勇と智謀に長けた名将にして忠義の士
主な関連人物 曹操 曹丕 
関連年表 208年 長阪の戦い
210年 江陵の戦い

略歴

文聘、字を仲業といい、南陽郡宛県の人である。子は文岱、養子に文休がいる。

劉表の大将として北方の防衛に当らせられた。劉表が死ぬと、その子の劉ソウが立った。曹操が荊州を征討すると、劉ソウは州をあげて降伏したが、文聘を呼んで行動をともにしようとした。文聘は、「私は州を保つことができませんでした。処罰を待つのが当然です」といった。

曹操が漢江を渡ると、文聘はやっと曹操のもとへ出頭した。曹操は訊ねた、「どうして来るのが遅かったのじゃ」文聘は、「過日、劉荊州を輔佐して国家につかえることができませんでした。荊州は滅びましたが、つねに漢川をよりどころとして守備し、領土を保全し、生きては若年のみなしご(劉ソウ)を裏切らず、死しては地下の方(劉表)に恥ないことを願っておりましたが、計画はどうにもならず、ここまできました。実際、悲痛の思いに、早くおめどおりする顔もなかったのです」かくてすすり泣き涙を流した。

曹操もこのため、しんみりとして、仲業は真に忠臣である、と手厚い礼をもって彼を処遇した。

文聘に兵を授け、曹純とともに長阪において劉備を追撃させた。曹操は先に荊州を平定したが、江夏郡は呉と境を接しており、民心は安定しなかった。そこで文聘を江夏太守とし、北方の兵を指揮させ、国境地帯の事を委任し、関内侯の爵位を授けた。

楽進とともに関羽を尋口に討ち、功績があったので、延寿亭侯に昇進させられ、討逆将軍の称号を加えられた。また、関羽の輜重を漢津に攻撃し、荊城においてその船を焼き払った。

夏侯尚とともに江陵を包囲したが、文聘は別に夏口駐屯の命を受け、敵の一隊とぶつかり、賊を撃退するのに功績を立て、後将軍に昇進し、新野侯にとりたてられた。

孫権は五万の軍勢をひきつれてみずから文聘を石陽に包囲し、激しく攻め立てたが、文聘は固守して動揺をみせなかった。孫権は二十余日にわたったが、やっと包囲を解いて去った。文聘は追撃して孫権を打ち破った。

文聘は江夏に数十年いたが、威光と恩愛があり、名は敵国にとどろき、賊は思いきって侵入しなかった。その後、江夏で逝去した。享年不明。


評価

孫盛の評では、臧覇とともに称えて、「忠孝の道は一つである。臧覇は若くして孝行の評判があり、文聘は涙で誠実さを示した。その結果、魏の武帝(曹操)は二人に対して同じ態度をとり、二方面の任務を彼らにまかせた。ただ武勇のある者があわただしい戦闘の中で認められただけではないのだ」としている。


演義

小説『三国志演義』においては、赤壁の戦いの水軍の将をつとめ、また徐盛の計略によって大敗を喫した際に、曹丕を命がけで逃がす役を演じている。