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魏伝


楊修 徳祖ようしゅう とくそ

姓名楊修
徳祖
生没年175年 - 219年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評後継者争いにおいて疎まれ、曹操に処刑された人物
主な関連人物 曹操 曹植 賈逵 丁儀 王凌 
関連年表 194年 倉曹属主簿となる

略歴

楊修、字を徳祖といい、弘農郡華陰県の人である。父は大尉楊彪、子は楊囂、孫は楊準がいる。楊脩とも表記される。

建安年間、孝廉に推挙され、郎中に任命されたが、曹操は要請して倉曹属主簿に任命した。この当時、軍事にも国政にも事が多かったが、楊修は内外のことをとりしきり、たずさわった事はすべて意にかなった。

魏の曹丕以下、いずれも争って彼と交友をむすんだ。またこの当時、臨菑候の曹植は利発さによってかわいがられていたが、楊修に心を寄せ、たびたび楊修に手紙を送った。

手紙にいう、「数日おめにかからないと、君のことが思われていらいらしてまいります。思いはこれと同じでありましょう。僕は幼少のころから辞賦が好きで、それから現在まで二十五年たちました。そのため現在の作者については、だいたい語ることができます。

昔、仲宣は漢水の南方にあってならびなきものとされ、孔璋は黄河の北方にあって鷹のようにはばたき、偉長は青州にあって名声をほしいままにし、公幹は海浜にあって文才をふるい、徳璉は大魏において才能を発揮し、足下は上京にあってあたりを見下しておられました。この当時、各人は霊蛇の珠を自分がもっていると思いこみ、各人は荊山の玉を自分が抱いていると思いこんでいました。

わが王はそこで天をおおう網を設けて彼らをつつみこみ、世界の果てまで手を伸ばして彼らをとりこみまして、今ではすべてこの国に集まっております。しかしながらこの数人の者でさえ、羽をふるえば彼方に飛び去り、一気に千里に天がけるというわけにはまいりません。孔璋の才能をもってしても辞賦には熟達しておらず、うぬぼれから自分では司馬長卿と同じ風格があると思いこんでいますが、たとえてみれば虎の絵を画こうとしてうまくいかずかえって犬の絵になってしまうようなものです。以前手紙を書いてそれをからかったのですが、逆に論文を書いて僕が彼の文章をほめたとさかんに述べております。そもそも鍾子期は音楽に対する真の理解を示したため、現在でもたたえられております。私が思いきっていいかげんな称賛をしないのは、後世の人々からものわらいとなることを懸念するからです。世間の人の書くものに欠点がないということは不可能です。僕は常々他人が自分の文章を批判し欠点を指摘してくれることを歓迎してまいりました。よくない点がありますれば、その時々に応じて改定できるからです。昔、丁敬礼は小品を書いたことがありまして、僕にそれを修飾してくれと申しましたが、僕の才能はあの人をこえることができないので、辞退して手をだしませんでした。敬礼はもうしました、『卿はなぜためらったりこばまれたりなさるのですか。文章の美しさは、私自身の責任にされるのです。後世の人の誰が私の文章に手を入れたとしるでしょう。』私は常々この悟りきった言葉に感心し、みごとな話だと考えております。昔、尼父の文章表現は、他の人と同じ程度でありましたが、『春秋』を制作いたしますと、子游・子夏といった弟子たちは一字も置きかえることができませんでした。それに人の作品にけちをつけても自分の言葉に欠点がないような人物に、私はお目にかかったことがございません。つまり、南威の容姿があってはじめて美人について論ずることができ、龍淵の鋭利さがあってはじめて刀のきれあじについて語ることができるのです。

