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後漢伝


朱然 義封しゅぜん ぎほう

姓名朱然
義封
生没年182年 - 249年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評主に蜀魏と荊州を巡って争い守った名将
主な関連人物 孫権 孫策 朱治 
関連年表 201年 余姚県の長となる
219年 関羽討伐
222年 夷陵の戦い 江陵の戦い
226年 石陽の戦い
229年 車騎将軍となる
237年 一次柤中の戦い
246年 二次柤中の戦い

略歴

朱然、字を義封といい、丹陽郡の人である。義父は朱治、子は朱績がいる。

朱治の姉の子で、元来の姓は施氏であった。朱治は、まだ子供がなかったことから、朱然が年十三であったとき、孫策に上言して、朱然を自分の跡継ぎにしたいと願い出た。孫策は、丹陽郡の役所に命令を下し、羊の肉と酒とをそなえて鄭重な礼で朱然を召し出させ、朱然が呉にやって来ると、孫策はあつい礼でもってこの養子縁組みを祝ってやった。

朱然は孫権といっしょに勉強をしたことがあって、二人の間には篤い恩義関係が結ばれていた。孫権が呉の勢力をまとめてゆくことになると、朱然を会稽郡の余姚県の長に任じた。朱然はそのとき年十九であった。

のちに山陰県の令に昇進し、折衝校尉の官を加えられて、五つの県の取り締まりにあたった。

孫権は朱然の才能を高く評価し、丹陽郡を分割して臨川郡を作ると、朱然をその太守に任じ、兵士二千人を授けた。ちょうどそのころ、山越の不服従民たちが盛んに蜂起をおこしたので、朱然はその討伐を行い、一ヶ月ほどの間にこれを平定した。

曹操が濡須に軍を進めて来ると、朱然は濡須塢と三関屯との防備にあたり、偏将軍の官を授けられた。

219年、関羽の討伐に参加し、本隊と別れて、潘璋とともに臨沮まで軍を進めて関羽を捕虜にした。昭武将軍に昇進し、西安郷侯に封じられた。

虎威将軍の呂蒙の病気が危篤に陥ったとき、孫権が呂蒙にたずねて、「あなたが万が一、二度と病床を離れられぬとしたならば、誰にあとを継いでもらったらよいであろう」呂蒙が答えて、「朱然は決断力の点でも実行力の点でも十二分でございますから、彼が仕事にあたられるかと愚考いたします」孫権は、朱然に仮節を与え、江陵に軍をとどめてその守りにあたらせた。

222年、劉備が兵を動員して宜都に攻撃をかけてくると、朱然は、五千人を率いて、陸遜と力をあわせつつ劉備の進出を防ぎ止めた。朱然は別働隊となって劉備の先鋒に攻撃をかけてこれを打ち破り、またその退路を遮断したので、劉備は打ち負かされて逃走した。この功績により、征北将軍の官を授けられ、永安侯に封じられた。

魏は、曹真、夏侯尚、張コウ(儁乂)らを派遣して江陵の攻撃を命じ、魏の曹丕自身は宛まで軍を進めてそこに留まると、背後から加勢をした。魏の軍は、陣地をいくつも連ねて江陵の城を包囲した。孫権は、将軍の孫盛を派遣し、一万の兵を率いて、長江の中洲に配備をすると、四方に防御壁を備えたとりでを設け、外側から朱然の応援をさせた。張コウが兵を中洲に孫盛を攻めてくると、孫盛は支えきれず、すぐさま退却した。朱然は、外部との連絡が絶えてしまった。孫権は、さらに潘璋や楊粲らを派遣して包囲を切り崩そうとしたが、魏は崩れなかった。

朱然の立てこもる兵士は、患う者多く、元気な者わずか五千人にすぎなかった。曹真らは、土山を築き、地下道を掘り、やぐらを立てると、城壁のすぐそばから矢を雨のように射掛けた。朱然は悠然として恐れる色も見せず、軍吏や士卒たちを励まし、すきをうかがって敵の二つの陣地を攻め破った。

魏は、朱然を包囲して六ヶ月にも及んだが、撤退する気色はなかった。江陵県の令である姚泰が、敵が盛んで城中には兵が少なく、穀物や食料も尽きかかっているのを見て、敵方と通じ、内応をしようと謀った。それが実行される前に発覚し、朱然は彼を裁いて死刑に処した。

