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孫権が病死する

後漢伝


甘寧 興覇かんねい こうは

姓名甘寧
興覇
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評孫権に「孟徳(曹操)には張遼がいて、私には甘寧がいる」と賞賛された勇将
主な関連人物 孫権 周瑜 凌統 
関連年表 208年 黄祖討伐 赤壁の戦い
210年 南郡の戦い
213年 濡須の戦い
215年 合肥の戦い

略歴

甘寧、字を興覇といい、巴郡の臨江の人である。子は甘カイ、甘述がいる。

若いときから気概を持って、遊侠を好み、無頼の若者たちを集めて、その頭領となっていた。仲間は大勢で集団をなし、弓や弩をたばさみ、水牛の尻尾の旗さしものを背につけ腰には鈴を帯びていた。人々は鈴の音を聞くとすぐに、甘寧がいることを知ったのであった。

人と出会った場合、たとえそれが地方の長官であろうと、盛んなもてなしをした者とはいっしょに楽しんだが、そうしないときには、その財産を奪った。甘寧が属する地方長官の管轄内で強盗傷害事件があったときには、彼がその摘発と制裁にあたるなど、二十年余りにもなった。

甘寧は、役人となり会計報告の任にあてられ、蜀郡の丞に任ぜられたが、やがて官を棄てて家に帰った。

のちに暴力ざたはやめ、いささか先賢たちの書物を読むと、劉表のもとに身を寄せ、そのまま南陽に住んだ。しかし取り立てられることもなかったので、やがてさらに黄祖が身を寄せたが、黄祖も彼を普通一般の食客として遇した。

孫権が黄祖を討伐すると、黄祖の軍は敗れて敗走した。追手の兵は急であった。甘寧は弓を射ることに巧みであったので、兵士たちを指揮して殿をつとめ、校尉の凌操を射殺した。黄祖はこのようにして難を逃れ、軍をまとめて本営にもどることができたのであるが、そのあとも、甘寧に対する待遇は以前と変わらなかった。

黄祖の都督の蘇飛がしばしば甘寧を重用するように進言したが、黄祖は従わず、かえって甘寧の食客たちに直接黄祖の下につくように勧誘させ、食客たちは次第に甘寧のもとを去っていった。甘寧は、黄祖のもとから離れようと考えたが、脱出不可能で悶々としていた。蘇飛は、彼の気持ちを知ると、甘寧を自由にさせるため、黄祖に県長に推薦して、甘寧は県に赴任することになった。

そこで甘寧は、呉に身を寄せた。周瑜や呂蒙がそろって彼を重用するようにと推挙をし、孫権は彼に特別の待遇を与えて、もとからの臣下と変わりなくあつかった。

甘寧は献策して、荊州平定のために進言し、巴西(蜀)の地を奪取するようにいった。張昭と反発して意見が分かれたが、黄祖攻略を確実するために、甘寧の意見は採用された。はたして黄祖をとりこにし、その配下の軍勢をそっくり手にいれることができた。甘寧は兵を授かり、当口に軍を駐屯して守りについた。かつての恩人である蘇飛もまた生け捕られた。甘寧は涙ながらに蘇飛の助命を嘆願し、孫権もこれを容れた。

周瑜の指揮のもとで、曹操の軍を烏林(赤壁)でくいとめて打ち破った。ひきつづき曹仁を南郡に攻めたが、まだそれを攻め落とすことができなかったとき、甘寧は、先に夷陵まで軍を進めてそれを奪取すべきだとの健策をし、みずから軍を進めて城を奪い、守りを固めた。曹仁は、甘寧の守る城の兵数が千人余りだったので、五、六千人をやって甘寧を包囲させた。長期に渡って攻撃を防いでいたが、周瑜が事態を知ると、呂蒙の計で部将たちを率いて包囲軍を追い散らした。

のちに、魯粛の指揮下で、益陽の守備にあたり、関羽の進攻をくい止めた。関羽は、三万の軍勢を擁して、上流の浅瀬に配置していた。甘寧は進言して、兵を加増してもらい、川を渡らせないように対策するといった。甘寧は夜をついて軍を進めた。関羽はこのことを聞くと、軍を留めて川を渡ろうとせず、そこに仮の軍営を定めた。現在、これにちなんで、その場所は関羽瀬(かんうらい)と呼ばれている。

