三国志による三国志好きのための三国志総合情報サイト

登録人物伝 326 名 | 44人が閲覧中

三国志.jp[三国志総合情報サイト]
月間キーワード 8月の出来事
出師の表

魏伝


曹沖 倉舒そうちゅう そうじょ

姓名曹沖
倉舒
生没年196年 - 208年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号鄧の哀候
伝評齢僅か十余歳未満にして聡明で、曹操に溺愛された人物
主な関連人物 曹操 曹丕 曹彰 曹植 曹宇 
関連年表 208年 騎都尉となる

略歴

曹沖、字名を倉舒という。父は曹操、異母兄は曹昂、曹丕、曹彰、曹植、曹熊、曹鑠、同母弟は曹宇、曹據などがいて、第八子である。

年少ながら聡明で理解力があり、五、六歳にして、智慧のはたらきは成人のようなところがあった。

当時孫権が巨大な象を送り届けて来たことがあった。曹操はその重さを知りたいと思って、その方法を臣下たちに訊ねたが、誰もその原理を見出すことができなかった。曹沖はいった、「象を大きな船の上に置いて、その水のあとがついている所にしるしをつけ、それとみあう重さの物の載せれば、計算してわかりますよ。」曹操はたいそう喜んで、すぐさま実行した。

当時、軍事上・政治上の事件が多くあり、刑罰の適用は厳重を極めた。曹操の馬の鞍が倉庫に置かれていたが、ねずみのためにかじられた。倉庫係は死刑にちがいないと心配した。

曹沖は彼らに向かっていった。「三日間待ってそのあとで自首しなさい。」曹沖はそれから刀でもって単衣にねずみがかじったような穴をあけ、がっくりしたふりをし、心配そうな顔つきをしてみせた。曹操が彼に質問すると、曹沖は答えた、「世間ではねずみが衣服をかじると、その持主に不吉なことがあると申しております。今、単衣がかじられました。そのために心配して沈んでおります。」曹操は、「それはいいかげんな言葉にすぎぬ。苦にすることはない。」

突然、倉庫係から鞍をかじられた件を報告して来た。曹操は笑いながら、「子供の衣服は側に置いてもなおかじられている。ましては鞍は柱にかけてあるのじゃ」といい、一切責任を追求しなかった。

曹沖の仁愛と識見はすべてこのたぐいであった。

およそ刑罰に処せられるのが当然であるのに、曹沖がこっそりとりなしてやったおかげで救われ赦された者は、前後数十人あった。

曹操はたびたび群臣に向かって称揚し、後を継がせたいという意志を抱いていたが、十三歳のとき、建安十三年(208年)病気にかかった。

曹操は自身で彼のために命乞いの祈りをし、なくなるとひどく悲しんだ。曹丕が曹操の気持をなだめると、曹操はいった、「これはわしの不幸じゃが、おまえたちにとっては幸いじゃ。」彼について語るときは、いつも涙を流した。

甄氏のなくなった娘をめとってやりいっしょに葬り、騎都尉の印と紐を贈り、宛候曹拠の子の曹琮に命じて曹沖のあとをつがせた。


評価

217年、曹琮を鄧候にとりたてた。221年、曹沖は諡号の追贈して鄧の哀候とした。またさらに爵号を追贈して公とした。

『魏書』にいう。曹沖は刑罰に該当する者を見るたびに、いつもその者の無実の事情を探知してこっそりそれを処置した。それに勤勉な官吏が過失のため罪にふれた場合は、つねに曹操にそのものを大目にみてやるべきだと進言した。是非の判断力と仁愛の情は生まれながらのものとして具わっており、容・貌・姿は美しくて、人々とは違っていた。そのため特に目をかけられかわいがられたのである。

これに対して裴松之は、「容・貌・姿は美しい」というのは一つの範疇に属する言葉である。それを三つに分けているのは、やはり叙述の一欠点である。

孫盛はいう。『春秋』のたてまえでは、嫡子を立てる場合、年長者を立て、賢人を立てない。曹沖が生存していたとしてもなお立てるのは妥当ではない。まして彼がすでに死んでいるのに、この発言をするとは。『詩経』に「言葉を軽んずるのではない」というが、魏の武帝はそれを軽んじたのだ。

『魏書』に載せている辞令にいう、「これ黄初二年八月羽丙午の日(8日)、皇帝は申す。ああなんじ鄧の相候沖よ。昔、皇天はなんじが身に美を集められ、聡明な才能を若年にして完成させたもうた。当然長く幸福を授かり、よくその終わりを全うすると思うたに、どうしたわけか不幸にあい、早く世を去り若くしてなくなった、朕は天の秩序を受け、四海を保有し、身内のものすべて立てて王室の藩とした。ただなんじだけはこの栄誉に浴さず、そのうえ葬礼も充分ではない。追悼の思いに、いたましさでやぶれんばかりである。今、遺体を高陵に移し、使持節兼謁者僕射郎中の陳承をやって、爵号を追贈して鄧公とし、太牢の犠牲をもって祭る。魂に霊があるならば、この恩寵と栄誉を喜んでくれ。ああ哀しいことよ。」

『魏略』にいう。文帝(曹丕)はつねに「長兄の孝廉は自ずから限界があったが、もし倉舒が生きていたならば、わしはやはり天下を支配できなかったであろう」といった。