劉季諸は才能が作者に及ばないのに、好んで人の文章にけちをうけ、長所・欠点をあげつらっております。昔、田巴は斉都の稷門の側で五帝をけなし、三王をとがめ、五覇をそしり、ひと朝の間に千人を服従させましたが、魯仲連にひとたび説き伏せられると、一生口をつぐんだとのことです。劉生の弁舌は田氏に及ばないのに対して、現在の仲連ともいうべき人物、それを探すことは困難ではありません。歎息しないでいられましょうか。人にはそれぞれ愛好するものがございます。蘭・シ・ソン・ケイの香りは、多くの人が好むものでありますのに、海浜には悪臭を放つ人のあとをついてまわる男がおりましたし、咸池・六英の演奏は、多くの人が楽しむものでありますのに、墨翟はそれを否定する議論をいたしました。それに同調するわけにはまいりませんが。今、僕が若いころ著わしました辞賦一篇をお送りいたします。そもそも街や道路で語られる話にも、必ずとりあげるべき点があり、車の轅をたたいて歌う農民の歌にも、風や雅に通ずるものがあるのです。一人の男の思想にも簡単に捨てきれないものがございます。辞賦はつまならぬ技芸であって、もともとりっぱな道義を称揚し、未来に明示するほどのものではございません。昔、揚子雲は先代漢においてほこを手に侍衛に当る臣にすぎませんでしたが、それでも『りっぱな人間の作るものではない』と申しました。私は徳のうすいものではありますが、烈候の位にとりたてられておりますからには、やはりみ国のために力をあわせ、人民のためにめぐみを行きわたらせ、永久不変の功業をうち立て、金石に刻まれるような勲功を残したいと念願しております。ただ筆や墨を用いることをてがらと考え、辞頌を作ることを君子のつとめだと思いましょうや。もし私の希望が果たされず、私の理想が行われないならば、やはり史官として事実の記録を担当し、現代の風俗の是非を判断し、人間のふむべき道徳の真髄を定め、独自の意見をうち立てたいと思います。これを名山に秘蔵することはできませぬが、これ同好に士に伝えたいと存じます。それも白髪になってからの理解を期待しておりまして、だいたい今日すぐの評価を問題にしているわけではありません。そもそも臆面もない言葉を吐きましたのは、あなたが私を理解してくださっていることによります。明朝お迎えいたします。手紙では充分心のうちを述べられません。」

楊修の返書し、「お側に侍らない日が数日にもなりますと、年をこすほどの思いがいたします。私だけが特別にめをかけていただいているために、心のつながりを感じ、おしたいする気持が深くなるのでしょうか。わざわざかたじけなくもお手紙を頂戴いたしましたが、その文章はみごとなものでございます。くりかえし朗誦いたしましたが、風・雅・頌であっても、もうこれ以上ではありません。仲宣が揚子江の向うでならぶものがなく、陳氏が冀地域ではばをきかせ、徐・劉が青州・豫州で名声をあげ、応生が魏国で才能を発揮したといったお説は、それこそすべてそのとおりです。私のようなものになりますと、評判を耳にいたしましても、そのすばらしい才能をしたう余裕もなく、目はあまねく閲覧することに注がれておりましたから、どうして高所より見おろしておどろくようなことがありましょう。つつしみて君候のことを考えますと、ご幼少時からご成人あそばされるまで尊貴なご身分のうえ、旦・発の素質を具えられ、母君のりっぱなご教訓を身につけておられます。遠きも近きも拝察いたします者どもは、ただよくすぐれたおん徳をあまねく示したまい、おおみわざをかがやかせたすけまいらせておられるのみと思いこんでおりまして、さらによく書物を広くご覧になり、文章に心をとめておられるとは考えてもおりませんでした。今はというと、王をつつみこみ陳の上を行き、数人の人をのりこえておられ、見る者はおどろきのまなこで目をぬぐい、聞くものは頭を傾けて耳をそばだてています。あのように事物の本質に通暁する能力を、自然から授けられていないならば、いったい誰がここまで到達できましょう。また執事に書版を手にさせ筆を持たせて制作されているところを以前親しく拝見いたしましたが、み心の仲で作られたことを読みあげられ、書くことは人の手を借りられまして、まったく少しの間もご思慮のため一息つかれることはありませんでした。仲尼は日月と同じでこえることができないとされましたが、私の仰ぎしたう気持も、まったくそれと同様であります。それだからこそ『山鳥の賦』に対してましてはご辞退申しあげ、『大暑賦』を作りましたときには、日数を経過しましても献上しなかったのです。

西施の容姿を見れば、その美貌に対して憎しみを向けるものです。伏して考えまするに、執事は私のこのような才能を理解せず、みだりにご愛顧と恩賜を賜りまして、添削するよう命じられました。『春秋』が完成すると、一字も変更することができませんでした。『呂氏春秋』と『淮南子』は一字について千金の懸賞金をかかげました。しかしながら弟子たちが口を閉ざし、市場に集まった人たちが手をこまねいていましたのは、聖人賢者の卓越さは、実際凡庸なやからからはるかにかけはなれていたからです。現今の賦とか頌は、古代の『詩経』の流れであり、孔公を経過しなければ、風・雅と区別されなかったのです。私の家の子雲は老年になってもものごとの真実を理解せず、しいて一書を著わしましたが、その若いころの制作を後悔いたしました。その発言どおりとすれば、中山甫・周公旦といった者たちは、皆、過失があることになるのでしょうか。君候には聖人賢者の明白な事述をお忘れになり、私のつまらぬ祖先のまちがった発言を受けておられますが、ひそかにそのことをご思慮なさらないものかと考えます。国を治めるというりっぱな仕事を忘れず、千年にわたるすぐれた名声を残し、功績を景鍾にほりつけられ、姓名を書物に記載されるという点になりますと、それは当然平素からつちかっているはばひろい才能の結果でありまして、文章を書くことによって妨げられることでしょうか。いつもご愛顧を受けていますので、ひそかに盲人の郎誦する歌にならって発言した次第です。恵施が荘子の知遇を受けたことをあえて忘れましょうか。劉季緒のことは瑣細なこと、どうして問題にするほどのことがありましょう。」