孫権は、甘寧の手柄を評価して、西陵太守に任じ、二県を授けた。

皖の攻略に参加し、升城督(城攻め突撃隊長)に任ぜられた。甘寧は、みずから城壁をよじ登って、兵卒たちの先頭をきり、ついに敵を破って朱光を捕らえた。手柄の設定においては、呂蒙が一番となり、甘寧はそれに続く者とされて、折衝将軍に任ぜられた。

曹操が濡須へ軍を進めてくると、甘寧は前部督となり、勅命を受けて敵の先鋒の軍営に攻撃をかけることとなった。甘寧は、配下の勇猛な兵士百人あまりを選んだ。孫権が特別に米と酒とさまざまなご馳走を下賜すると、甘寧は、料理して配下の百余人に食事をあたえた。食事がおわると、どなりつけて、「みな陛下から大切にされて、その私が命を惜しみもせぬのに、おまえたちだけがどうして命を惜しんだりするのだ」すると、兵士たちは、すぐさま身を起こして拝礼した。夜半ばに近づいた時刻になると、出発をし敵に襲撃をかけた。敵は驚き慌てて、そのまま退却した。甘寧はこのことがあって、ますます重用されて、配下に兵士二千人を加えられた。

孫権は、「孟徳に張遼がおり、私には興覇がいて、ちょうどつり合っておるのだ」といった。

215年、合肥の攻撃に参加した。このときには伝染病が流行したため、軍団はみなすでに引き上げて、ただお召し車に扈従する近衛千余人と、呂蒙、蒋欽、凌統、それに甘寧とが、孫権につき従って逍遥津の北にあった。張遼は、様子を窺って知ると、騎兵で急襲をかけてきた。甘寧は弓を手に敵を射かけ、命をまとに戦った。


評価

甘寧は、粗暴ですぐに人を殺したりしたが、あけっぴろげな性格で将来への見通しが立ち、物おしみをせず有能な人物を礼遇し、勇敢な兵士たちを養い育てることにつとめたので、兵士たちも彼のためには喜んで働いた。

侠客から足を洗って呉の武将とて長じた後も、その荒々しい性格は収まらず、たびたび些細な事で人を斬り殺しては、上司である呂蒙に戒められていた。 あるとき、甘寧の料理人が小さな失敗をして、呂蒙のもとへ逃げ込んだ。呂蒙は甘寧の激しい性格を知っていたので、決して料理人を殺さない、と誓わせ、口添えした上で料理人を帰した。ところが、甘寧はこの料理人を樹に縛りつけた上で射殺してしまった。これには呂蒙も激怒して甘寧を処罰しようとしたところ、呂蒙の母は「天下の大局は難しいところに来ています。内輪もめをしている場合ではありますまい」と諌めたので、呂蒙は気持ちを改めて和解を持ちかけた。甘寧は涙ながらにこれを受け、事なきを得たという。

『呉書』によると、凌統は、自分の父親の凌操が甘寧に殺されたことを怨んでいた。甘寧は、いつも凌統を警戒し、会おうとしなかった。孫権も、凌統に遺恨をはらそうなどとしてはならぬと命じていた。あるとき、呂蒙の家に人々が集まったときのこと、酒もたけなわとなると、凌統は刀をもって舞いはじめた。甘寧が立ち上がって、「私も双戟の舞いが舞えます」呂蒙がいった、「甘寧にもできるであろうが、私の上手には及ばぬ」そういうと刀を取り楯を持って、身をもって二人の間に割り込んだ。のちに、孫権は凌統の気持ちの深さを知ると、甘寧に命じ、兵士を率いてすみやかに半州に移ってそこに駐屯するようにと命じた。

没年について言及されていないが、唐代の『建康実録』では建安二十年(215年)の冬に卒去したとする。但し、孫皎伝や潘璋伝の記述は『建康実録』の没年と一致しない。


演義

小説『三国志演義』では若い頃は徒党と組んで江湖一帯を縦横に荒らしまわり、「錦帆賊」と呼ばれる水賊であったとする。 やがて曹操が荊州に進出すると、甘寧は対決を主張。赤壁の戦いでは偽って投降してきた蔡中を利用して敵陣深くに潜り込んで火を放ち、さらに逃げる曹操に追いすがり損害を与えた。 また、濡須口の戦いでは自身を仇と狙う凌統の危機を救い、凌統はかつての恨みを水に流し二人は固い親交を結んだ。

甘寧の死については、『三国志』では単に「卒去」となっているのに対し、『演義』では、夷陵の戦いにおいて病床の身を押して出陣し、沙摩柯の矢を受けて戦死している。