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劉備が帝位に就き蜀漢建国

魏伝


夏侯惇 元譲かこうとん(かこうじゅん) げんじょう

姓名夏侯惇
元譲
生没年? - 220年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型O型
諡号忠侯
伝評曹操に絶大な信頼を得た忠義の士
主な関連人物 曹操 夏侯淵 曹仁 夏侯楙 
関連年表 189年 董卓討伐に参加する
190年 折衝校尉・東郡太守となる
198年 呂布討伐
199年 河南尹となる
206年 高幹・張曼の乱を平定
216年 濡須口の戦い
220年 魏国大将軍となる

略歴

夏侯惇、字を元譲といい、沛国ショウ[言焦]県の人で、夏侯嬰(前漢黄祖の将軍)の後裔である。曹操と夏侯淵の従兄弟に当たる。子は、夏侯充、夏侯楙、夏侯子臧、夏侯子江。弟に夏侯廉がいる。演義では夏侯恩という弟も登場する。

十四歳のとき、先生について学問したが、その先生を侮辱した男がいたので、夏侯惇はその男を殺害した。この事件により、激しい気性の持ち主として有名だった。

曹操が兵をあげた当初から、夏侯惇はいつも裨将軍として、征伐につき従った。

190年、司馬に任命され、曹操とは別に白馬に駐屯させて、折衝校尉に昇進し、東郡太守の役も受け持った。

曹操が陶謙討伐を行ったときには、あとに留めて濮陽の守備にあたった。張バクが謀反して呂布を迎え入れた際に、曹操の家族はケン城にいた。夏侯惇は軽装備の軍勢をひきいれて、ケン城へ赴く途中、呂布とばったり出くわし、交戦した。呂布は撤退して、そのまま濮陽に入城し、夏侯惇軍の輜重を襲奪した。その後、夏侯惇は捕えられ人質となってしまった。しかし、夏侯惇の将、韓浩の働きで人質から解放された。

曹操が徐州から帰還すると、夏侯惇は呂布征伐のお供をし、流れ矢にあたって左眼を負傷した。このことから、夏侯淵と区別するために盲夏侯とあだ名された。だが夏侯惇は嫌がり、鏡で自分の顔を見る度に怒って、鏡を投げ捨てたという。

198年、呂布配下の高順が沛にいた劉備を攻撃すると、その救援に赴いたが、自身も高順に敗れた。

陳留・済陰の太守を受け持ち、建武将軍の号を付加され、高安郷侯に封ぜられた。当時、大旱魃と蝗による虫害がおこった。夏侯惇はそこで太寿の河をせき止めるための提を築いた。みずから土をかついで働き、将校士卒をひきいて稲を植えるように指揮し、民衆はそのおかげをこうむった。

199年、河南尹に転任した。

204年、曹操が河北を平定したとき、大軍の後づめとして働いた。ギョウ城が陥落すると、伏波将軍に昇進し、河南尹を領することはもとのままとされ、法令に拘束されず、自己の判断で適宜な処置をとることを許された。

206年、并州の高幹が劉表と結んでいた張晟と共に反乱を起こし、河東の衛固・范先がこれに呼応すると、曹操は夏侯惇を彼らの討伐に向かわせた。河東太守の杜畿は、夏侯惇の軍が着く前に衛固らのもとへ行って油断させ、それから張辟に篭って彼らを防いだ。そこに到着した夏侯惇が高幹・張晟を撃破し、衛固・范先を捕らえて処刑した。

207年、朝廷は夏侯惇の前後にわたる功績をとりあげ、千八百戸を加増し、合計二千五百戸とした。

216年、孫権征伐に随従し、互いに被害を出したために和睦が成立した。曹操は許昌に帰還する際に、夏侯惇を揚州方面全二十六軍の総司令官に任命。居巣湖辺に留め、曹仁・張遼・臧覇・司馬朗らを率いさせた。その直後、孫権は曹操に対して臣従の意を示した。

219年、曹操は摩ヒに陣を張った際に、夏侯惇を召寄せて常に同じ車に乗って出かけ、特別に親愛と尊重の意を示し、寝室の中まで出入りさせた。諸将のうち、彼に比肩する者はいなかった。

220年正月、曹操が亡くなり曹丕が魏王を継ぐと大将軍に任命されたが、同年の数ヶ月後、曹操の後を追うかのように病に倒れ、この世を去った。


評価

『三国志』では夏侯惇の前線での武勲はあまり書かれておらず、むしろ民政官や留守司令官としての功績が多く記されている。明帝紀など他の人物の伝には、具体的ではないものの、武功が非常に高かったということが記されており、前線での戦いは苦手としながらも後方での実務を得意とした武将であったことが伺える。

性格は清潔で慎ましやかであり、お金が余れば人に配り、日頃から学問や鍛錬に励んだという。許昌に最近まで残されていた夏侯惇の陵墓を発掘した際には、埋葬品がたった一振りの剣しかなかった。

曹操は「不臣の礼(配下として扱わない特別待遇)」として、夏侯惇に対して魏の官位を与えようとしなかったが(夏侯惇は魏王に即位した後の曹操の配下では唯一漢の官位に就いており、朝廷での立場は曹操と同列であった)、夏侯惇は自分には過ぎた扱いとしてこれを固辞、魏国の前将軍の位を拝命し、臣下の礼を取っている。


見解

一般的に、夏侯惇というと隻眼の将軍といった印象があるが、この夏侯惇像をいっそう強くする挿話の舞台となるのは、その後の呂布との戦いである。この戦いの最中、呂布の将を追撃する夏侯惇を陣中から確認した敵将・曹性は、矢を放ち夏侯惇の左目を射抜いた。この時、夏侯惇は刺さった矢を眼球諸共引き抜き、「父之精母之血不可棄也(父の精、母の血、棄つるべからざるなり)」と叫びこれを喰らい、その後に左目を射抜いた曹性を次の矢を番える暇もなく顔を突き刺し、討取ったという。孔融が禰衡を曹操に推挙した際、禰衡は曹操を筆頭に臣下の言行を様々に言い連ねているが、夏侯惇は「五体満足」と皮肉られた、という挿話も演義には見られる。