二人のやりとりはこのように非常にたびたびあった。

219年秋、曹操は楊修が何度もあらかじめ曹操の質問を洩らしてやり、諸侯と関係を持ったことを理由に、逮捕し殺害した。

楊修は死を前にして、旧知のものに向かっていった、「わしは実際自分では死ぬのがおそかったと思っている。」彼は曹植と親しかったため罪になったのだと思っていた。曹植はのちに気ままでけじめのないことからうんとじられた。それでも曹植は平気で楊修との結びつきをつづけ、楊修もあえて自分のほうから関係を絶とうとはしなかった。


逸話

楊修の死後百余日して曹操は逝去し、曹丕が立って、けっきょく天下を支配した。そのむかし、楊修は王髦の剣を手に入れて曹丕に献上した。曹丕はつねにそれを帯用していた。天子の位につき、洛陽に住んだが、宮殿からのんびりとお出ましになったとき、楊修のあまりにも冷淡だった態度を思い出し、その剣をなでさすりながら、車を止めて側仕えの者をふり返っていった、「これは楊徳祖が、昔、話をしていた王髦の剣じゃが、王髦は今どこにおる。」

彼を召し出して目どおりさせると、王髦に穀物と絹を賜わった。

摯虞の『文章志』にいう。劉季緒は名を修といい、劉表の子である。官は東安の太守まで登った。詩・賦・頌六篇を書きあらわしている。

臣裴松之が調べるに、『呂氏春秋』にこういっている、「悪臭のある者がいて、その兄弟妻子も皆いっしょに生活することができなかった。その人は自分でも苦痛に思い海のほとりでくらした。海のほとりにその臭いを喜ぶ者がおり、昼も夜も彼のあとをついて離れることがなかった。」これが曹植のいっている「悪臭を放つ人のあとをついてまわる男」である。田巴のことは『魯連子』にあり、また『皇覧』にも見えている。

『世語』にいう。楊修は二十歳のとき、名族の子で才能があったことから、曹操に尊重された。丁儀兄弟とともに曹植を後継者としたいと考えた。曹丕はそれを気にやみ車にこわれたこうりを載せ、朝歌の長呉質を宮中に参内させ協議した。楊修はそのことを曹操に言上したが、調査するまでには至らなかった。

曹丕は心配になり呉質に話した。呉質はいった、「何を気づかわれます。明日今度は絹をいれたこうりを車につみ、参内させて彼をまどわせなさいませ。楊修はもう一度重ねて言上するでしょう。二度の言上とあれば必ず調査されますが、証拠がなくて彼は罪を受けます。」

曹丕はそれに従った。楊修ははたして言上したが、人は入っていなかった。曹操はそのことから彼に疑惑をもった。楊修は賈逵・王凌と並んで主簿であったが、曹植のつきあう相手となった。つねに曹植のもとにおり、政治などを考慮して不充分な点があれば、曹操の気持をおしはかり、あらかじめ下問に対する答十余個条を作っておき、下問が出れば順序を追って答を提出せよと侍臣に命じた。下問が出たばかりなのに答はもう提出された。曹操はその早いのを不審に思い、とりしらべてはじめて明らかになった。

曹操は曹丕と曹植にそれぞれ鄴城の一つの門から出て行かせ、内密に門の係に外に出さないよう命令しておき、二人の行為を観察した。曹丕は門まで来たが出ることができず引き返した。楊修は先に曹植に、「もし門で候を出さなければ、候は王命を受けているのですから、係の者を斬られるがよろしい」と忠告した。曹植はそのとおりにした。

そのため楊修はけっきょく結託のかどで死を賜わった。

『魏氏春秋』にいう。曹植が出発しようとすると、曹丕は酒を飲ませ、むりじいして彼を酔わせた。曹操は曹植を召し寄せたが、曹植は曹操の命令を受けられなかった。そのため曹操は腹を立てたのである。


評価

楊修は、謙虚でつつしみ深く、ひろい才能をもっていた。弘農楊氏は後漢の「四世太尉」の名門である。

禰衡は「許昌には、孔融と楊修しか人材がいない」と評されたことがある。