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魏伝


荀彧 文若じゅんいく ぶんじゃく

姓名荀彧
文若
生没年163年 - 212年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号敬侯
伝評人材推挙や数多くの献策で曹操を一大勢力にした参謀
主な関連人物 曹操 郭嘉 戯志才 司馬懿 
関連年表 192年 曹操に仕えて司馬となる
194年 呂布討伐
196年 漢の献帝を迎えさせる
200年 官渡の戦い
203年 万歳亭侯に封じられる

略歴

荀イク(イクは「或」の斜めの線に線を二つ加えたもの)、字を文若といい、頴川郡頴陰県の人である。兄に荀衍、弟に荀シン、子に荀惲、荀ギ、荀粲などがいる。容姿端麗な偉丈夫であった。

荀イクが若かったころ、南陽の何ギョウは彼を特別に評価して、王者補佐の才能を持っているといった。

189年、孝廉に推挙され、守宮令に任ぜられた。董卓の乱が起きると、地方に出て下役人に任命されたいと願い出、その後、官職を捨てて帰郷し、村の主だった年よりたちに、事変を予見して郷土を出るように進めた。ちょうど冀州の牧の韓馥が、彼らを迎えにやってきたが、郷土に執着した村人は留まり、荀イクだけが一族をひきつれて冀州へ向かった。

冀州で袁紹が韓馥の官位を奪い取ってしまっていたが、荀イクを上賓の礼によって待遇した。荀イクの弟の荀シンおよび同郡出身の辛評や郭図は、みな袁紹に任用を受けたが、荀イクは、袁紹がけっきょく大事業を成し遂げることができない人物だと判断した。

191年、荀イクは袁紹のもとを去って、曹操に身を寄せた。曹操は大喜びして、「わしの子房(前漢の名臣張良)である」といい、彼を司馬に任命した。

192年、曹操はエン州牧の官を受け、後に鎮東将軍になったが、荀イクはいつも司馬として随従した。このころ、策謀の士として戯志才を推挙した。

194年、曹操は陶謙征伐を行なったが、荀イクに留守中の事を一任した。ちょうどそのとき、張バクと陳宮がエン州をあげて謀反し、ひそかに呂布を迎え入れた。呂布が到着したとき、張バクは劉翊を使者に立てて荀イクに通告させたが、荀イクは張バクが謀反したのだと悟り、即刻兵を整え備えを固め、早馬を走らせて東郡太守の夏侯惇を召し寄せた。その後、エン州の諸城はすべて呂布に呼応した。荀イクは謀反に加担する前の郭貢と会見して説得させた。

荀イクは程イクとしめしあわせて、范県や東阿県を説き伏せ、結局三城を確保して、曹操の帰還を待った。曹操は徐州から帰還すると、濮陽にいる呂布を攻撃し、呂布は東へ逃亡した。

195年、夏に大飢饉が起こって人々は互いに食らいあった。

徐州牧の陶謙が死去すると、曹操は徐州を奪い取り、引き返して呂布を平定する意図を持った。荀イクは近隣周辺の州を安定させ、地盤を固めることを曹操に進言したので、これを採用した。曹操は充分に食糧を取り入れて、ふたたび呂布と戦い、兵を分けて諸県を平定した。呂布は敗北逃走し、かくてエン州は平定された。

196年、曹操は青州の黄巾の徒を撃破した。漢の献帝が河東から洛陽に帰還した。曹操が天子(帝)を迎えて許に都を置くことを検討すると、荀イクは、大義を持って英傑を招き寄せることは大徳義とし、朝廷を存立させて人民を掌握することを進言して、曹操に賛同した。かくて洛陽に行き、天子を奉迎して、許に住まわせた。天子は曹操を大将軍に任命し、荀イクは漢の侍中・守尚書令に昇進した。荀イクはつねに中枢にいながら厳正な態度を保った。

曹操は出征して都の外にいるときでも、軍事・国事に関するすべてのことを荀イクに相談した。荀イクは、策謀を立てられる人物として、荀攸と鍾ヨウを推薦した。戯志才が若くして死去すると、後任として郭嘉を推薦した。曹操は荀イクには人を見る目があると考えた。

曹操が天子を迎えて以来、袁紹は内心反抗の気持ちを抱いていた。袁紹は河北を併合して、強大さで天下に恐れるものはなかったので、ますますつけあがり、曹操に手紙を送って馬鹿にした。曹操はこれに激怒したが、普段は平然を装っていたが、荀イクは曹操に尋ねて手紙を見せてもらった。荀イクは、袁紹の性格、猜疑心にみちた人物であるといい、度量の狭さを指摘して、曹操には聡明で寛大な心を持って接し、適材適所で望むように進言した。また、袁紹を破るために、中原を制するための献策を薦めた。かくて曹操は大将軍の位を袁紹に譲った。

