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劉備が帝位に就き蜀漢建国

魏伝


辛毗 佐治しんぴ さじ

姓名辛毗
佐治
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号肅侯
伝評常に物事を先に考えて諫言した参謀、政治家
主な関連人物 曹操 曹丕 曹叡 
関連年表 205年 議郎となる
220年 侍中・関内侯となる
226年 衛尉となる

略歴

辛毗、字を佐治といい、豫州頴川郡陽翟県の人である。兄に辛評、子に辛敞、妻に辛憲英らがいる。

辛毗は兄の辛評にともなわれて袁紹につき従った。曹操は司空になると辛毗を召し寄せたが、辛毗は命令に応じることができなかった。

202年、袁紹が死ぬと、袁譚と袁尚の間で、跡目を廻って激しく争いあった。形勢不利となった袁譚は、参謀郭図の意見を用いて辛毗を使者に立て、曹操に救援を求めた。

曹操は元々二人を勝手に争わせて、その間に荊州を討つつもりであった。辛毗に会った曹操は「袁譚は信用できるのか、袁尚は必ず勝てるのか勝てないのか」と問うた。辛毗は信義や詐術を云々すべきではなく、現在の情勢を諭すべきだと意見を述べた。辛毗は袁譚に仕える身でありながら、曹操に河北を奪えと教唆した。

204年、曹操はこれに従って、まず袁譚を助けて袁尚を破った。

205年、次いで南皮において袁譚を討ち取り、河北の平定に成功した。曹操は喜び、上表して辛毗を議郎に任命した。

辛毗が郭図の家族とともに曹操のもとへ向かったとき、兄の辛評の家族は残っていた。鄴の陥落の際に、袁尚の将軍審配は辛毗、郭図の仕業によると怒り、獄中の辛評の家族らは殺害された。やがて審配が捕虜になって引き立てられたとき、辛毗らは馬鞭でその頭を打ち、罵った。曹操の前でも審配は毅然として屈したいので、これを見て曹操は何とか助けたいと思った。しかし、辛毗らが号泣して処刑を請うたので、審配を斬った。

曹操は、曹洪に命じて下弁を攻撃させたとき、曹休とともに辛毗を補佐とした。曹操は曹洪の金銭に執着し、女が好きだったため心配していたので、「昔、漢の高祖は財貨をむさぼり好んだが、張良・陳平がその欠点を匡正した。今、佐治と文烈の心配は軽くないぞ」、辛毗と曹休に補佐責任の重さをいい含めた。帰還すると、辛毗は丞相長史となった。

220年、曹丕が帝位につくと辛毗は侍中に昇進し、関内侯を賜った。

曹丕は、冀州の士卒の家十万戸を河南に移住させようとした考えていた。民が蝗の害で餓えていた時であったので、群官はよくないと考えたが、曹丕の意思ははなはだ強かった。皆意見を言い出せない中で、辛毗は率先して意見を述べ強く諫言した。曹丕は耳を貸そうとしなかったものの、移住させる兵士を半数に留めた。

また、曹丕は狩猟を好み、雉打ちが好きであったが、辛毗はこれも強く諌めた。このため文帝が狩猟に出ることは稀になった。

223年、上軍大将軍の曹真が江陵の朱然を攻撃したとき、辛毗は軍師を兼務して参加し、帰還後、広平亭侯に封じられた。曹丕は呉を征討したいと考えた。辛毗はこれを諫言して出兵すべきではないと諭したが、けっきょく軍を起こした。しかし長江まで行って帰還した。

226年、曹叡が即位すると穎郷侯に封じられたが、辛毗は曹叡に信頼されていた中書監劉放、中書令孫資らとよしみを通じなかったため、追い出されて衛尉となった。

234年、諸葛亮が渭南に進出したので、司馬懿は諸軍を率いて迎撃した。曹叡は、持久戦を持ち込んで敵が食料不足となって引き揚げを狙い追撃せよと指示し、辛毗を大将軍軍師・使持節として派遣した。諸葛亮は女衣巾幗を贈って司馬懿を挑発したが、これらを憤る諸将を制して辛毗は出陣を許さなかった。

曹叡は御殿を造営中で、民衆は疲労していた。辛毗は上奏文をたてまつってこれを諌めた。曹叡はこれを中止した。

蜀軍が撤退したあと、帰還して衛尉に復職したが、その後死去した。享年不明。


評価

司馬懿は諸葛亮の挑発の際にしばしば進軍しようとしたが、辛毗は禁止してゆるさなかった。司馬懿は意志のとおり行動できたが、常に辛毗の指示に対して折れて出た。

陳寿の評によると、剛直公正で我が身の利害を顧みず直諫し、高貴な風格に迫るものがある、と評価している。


演義

『三国志演義』では名前は辛毘とされる。

袁譚の配下として登場し、史実と同様、曹操との使者に立ち、やがて曹操と通じるようになった。審配に殺害されたのは自身の家族であるということになっている。

その後、曹操の配下時には目立った活躍はないが、曹丕の代から諫言役として登場した。

蜀との戦いでは、齢80を超えている老人となっているが、諸葛亮の挑発により逸る魏軍の前に、鉞を担いで1人で立ちふさがって抑えた。その報告を聞いた諸葛亮は「ああ、その老人は辛佐治だ」と嘆き、自身の挑発が成功しないことを悟ることになった。