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曹操と劉備の英雄論

魏伝


夏侯淵 妙才かこうえん みょうさい

姓名夏侯淵
妙才
生没年? - 219年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号愍(びん)侯
伝評奇襲攻撃や兵糧監督などの後方支援を得意とする軍人
主な関連人物 曹操 夏侯惇 夏侯覇 
関連年表 184年 黄巾の乱
200年 官渡の戦い
209年 盧江の乱
211年 潼関の戦い
216年 漢中平定
219年 定軍山の戦い

略歴

夏侯淵、字を妙才といい、夏侯惇の族弟であった。子は、夏侯衡、夏侯覇、夏侯称、夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。

曹操が故郷にいたころ、県の長官にまつわる事件で罪になったことがあった。夏侯淵は身代わりとなって重い罪を引き受けたが、曹操がうまく救出してくれたので、助かることができた。

曹操は兵を挙げると、夏侯淵を別部司馬・騎都尉に任命して随行させ、陳留・頴川の太守に昇進させた。

200年、袁紹と官渡で交戦したときには、督軍校尉を代行させた。袁紹が敗北したあと、エン州、豫州、徐州の兵糧を取り仕切らせた。当時、軍には食糧が乏しかったが、夏侯淵が絶することなく輸送したため勢いをもりかえした。

昌キが謀反を起こしたとき、于禁を派遣してこれを攻撃させたが、攻め落とせないでいたため、夏侯淵が協力した。かくて昌キは于禁のもとに降伏してきた。夏侯淵は帰還すると、典軍校尉に任命された。

済南郡と楽安郡の黄巾賊の徐和、司馬倶らが城を攻撃し、県の高官を殺害したので、夏侯淵は軍兵を率いて、これを攻撃し、うち破って徐和を斬り殺した。諸県を平定した。

209年、夏侯淵は行領軍に任命された。夏侯淵は諸将を指揮し、盧江郡の反乱者雷緒を攻撃して打ち破った。また行征西護軍に任命され、徐晃を指揮して太原郡の賊徒を攻撃させた。頭目の商曜を斬り、根城を破壊した。

韓遂らの征伐に随行し、渭南において交戦した。朱霊を指揮して氐族を平定した。その後、曹操と安定で合流し、楊秋を降伏させた。

212年、夏侯淵は行護軍将軍に任命され、朱霊と路招らを指揮し長安に駐屯した。南山の賊徒劉雄を撃破し、韓遂・馬超の残党梁興を包囲し、攻め落として梁興を斬り殺した。博昌亭侯に封じられた。馬超が冀県にいる涼州刺史の韋康を包囲すると、夏侯淵は救援に向かったが、韋康は敗北した。馬超と交戦したが、負け戦となり、さらに氐族が反乱したため、軍隊を引き上げ帰還した。

214年、趙衢と尹奉らが馬超を討ちとろうと計り、姜叙が兵をあげ呼応した。趙衢らは、馬超を騙して攻撃し、馬超の妻子を皆殺しにした。馬超は漢中に逃亡し、また戻ってきて祁山を包囲した。夏侯淵は張コウを派遣し、馬超を撃退した。夏侯淵は羌族を攻撃して、多くを捕虜にした。救援にかけつけた韓遂軍を撃ち破り、残った軍勢を降伏させた。この功績により、夏侯淵は仮節となった。

216年、長安に帰還してから、下弁にいる氐族と羌族を攻撃し、穀物十万石以上を没収した。曹操が張魯討伐に西征したとき、夏侯淵は休亭で合流した。漢中が平定されたので、夏侯淵は、張コウと徐晃を指揮して、巴郡を平定させた。曹操が帰国すると、夏侯淵は漢中の守備を任され、征西将軍に任命された。

218年、劉備が陽平関に陣をしいたため、夏侯淵はこれを防ぎ、にらみ合いは数ヶ月も続いた。

219年、劉備の部隊はついに定軍山の本営にまで至り、夏侯淵は自らこれと対峙した。張コウが劉備軍に攻撃され、負け戦となったので、夏侯淵は守る陣営から、半分の兵士をわけて救援にかけつけたが、敵の計略で襲撃され、黄忠と交戦して戦死した。


評価

軍の拠点間の迅速な移動や奇襲攻撃や兵糧監督などの後方支援を得意とし、その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた。

夏侯淵はしばしば戦勝を収めているものの、曹操は「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは常に知略を用いよ」と戒めていた。


演義

小説『三国志演義』では、曹操の親族、夏侯惇の弟として早くから登場し、剛直で弓術に長けた猛将として描写されている。銅雀台落成の余興では、的に当たった4本の矢の真ん中を射抜く腕前を披露。

彼の戦死を聞いた曹操は嘆き悲しみ、激怒する。