198年、曹操は張繍を撃ち破り、東方の呂布を生け捕りにして処刑し、徐州を平定したあと、袁紹と対峙することとなった。孔融は荀イクに、袁紹は広大な領土と強大な兵力を有していて、人材が揃っているので、これではほとんど勝つことは難しいといった。荀イクは、「袁紹の兵は軍法が整っていない。田豊は剛情で上に逆らい、許攸は貧欲で身持ちが治まらない。審配は独断的で計画性がなく、逢紀はむこうみずで自分の判断だけで動く。この二人は留守として後の事をまかせているのだ。もし許攸の家族が法律を犯しても、大目にみることができないから、許攸は必ず裏切るであろう。顔良と文醜は、器量が小さく、男一匹の武勇をもつにすぎない。一度の戦いで生け捕りにできよう。」と、袁紹の主な人物らをそれぞれ指摘した。

200年、袁紹と戦いつづけた。曹操は官渡を保持し、袁紹がこれを包囲した。曹操は兵糧があわや底を突かんばかりになったので、荀イクに手紙を送り、許に引き返し袁紹をおびき寄せるつもりだと説明した。荀イクが申し送って、勢いを保たなくては事変が起こると指摘し、奇策を用いる時期であると進言した。曹操はそこで思いとどまった。かくて、奇襲部隊によって、袁紹の別営を襲撃し、その大将の淳于瓊らを斬り殺したので、袁紹は退却した。

袁紹の大将審配は、許攸の家族が法律に違反したため、その妻子を逮捕した。許攸は腹を立てて袁紹を裏切った。顔良と文醜は戦いの中で首をとられ、田豊は諫言を行なったため、袁紹に処刑された。これらすべて、荀イクの予測したとおりになった。

201年、曹操は食糧が少なく、河北の袁紹と対戦するには不充分であった。袁紹は敗れたばかりで、まだ再起しない隙に劉表を討伐したいと考えた。荀イクは、袁紹は敗北して兵士の心は彼から離れているから、この機会を逃さず、困窮につけこんで平定することを進言した。すると曹操はふたたび黄河に陣取った。袁紹が病死すると、黄河を渡って袁紹の子の袁譚と袁尚を攻撃した。

203年、曹操は荀イクの前後にわたる功績をとりあげ、上表して万歳亭侯に封じた。

204年、曹操は冀州を治めたので、冀州を拠点に九州設置の論を進めようとした。荀イクは更に完全なる河北を平定することを進言して、洛陽を修理復興するように薦めた。曹操はこれに従い、九州設置をとりさげた。

208年、曹操は劉表を討伐しようとして、荀イクに相談した。その荀イクの計略どおり、敵に不意をついてまっすぐに宛・葉まで赴くと、劉表の子劉ソウは州をあげて曹操を迎え降伏した。

212年、曹操は、爵位を進めて国公とし、九錫の礼物を備えて、勲功すべきだとした。荀イクは、本来を朝廷を救い国家を安定させ、忠誠を保持し、君子は徳義(利益をもちいない)によるものだとし、これを諌めた。曹操はこのことがあってから、内心穏やかではいられなくなった。

おりしも孫権征伐が行われたが、曹操は荀イクに派遣を要請した。荀イクは丞相の軍事に参与した。曹操が濡須に到着したとき、荀イクは病気になって寿春に残留し、憂悶のうちに逝去した。享年50歳。

翌年、曹操はけっきょく魏公となった。

『魏氏春秋』によると、曹操は荀イクに食物を贈った。荀イクが開けてみると空っぽの器だった。そのため、荀イクは毒薬を飲んで自殺した、としている。


評価

同時代の人物の評価としては、司馬懿の「書物に書かれていることや遠方の出来事を見たり聞いたりしているが、百数十年間にわたって荀イク殿に及ぶ賢才は存在しない」というものや、曹操が天子に上表する際に文句した「荀イクの袁紹を亡ぼすときなど数多くの謀は、とても私の及ぶところではありません。先に下賜され記録されました爵位は荀イクのずば抜けた功績にふさわしくありません。どうか彼の領邑を古人並にしてくださいますように」などがある。その名は同時代においては極めて高かったことが見て取れる。

また、范曄は荀彧を後漢王朝に殉じた「忠臣」として評価して『三国志』に伝が立っているのを承知の上で、『後漢書』荀イク伝を著した。


見解

荀イクの死には謎が多く、自殺とも言われる。『魏氏春秋』である通り、曹操から贈られた食物が空っぽの器だったため、その意図を「お前はもう用済みだ」ととった荀彧は毒を飲んで自殺した、とある。しかしながら曹操が「荀尚書令の人物鑑定は、時が経てば経つほどますます信頼に値する。わしはこの世を去るまで忘れない」などといった事をこの出征で語っているという記述もあり、真意は計れないところである。

石井仁『曹操 魏の武帝』(新人物往来社、2000年)において「荀イクは天下統一のため天子でも利用しようというのだから漢朝の純臣ではない」「天下統一を目標とする荀イクが、赤壁の戦いでの敗北以降なりふり構わぬ覇権の追求に向かう曹操に反対したことで荀イクがきりすてられた」と評している。