三国志による三国志好きのための三国志総合情報サイト

登録人物伝 326 名 | 31人が閲覧中

三国志.jp[三国志総合情報サイト]
月間キーワード 5月の出来事
諸葛恪が一世一代の失態

魏伝


孔融 文挙こうゆう ぶんきょ

姓名孔融
文挙
生没年153年 - 208年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評曹操を非難して処刑された建安の七子の一人で孔子の子孫
主な関連人物 曹操 脂習 
関連年表 189年 北海の相となる

略歴

孔融、字を文挙といい、青州魯国曲阜県の人である。父は孔宙、兄は孔襃、子は名前が不明、娘がいる。

河南伊だった李膺は名声が高かったので訪問者が多く、当代優れた人か、代々の付き合いある人しか通さなかった。孔融は十余歳の時、李膺の人柄に触れたいと考え、門番に「私は李君とは通家の子孫である」といった。李膺は、「あなたの御先祖はかつて私どもとつきあわれたことがあるのか」と問うた。孔融は「そうです。先祖代々の孔子はあなたの御先祖と徳義を同じくした弟子、友人であります。とすれば私とあなたは何代もの通家です」一座の者はみごとな返答に感嘆した。

遅れてきた陳煒は、「小さい時に利口でも、大きくなってからもそうだとは限らない」といった。孔融は、「おっしゃるとおりなら、あなたの幼い時はさぞかし賢かったでしょう」李膺は大笑いをして、孔融は立派な人になるだろうと言った。

168年、宦官と知識人の間で激しい権力争いが展開され、宦官は知識人を逮捕した。そのうちの張倹は宦官から逃亡して、孔融の兄孔襃を頼ってきた。しかし兄は不在だったので、孔融は、「私でもお役にたてます」といって張倹を匿った。やがてこれを知られ、張倹は脱出したが、孔融と孔襃は逮捕された。二人は庇い合い、けっきょく兄孔襃は処刑された。

孔融は何進によって召し出され、北軍中侯・虎賁中郎将となった。

189年、何進は宦官に殺され、洛陽に入った董卓が政治の実権を握ると、孔融は敬遠されて北海の相に転任した。

徐州刺史の陶謙が亡くなるとその遺託に沿い、後任を引き受けるよう劉備を説得した。

後に孔融は曹操に身を寄せた。孔融は曹操を小馬鹿するような態度を取り、事あることにその施策や行為を批判し、揶揄した。楊彪の処刑を諫止した時のような正論も中にはあったが、当てつけがましい屁理屈が多く、曹操は日頃から孔融を嫌悪していた。

208年8月、たまりかねた曹操は荊州の劉表を討つ途中、孔融とその妻子ともども処刑した。


逸話

孔融には9歳の男の子と7歳の女の子の兄妹がいたが、二人は孔融が逮捕されたとき、すごろくをして遊んでいた。父の逮捕を知って立ち上がろうとしないので、どうしてか訊くと、「巣が壊されて卵が割れないなんてことがありますか」といった。子供なりに助かる見込みはないと覚悟したのであった。

その後、家の者が肉のスープをくれた。兄が、がつがつとそれを飲んだのを見て、妹は「今度の災難、私たちも長くは生きられないのに、よくも呑気に肉の味がわかるわね?(肉の味云々は孔子が古代音楽を聞いて三ヵ月間肉の味がわからなかった故事を含む)」と言った。それを聞いた兄はわっと泣き出して飲むのをやめた。これを人伝いに聞いた曹操はとうとう二人を殺した。捕り手が来た時、妹は兄に「もし死んでも物がわかるなら、父さま母さまに会えるわね。嬉しいじゃない」といった。子らは自分から首を差し伸べて斬られた。それを見て、痛ましがらぬ者はいなかった。


評価

『九州春秋』によると、孔融は北海にいるころ、自分の才能は世に高く、現代の俊傑より優れていると考えていた。孔融が任用する者は、風変わりで軽薄な才能の持ち主ばかりであった。学問がある人は見かけは敬意を払って礼遇していたが、彼らと国事を論じようとしなかった。敵が押し寄せても落ち着き払って読書や議論にふけって、城壁は崩されたので、孔融は山東へ逃亡した。このように才能をひけらかすのみで、事務処理はたける人であるが、政治に意を注がなかったので、ついに成功できなかった、として批判をしている。

孔融は「建安の七子」の一人であり、曹丕は『典論』の中で七人の名を挙げ、「孔融は文休も気品も、人より高く優れているが、議論の展開はうまくない。その倫理は文辞に及ばず、戯れまじえるに至った。しかし、優れている点では揚雄(学者)・班固(歴史家)のともがらである」といった。天下に寡って、孔融の文章を届け出るものがあれば、その都度黄金や絹を褒美にやった。孔融は詩・頌・碑文・議論文・六言詩・対策文(天子の試問に答える文)・上奏・檄文・教令(下々に出す布告)など、全て二十五篇を著した。

風変わりな人物を好み、自身も後に流行する清談に繋がるような、奇抜な発言が多かった。同じ直言居士として名声のあった禰衡を高く評価し、彼との議論の中で、子と親は水と水がめのようなもので、生まれる前において仮にその中に入っているに過ぎないと主張し、また飢饉に会った時、父親がくだらない人間なら、他の人物を助けて生かせというような、当時の儒教の主流的考えから外れた意見も述べている。

『後漢書』には「孔融は人の善行を聞けばわが事のように喜び、人の意見に採るべき点があれば必ず布衍(ふえん)して完成させる。面と向かって相手の短所を指摘するが、蔭ではその長所を称賛する。賢士を推薦し、多くの者を出世させた。善い人を知っていて薦めずにいることを、自分の過ちのように思っている」とある。