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曹操と劉備の英雄論

魏伝


袁渙 曜卿えんかん ようけい

姓名袁渙
曜卿
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評劉備、袁術、呂布など渡り、曹操に認められた人物
主な関連人物 曹操 
関連年表 196年 茂才に推挙される
198年 曹操に降り、南部都尉となる
216年 郎中令となる

略歴

袁渙、字を曜卿といい、陳郡扶楽県の人である。父は、漢の司徒であった袁滂、従兄弟は袁覇、子は袁侃、袁ウ、袁奥、袁準がいる。

当時、貴族の子弟たちには、法律制度を無視する者が多かったが、袁渙は清廉で落ち着きが有り、必ず礼に従って行動した。郡の功曹に任命すると、郡中の不正な官吏たちはみな自分から辞職してしまった。その後、公府に招かれ、優秀な成績で推挙され、侍御史に昇進した。ショウ(言偏に焦)の令に任命されたが、就任しなかった。

劉備は豫州刺史となると、袁渙を茂才として推薦した。その後、長江・淮河の中間地帯に避難し、袁術の任用を受けることとなった。袁術に諮問を受けるたびに、袁渙はいつも正論を吐いた。袁術は逆らうことができなかった。しかしながら、彼に敬意を表し、礼を尽くさないではいられなかった。

しばらくして、呂布が袁術の軍を阜陵に攻撃した。袁渙は袁術に従って出かけたが、けっきょく呂布に拘留されることとなった。

呂布は最初劉備と親密な間柄であったが、のちに仲違いした。呂布は袁渙に命じて劉備を罵言侮辱する書簡を書かせようとしたが、袁渙は承知しなかった。二度三度、そのことを強要したが、承諾しないので、呂布はたいそう腹を立て、武器で袁渙を脅迫した。袁渙は顔色を変えず、笑いながら冷静に答えた。呂布は気恥ずかしくなってとりやめた。

呂布が敗れて殺されると、袁渙は曹操に身を寄せることができた。袁渙は、南部都尉に任命された。

陳羣父子も当時呂布の軍中にいたが、曹操に会うと、みな平伏したが、袁渙だけは対等の挨拶をして、敗者の礼をとらなかった。曹操は袁渙に対して謹厳で遠慮深い態度をとった。そのとき、曹操はみなの者に呂布の軍中にあった物資を思いのままに取らせた。人々はみな車いっぱい積み込んだが、袁渙だけは書籍数百巻を取るだけであった。人々はそれを聞いて、大いに恥じいった。袁渙は身近な者に、「わしが行軍に参加し、軍隊に出発命令が下った場合、携帯兵糧とするだけのこと。これをわしのものとするのではない。これをたねに名声をあげたとなると大変残念だ」曹操はいよいよこのことから彼を尊重した。

当時、新たに人民を募集して屯田を開いたが、人民は嫌がって逃亡するものが多数あった。袁渙は曹操に献言して、民衆の意向を沿い、強制しないように述べた。曹操がその意見に従ったので、民衆はたいそう喜んだ。袁渙を梁国の相に転任した。

袁渙は諸県に命令して、政治を行う場合、教化訓戒を第一義とし、思いやりを示してのち実行した。外貌は温和であったが、心中ではよく決断した。病気になって官を離れたが、人民は彼を思慕した。

その後、朝廷に召し出されて、諫議大夫・丞相軍祭酒となった。

魏が建国された当初、郎中令となり、御史大夫の事務取扱いとなった。袁渙は曹操に進言し、国家の方策として書籍を大いに収集し、偉人の教えを広めて文徳を招くようにいった。曹操はその進言を嘉した。

当時、劉備が死んだと伝えた者がおり、臣下たちは皆慶賀した。袁渙は以前劉備によって官吏に推挙されたことがあったため、一人祝賀を表さなかった。

その後、在官数年後で、袁渙は亡くなった。享年不明。


評価

袁渙は、はなはだ多くの賜りを受けたが、すべてそれらを費消し、家に貯えず、土地財産などまるで眼中になかった。不足すれば、不足分を他人から取り立て、疑惑をもたれない行動を心がけたわけではなかった。それなのに、当時の人々は彼の清潔さに感服した。

没年は不詳であるものの、曹操が魏王となった建安21年(216年)から曹操が没した建安25年(220年)までのいずれかの年と推測している。


演義

袁渙は、小説『三国志演義』には登場していない正史のみの人物である。