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孫権が病死する

後漢伝


虞翻 仲翔ぐほん ちゅうしょう

姓名虞翻
仲翔
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評先見の明にして人物を占い、剛直な物言い参謀官
主な関連人物 孫権 孫策 呂蒙 
関連年表 196年 孫策の功曹となる
200年 孫高の二心を説得する
219年 関羽討伐

略歴

虞翻、字を仲翔といい、会稽郡の余姚の人である。子は虞シ、虞忠など11人がいる。

虞翻は若いときから学問を好み、おのれを高く持していた。年二十のとき、彼の兄を訪ねた人があったが、虞翻の所には挨拶にやってこなかった。虞翻は、あとで手紙を送って「私は、琥珀は腐った塵芥(ちりあくた)は引きつけず、磁石は曲がった針を受付ないと聞いております。こちらにおいでになりながらお訪ねをいただけなかったのも、不思議ではございません」手紙をもらった人物はその内容の非凡さに驚き、彼の評判が高くなった。

太守の王朗の命を受けて会稽郡の役所で功曹をつとめた。孫策が会稽に軍を進めてきたとき、虞翻はちょうど父親の喪に服していたのであるが、喪服をつけたまま郡の役所の門までやってきた。王朗が虞翻のところへ、自分のほうから出てゆこうとすると、虞翻はその場で喪服を脱ぎ捨てて役所に入り、王朗に面会すると、孫策の矛先を避けて避難するようにと勧めた。

王朗はその意見を用いず、孫策を防ぎ止めようとして戦ったが、戦いに敗れ、逃げて船で海上に出た。虞翻は、そのあとを追っていっしょになると、王朗を守護しつつ、東部侯官までやってきた。侯官の長官は門を閉じて王朗を受け入れようとしなかったが、虞翻が長官のもとにおもむいて説得をし、やっと城内に入ることを認められた。

身を落ち着けると、王朗の勧めで、虞翻は会稽郡にいる母親の元に戻ると、今度は孫策が彼を功曹に任命し、友人としての礼で遇し、みずから虞翻の屋敷を訪れたりした。

孫策は、山越たちを討伐し、その首領を斬ると、側近の者全員に手分けして賊徒たちを追わせた。あとに残った孫策が一人で馬を歩ませているときに、山の中で虞翻とばったり出会った。虞翻が、側近たちはどこにいるのか尋ねると、孫策は、みな賊を追っていったと答えた。虞翻は、それは危険であると同時に、孫策に馬からおろさせ、周辺草が深いから突発的な起こることをいい、弓と矢をしっかり持つように進言した。その後、配下たちを集めて、虞翻も孫策に従って転戦し、三つの郡を平定した。

孫策は、黄祖討伐後の帰途で、豫章にまわってそこを手に入れようと考えた。虞翻一人だけを召し寄せて、豫章を守る華キン(子魚)を説得できないか探るように命じられた。虞翻は、すぐさま出発し、豫章郡までやってくると華キンとの会見を申し入れた。虞翻は、現状の立場や、孫策の勢いを語り、将来の損得を説いた。虞翻が去ったあと、華キンは次の日の朝に城を出ると、役人をやって降服を申し入れ、孫策を迎え入れた。

虞翻は、孫策の幕府を離れて、富春県の長となった。

孫策が逝去したとき、重だった役人たちはみな任地を離れて葬儀にかけつけようとした。虞翻は、近隣の県で事変を起こす心配があるとして、任地に留まったまま喪に服して追悼の儀式を行なった。

のちに虞翻は、州の役所からは茂才に推挙され、朝廷からは侍御史として召され、曹操が司空になると彼をその幕府に招こうとしたが、その任につくことはなかった。

孫権がそのあとを継いで呉の勢力をまとめてゆくことになったときに、定武中郎将の孫高は、孫策の従兄であって、烏程に駐屯しようとした。配下を率いて、会稽郡を自分のものにしようとしたので、虞翻は孫高を説得して引き上げさせた。

虞翻は、少府の孔融に手紙を送り、それといっしょに自分が著わした『易経』の注釈を進呈した。孔融は返事で、その研究の成果をすばらしく称え、洞察力の確かさや物事の奥深さを突いていることを挙げて、虞翻を称賛した。

孫権は虞翻を騎都尉に任じた。しかし虞翻はしばしば孫権の意向に逆らって讒言をしたので、孫権は不愉快な気持ちを募らせ、加えて彼の性格が人々と協調できぬものであったため、しばしば非難を受け、そのため罰せられ丹陽郡に強制移住させられた。

呂蒙は、関羽を取り込める計画を立て、敵をあざむくため病気を理由にいったんは建業に帰ったが、それを察し、虞翻が医術にも詳しいということで、願い出て彼を自分のそばに付き従わせ、同時にこのようにすることによって、虞翻が許されるように取り計らおうとした。やがて呂蒙が全軍を挙げて西に向かうと、南郡太守の麋芳は、城門を開いて投降してきた。

関羽が敗れて麦城に篭ると、孫権は虞翻にそのことを筮竹(ぜいちく)で占わせた。虞翻は、必ずや二日以内に、関羽の首は断たれると予言した。はたして虞翻のいうとおりになった。