夏侯尚たちは、どうしても城を落とすことができぬまま、矛をおさめて軍を還した。この江陵攻防戦によって朱然の名は敵国にまでなり響き、当陽侯に改封された。

227年、孫権はみずから軍勢を率いて石陽を攻めた。軍を還すことになって、潘璋が殿として敵の追撃を防ぐ任にあたった。夜間行事の間に混乱が生じ、敵は潘璋に追撃を加えてきたが、潘璋にはそれを防ぎることができなかった。朱然は、すぐさま取ってかえすと敵を食い止め、先に出発した船がはるか彼方まで進むのを待って、それからおもむろに自分も帰途についた。

229年、朱然は、車騎将軍・右護軍に任ぜられ、エン州の牧の職務にあたった。のちに、エン州が蜀の領分に属するとの盟約が呉蜀との間に結ばれると、牧の職務は解かれた。

234年、孫権は、蜀と共同し日どりを定めて魏に対して大きな軍事攻勢をおこそうとした。孫権みずから合肥新城に向かい、朱然と全ソウとはそれぞれ斧鉞を授けられ、左督と右督とに任ぜられて、その軍事行動を指揮した。たまたま兵士たちの間に病気が発生したことから、攻撃に出る前に軍を退いた。

242年、柤中へ軍を進めた。魏の部将の蒲忠と胡質とかそれぞれ数千の兵を率いてこれに対抗し、蒲忠は要害をおさえて朱然の退路を絶とうとし、胡質は背後から蒲忠の作戦を援助した。このとき朱然の率いる兵士や部将たちは四方へ出ていってしまっていて、魏軍来襲の情報を得たが呼び戻す時間はなかった。そこで朱然は、旗本として残っている兵士八百人を率いて敵を迎え撃ち逆襲をかけた。蒲忠は戦ったが形勢が悪く、胡質たちもみな兵を引き上げた。

245年、投稿者の馬茂が姦計をめぐらせ、孫権を暗殺しようとしたが、これを防いで彼を誅殺した。孫権はこのことに深く腹を立てていた。

246年、朱然は、暗殺未遂事件を上表して、雪辱を晴らすべく進言し、孫権は朱然を左大司馬・右軍師に任じた。ふたたび柤中へ軍を出した。魏の部将の李興らは、朱然が奥深くまで軍を進めたと聞くと、朱然の退路を断った。朱然は夜陰に乗じて軍を動かして逆襲をかけ魏の軍を撃ち破ると、勝利のうちに軍を還した。

病気のため二年間床につき、いよいよ危篤となると、孫権は、昼は彼のことを心配して食事ができず、夜は寝もやらず、朝廷から医薬や食物を朱然のために届けさせた。

248年、朱然は病床にあっても、職務を遂行し、江陵に城壁を築いた。

249年、朱然は死去した。享年68歳。


評価

朱然は、身の丈は七尺に満たなかったが、からっとした性格で、内々の生活は身を修めて清潔なものであり、飾りも軍器にだけは施すが、それ以外はみな質素な用具を用いた。終日つつしんで職務に励み、いつも陣頭に立って、緊急の場面に臨んでも心を動揺させることのない点は、誰にもまねのできぬところであった。

245年以降、諸葛融や歩協といった二世武将が前線に立つ時代となっていたが、孫権は彼等の取りまとめと総指揮を朱然に依頼した。陸遜が245年に亡くなると、朱然だけがかつての功臣の生き残りとなり、孫権はますます朱然を厚遇することになった。しかし、朱然もまもなく病に倒れることになり、二年間も病床につくことになる。孫権は見舞いの品を送ったり、薬や医者を派遣した。孫権の朱然に対する心遣いは、かつての呂蒙やリョウ統に対するそれに次ぐほどであった。

1984年6月に安徽省馬鞍山市雨山郷の紡績工場の建設予定地で朱然の墓が発見され、最古の名刺など歴史的に非常に貴重な副葬品が多数発掘されている。これは東呉の文化を知る上で貴重な発見とされる。2008年の大三国志展において、朱然の名刺も展示され、実物を展覧することができた。

1986年、朱然の墓は省の重点文物保護単位に認定され、「朱然路」という道路が引かれるなど周辺は保護整備されている。


演義

小説『三国志演義』では孫権が呉の国主になったときに配下となった武将の一人として名があがる。関羽討伐戦のときに登場し、つづく夷陵の戦いのときには、孫桓とともに迎撃の任務を与えられ、水軍を率いて水路を守った。しかし、孫桓が陸で大敗したため、水上に釘付けになってしまい、援軍を要求せざるを得なくなる。陸遜が劉備を敗走させると、諸将とともに劉備軍に追撃をかけるが、朱然は成都から救援に来た趙雲に斬られ、物語から姿を消す。