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打倒董卓を掲げ曹操が挙兵

魏伝


陳矯 季弼ちんきょう きひつ

姓名陳矯
季弼
生没年? - 237年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号貞侯
伝評客観的に物事を判断し、曹三代から信任された人物
主な関連人物 曹操 曹丕 曹叡 
関連年表 213年 丞相長史となる
215年 尚書となる
220年 尚書令・高陵亭侯となる
226年 東郷侯となる

略歴

陳矯、字を季弼といい、広陵郡東陽県の人である。子は陳本、陳騫、陳稚がいる。

動乱を避けて江東および東城に赴いたが、孫策と袁術の任命を辞退して本籍の郡に帰った。

太守の陳登は要請して功曹にとりたて、陳矯を許へ行かせたが、陳矯に向かって「許の地の議論では、わしに対する評価が不充分じゃ。足下は観察して、帰ってから教えてくれ」といった。陳矯は帰って、「遠近の議論を聞くと、明府は驕慢でうぬぼれていると幾分思われているようです」といった。陳登は、「そもそも奥向きがなごやかでむつまじく、徳をもち品行すぐれている点では、わしは陳紀兄弟を尊敬している。淵のごとく清く玉のごとく潔らかで、礼にかない法がある点では、わしは華子魚を尊敬している。品性が清潔で整い悪を憎み、見識があり義心がある点では、わしは趙元達を尊敬している。見識広く記憶力強く、人並み外れ卓絶している点では、わしは孔融を尊敬している。傑出した雄姿をもち、王覇の才略を具えている点では、わしは劉備を尊敬している。尊敬している者がこれほどあるのに、どうして驕慢になることがあろう。余人は小者、またどうして問題とするにたろう」といった。陳登の平生の気持ちはこのようであったが、陳矯を深く尊敬し、友人として遇した。

郡が孫権に攻められ匡奇で包囲されると、陳登は陳矯に命じて曹操に救援を要請された。陳矯は曹操に進言して、地形有利であるから守るのに適し、仁愛豊かにして徳を高めて威光を養うようにいった。曹操は陳矯を評価し、彼を留め置こうとした。陳矯は辞退して、陳登の救援に赴きたいと願い、赴いた。呉軍が引き退いたあと、陳登は敵の虚をつく伏兵を数多く設け、兵を指揮して逃走する敵を追撃し、大いにそれを打ち破った。

曹操は陳矯を召し寄せて司空掾属とし、相の令、征南長史、彭城太守、楽陵太守、魏郡の西部都尉に任命した。

曲周の住民の父が病気になったとき、子は牛を犠牲に捧げて祈祷した。県では法律にこだわり死刑にしようとしたが、陳矯は「この男は孝子だ」といい、上奏文をたてまつって彼を赦免した。

魏郡太守に移った。当時、牢獄につながれ判決を待っている囚人が四桁の数にのぼっており、何年も未決のまま放置されている者があるほどであった。陳矯は、周には三典の制度があり、漢は三章の法を約束した今、刑の軽重を正しく適用するというたてまえを重視して、長期間未決のまま拘束するという弊害をおろそかにしているが、まちがいというべきであると考え、全部自分で罪状を調べ、一時の判決を下した。

大軍が東征すると、中央に入って丞相長史となった。軍が帰還すると、ふたたび魏郡太守となり、西曹属に転任した。

曹操につき従って漢中を征討し、帰還すると尚書となった。行列を進んでギョウに到着する前、曹操は洛陽で逝去した。

群臣は常例にこだわり、太子の即位は天子の勅命を持ってからにすべきだと主張した。陳矯は、「王が外で逝去され、天下は恐慌をきたしております。太子は喪を断って即位され、遠近の期待をつなぎとめるべきだと存じます。それに寵愛を受けている御子(曹彰)がお側におられます。互いの間で争乱でも起これば国家は危機に陥りますぞ」といった。即座に儀式に必要な官をそろえ儀礼を整え、一日のうちにすべてを処置した。翌朝、王后の命令をもって太子(曹丕)に策を賜って即位させ、大赦を思いきり行った。

曹丕は帝の御位に登ったのち、転任して吏部を担当し、高陵亭侯にとりたてられ、尚書令に昇進した。

曹叡が即位すると、東郷侯に爵位が昇進した。領邑は六百戸だった。また後に、侍中光禄大夫の位を加えられ、司徒に昇進した。

237年、陳矯は逝去した。享年不明。


評価

曹丕は、「陳季弼は国の重大事に臨んで、人並みはずれたすぐれた才略を発揮する。まことに一時代の俊傑である」といった。

明帝(曹叡)の時代、あるとき御車が突然尚書門を訪れた。陳矯はひざまずいて、「陛下にはどちらに行かれるおつもりですか」と曹叡に訊ねた。曹叡は、「ただ文書を調べてまわるつもりじゃ」と答えた。陳矯は、「これはまさに臣の職責でございまして、陛下が親臨されるべきではありません。もし臣がその職務にふさわしくないならば、どうか免職の処分をしてください。陛下はお帰りください」といった。曹叡は恥じ入り、車をめぐらし引き帰した。陳矯の誠実率直さはこのようであった。

『魏氏春秋』によると、陳矯は本来劉氏の子であったが、家を出て母方のおじの家をつぎ、もとの劉氏の一族と結婚した。徐宣はつねにそのことを非難し、朝廷においてその過失を論じた。曹操は陳矯の才能・器量を惜しみ、彼を擁護し傷をつけまいとした。そこで命令を下して、「動乱以来、風俗教化は衰微している。謗言をもって評価することはならぬ。建安五年(200年)より以前のことは、いっさい問題とするでない。だいたい前のことをあげつらって断罪するものは、その罪をもってこれを処罰する」といった。


逸話

『世語』によると、劉曄は陳矯より早く出世し帝の寵愛を受けていたが、それを利用して陳矯が権力をわがものにしていると讒言した。陳矯は心配してそのことを長男の陳本に相談したが、陳本はどうしてよいものかわからなかった。次男の陳騫は、「主上は聡明におわし、大人は大臣であられます。今もしお気にめさなくとも、三公になれないだけです」といった。数日後、帝は陳矯にめどおりを許された。陳矯はまた二人の子に訊ねた。陳騫は、「陛下のお気持ちがほぐれましたので、大人に会われるのです」といった。参内したあと、一日中会談した。帝は、「劉曄が君のことをとりざたしたので、朕は君を調査していたのだ。朕の心はもうすっかり了解した」といい、金ののべ板を陳矯に授けた。陳矯が辞退すると、帝は、「わずかな下賜と思うなよ。君はすでに朕の心を知ったが、君の妻子がまだ知らないのを配慮したからなのだ」帝は国家のことを心配し陳矯に訊ね、「司馬公(司馬懿)は忠義・公正で国家を担う臣といってよいであろうな」といった。陳矯は、「朝廷の期待を集めていますが、国家となればまだわかりません」と答えた。