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魏伝


臧覇 宣高ぞうは せんこう

姓名臧覇
宣高
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号威侯
伝評曹操に帰服して忠義を全うし、袁紹や孫権から固守した武人
主な関連人物 曹操 曹丕 
関連年表 184年 黄巾賊討伐
198年 曹操に帰順する 青・徐州を統治する
205年 袁譚征伐
217年 濡須口の戦い
219年 都督青州諸軍事となる

略歴

臧覇、字を宣高といい、泰山郡華県の人である。子は臧艾、臧舜らがいる。

父の臧戒は県の獄長となったが、法をたてに太守がかってに人を殺そうとしたのを聞き入れなかった。太守はたいそう腹を立て、臧戒を逮捕して役所につれてこさせた。そのとき、護送の者が百余人いた。臧覇は十八歳であったが、食客数十人をひきつれ、ただちに費西山の山中において彼をむりやり奪い返した。

そのまま父とともに東海に亡命したが、この事件のため彼の勇敢さは聞こえわたった。

黄巾の乱が起こると、臧覇は陶謙に従って彼らを攻撃して打ち破り、騎都尉に任命された。かくて徐州で兵をかり集めたが、孫観、呉敦、尹礼らともに軍勢を集め、臧覇が首領となって開陽に駐屯した。

曹操が呂布を討伐したとき、臧覇らは兵をひきいて呂布を助けた。呂布がとらえられたあと、臧覇は身を隠した。曹操は懸賞金を出して探し臧覇をつかまえたが、あってみると彼が気に入った。臧覇に命じて呉敦、尹礼、孫観、孫康らを招かせたが、皆、曹操のもとに出頭した。曹操は臧覇を琅邪の相とし、青・徐の二州をさいてそれを臧覇に委任した。

曹操がエン州にいるとき、徐キュウと毛キを将軍とした。エン州が乱れると、二人は反逆した。のちにエン州が平定されると、亡命して臧覇を頼った。曹操は劉備に話をし、臧覇に二人の首を送り届けるように話をさせた。臧覇は、「私がよく独り立ちしていられる理由は、そのような信頼を裏切ることをしないからです。私は公より生命保全のご恩を受けておりまして、命令に背く勇気はございません。しかしながら王者・覇者となられる君主には道義を述べてもよいとか。どうか将軍には彼らのために弁明してやってください」劉備は臧覇の言葉を曹操に語った。曹操は歎息をつき、臧覇に向かって、「これたよって来た者をかばうことは古人の行なった事であるが、君がよくこのことを行なったのは、わしの願望でもある」そこで、徐キュウ、毛キをいずれも郡守とした。

当時曹操は袁紹と対峙しているところであったが、臧覇はしばしば精鋭の兵をひきいて青州に侵入した。そのため曹操は袁紹との戦いに専念し、東方のことを気にかけずにすんだ。

曹操が南皮において袁譚を撃ち破ると、臧覇らは祝賀に集まった。臧覇はその機会に、自分の子弟と諸将の父兄家族をギョウに行かせるよう要請した。

東の州に騒動が起こると、臧覇らは道義を守って暴虐を征伐し、青州をすっかり平定した。その功績は最大で、列侯にとりたてられた。臧覇は都亭侯となり、威虜将軍の称号を加えられた。

また于禁とともに昌キを征討し、夏侯淵とともに黄巾残党の徐和らを討伐し、功績があって徐州刺史に昇進した。

つき従って孫権を討伐し、先陣となり、再度巣湖に入り、居巣を攻撃してこれを打ち破った。張遼が陳蘭を討伐したとき、臧覇は別に派遣されて皖まで行き、呉の韓当を破り、孫権の陳蘭救助を不可能にしようとした。孫権は数万人を船に乗せて派遣し、兵を分けて陳蘭を救援させたが、臧覇の軍が韓当を破ってすでに舒にいると聞くと退却した。

張遼はけっきょく陳蘭を打ち破った。臧覇はつき従って孫権を濡須口に討ち、張遼とともに先鋒となったが、途中大雨にあった。水位は高まり、孫権の軍船が次第に進んで来て、将兵は落ち着かなかった。張遼は引き上げようとしたが、臧覇はそれを止めて、曹操からの事態への対処を待つことを進言した。翌日はたして命令があった。張遼は帰りつくと、そのことを曹操に語った。曹操は彼を誉め、揚威将軍に任命し、節を与えた。

のちに孫権が服従を願いでると、曹操は帰還したが、臧覇を留めておき、夏侯惇らとともに居巣に駐屯させた。

曹丕が王位につくと、鎮東将軍に昇進し、武安郷侯に爵位が昇り、都督青州諸軍事となった。帝位につくと、開陽侯に爵位が進み、良成侯に国がえさせられた。

曹休とともに呉を討伐し、呂範を打ち破った。

曹丕は臧覇の軍が先にかってに去り、このように盛んな意気を示したことに疑念を抱いた。かくて東に巡行したおり、臧覇を中央に召されて兵権をとりあげ、執金吾となり、位特進となった。しかし軍事事件があるたびに、曹丕はいつも彼に相談した。

曹叡が即位すると、その代で逝去した。享年不明。


評価

この当時、都督州諸軍事となっていた者で曹・夏侯氏ではないのは臧覇のみであった。


演義

小説『三国志演義』では、呂布配下の八健将の1人として登場し、張遼に次ぐ序列第2位であった。濮陽での曹操との戦いでは、一騎打ちで曹操の部将・楽進と互角に渡り合い、さらに曹操を後一歩まで追い詰めるが、曹操軍の部将・典韋に撃退される。

徐州に移り、袁術の侵攻に際しては、張遼と共に雷薄軍を破った。曹操と呂布の最後の戦いでは、臧覇は泰山の山賊である孫観、呉敦、尹礼、昌キを味方に引き入れた。呂布が滅亡すると、臧覇は曹操に降伏し、昌キ以外の泰山の山賊も説得して曹操に降伏させる。なお史実では、孫観らは山賊ではない。

赤壁の戦い直前には、徐庶が流した韓遂・馬騰の謀反の噂により、徐庶と共に曹操の命令で前線から離れた。その後、『演義』から姿を消す。