魏の武将の于禁は、関羽に捕えられ、江陵城中につながれていた。孫権は、江陵までやってくると、于禁の縄目をとかせ、自分のほうから会見を申し入れた。のちに、孫権が馬で外出したときのこと、于禁をまねいて馬を並べて歩ませようとしたが、虞翻は于禁をどなりつけて、「降服者のおまえが、なんで我が君と馬首を並べたりするか」といい、鞭で于禁を打とうとした。孫権は大声でそれを止めさせた。のちにまた孫権が楼船に群臣たちを集めて酒宴をもよおしたときのこと、于禁が音楽を聞いて涙を流すと、虞翻はまたもいって、「おまえはそんな心にもないことをして赦してもらおうとするのか」といった。孫権はぶすっとして不機嫌そうであった。

孫権は、魏との講和がまとまると、于禁を北方に送り返そうとした。虞翻はこのときにも諌めて、忠臣のためにも于禁を斬るように進言したが、聞き入れなかった。于禁は、虞翻に憎まれていたが、帰国したあと虞翻のことを大いに称賛した。魏の曹丕はいつも虞翻のために虚座(本人がいなくとも取っておく空席)を設けさせていた。

孫権が呉王に任ぜられると、祝宴が開かれたが、その宴会も終わりに近づくころ、孫権自身立ち上がって酒をついでまわった。虞翻は、床に倒れ伏し酔っ払ったふりをして、杯を受け取らなかった。孫権が彼の前を去ると、虞翻は身を起こしてきちんと座りなおした。孫権はこれを見て大いに腹を立て、剣をとって斬りつけようとした。みな動転してしまったが、大農の劉基だけは冷静になって孫権を抱きとめると、諌めた。孫権は、「曹孟徳は孔融すら殺したのであるから、おれが虞翻を殺して何の不都合があるだろう」劉基は、曹操は天下の者たちに非難され、呉王には徳と義を行われるように、更に諌めた。虞翻は、こうして劉基の言葉があったため、死を免れることができた。このことがあって、孫権は、側近の者たちに対し、今後、酒が入ったうえで自分が殺すといっても、けっして殺してはならないと命じた。

虞翻があるとき船に乗って出かける途中で、麋芳の一行と出会った。麋芳の船には多くの人が乗っており、虞翻のほうに水路を開けさせようとして、先導している者が「将軍の船を避けよ」といった。虞翻は大声で、「忠と信とが守れないのに、何によって主君に仕えるというのか。あずかった城を二つも失いながら、将軍だなどと名乗ってよいものであろうか」麋芳は船の戸を閉ざして返答せず、いそいで虞翻の船を避けさせた。

のちにまた、虞翻が車に乗って出かける途中に麋芳の軍営の門を通りかかったが、役人が門を閉ざして、車は通ることができなかった。虞翻はまた腹を立てて、「閉めるべきときに城門を開けて降服したりしながら、開けておくべきときに門を閉ざしたりする。ものごとの正しいやり方が分かっておるのか」麋芳はこれを聞いて、恥ずかしそうな顔をした。

孫権が張昭と議論をしていて話題が神仙のことに及んだとき、虞翻は張昭を指して、「あいつらみな死んだ者だ。それなのに神仙のことをまことしやかに語っておる。世の中に仙人なぞいるものか」孫権は、一度ならず虞翻に腹を立てさせられ怒りをつのらせたので、このことがあってついに虞翻を交州に強制移住させた。

虞翻は、南方にあること十余年、年七十で死去した。その棺は故郷に運ばれて埋葬され、妻子たちは南方から戻ることができた。


評価

『江表伝』によると、孫権は遼東遠征に失敗し、多数の人命を失ったとき、虞翻のことを思い出し、交州に使者を送り虞翻の消息を尋ねさせたが、既に虞翻は死去していたため、子達を呼び寄せとり立ててやった。

虞翻は、人のことは遠慮せず自分の正しいと思うところを押し通す性格で、しばしば酒のうえで失敗があった。

また、罪を受けて放逐されても、学問教育に倦むことなくはげみ、その門下生はつねに数百人に上った。また『老子』『論語』『国語』に注釈を加え、それぞれ広く世に行われた。

家伝として前漢今文学の孟氏易を治め、八卦と十干・五行・方位を組み合わせた象数易を伝えた。その著書『易注』は散逸したが、断片が唐の李鼎祚『周易集解』に収録された。清の黄奭(こうせき)『漢学堂叢書』、孫堂『漢魏二十一家易注』にも集められている。清の恵棟や張恵言らによって研究され、前漢の今文易復元の足がかりとされた。


演義

小説『三国志演義』では厳白虎と同盟し孫策に抵抗しようとする王朗に対し孫策に降るように進言して逆鱗に触れ、王朗の元から去る(吉川英治の小説『三国志』では、この時飼っていた小鳥を自らの境遇になぞらえ「好きなところに行くが良い」と青空に放つ)。

また董襲や華佗、傅士仁(士仁)の友人ということになっている。赤壁の戦いにおいては降伏派の家臣の一人として、諸葛亮と論戦し敗れている。