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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


凌統 公績りょうとう こうせき

姓名凌統
公績
生没年189年 - ?
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評父凌操の跡を継いで、孫権を支えた武人
主な関連人物 孫権 呂蒙 甘寧 
関連年表 208年 黄祖討伐 赤壁の戦い
210年 南郡の戦い
214年 皖城の戦い
215年 合肥の戦い

略歴

凌統、字を公績といい、呉郡の余杭の人である。父は凌操、子は凌烈、凌封がいる。

父親の凌操は、男だてを好み肝っ玉が太かった。孫策が兵を興すと、凌操はつねにその配下として征伐に加わり、いつも先に立って敵の刃を犯して戦った。孫権が呉の総指揮官にあたることになると、江夏の討伐にむかった。夏口に侵入し、真っ先に敵の先鋒を破ったが、当時敵であった甘寧の矢に当たって戦死した。

凌統は、このとき十五であったが、孫権の側近に彼のことを褒めて口をきく者があり、孫権も凌操が国事のために死んだことを思って、凌統を別部司馬に任じ、破賊都尉を代行して、父親の兵をそのまま指揮させた。

のちに山越の不服従民たちの討伐に参加したときのこと、孫権は保屯を打ち破ると先に軍をかえし、麻屯の一万の敵はそのままのこされていた。凌統は、督の張異らとともにあとに留まって麻屯に攻め寄せて包囲をし、日どりをきめて総攻撃をかけることになった。

その期日のくる前に、凌統は督の陳勤といっしょに酒を飲んだ。陳勤は、勇猛で自分の気持のままに振舞う性格であって、督の役目にあるということでその酒宴の主人となったが、一座の者たちをばかにしたような行動をとり、献杯も罰杯も定めを無視してむちゃくちゃをやった。凌統は、彼が人を人とも思わぬ振る舞いをするのを憎んで、面とむかって注意をし彼の指示には従わなかった。陳勤は腹を立てて凌統を罵倒し、その父親の凌操の悪口まで言い出した。凌統は涙を流すばかりで口応えをしなかった。人々は、座が白けてしまって退座した。陳勤は、酒の勢いをかりてますます理不尽になり、外に出たあとも凌統を侮辱しつづけた。凌統はこらえ切れず、刀を取ると陳勤を斬りつけ、陳勤はその傷のため数日後に死んだ。

屯の攻撃のときがくると、凌統は、「死んで罪をわびるしかない」そこで士卒たちを督励し、みずから敵の矢おもてに立った。彼が攻撃をかけた屯の一面は、あっという間にくずれ去り、諸将たちはその勝ちに乗じて、敵を完膚なきまでに打ち破った。帰還すると、みずから軍正のもとに出頭して捕縛を受けた。孫権は、彼の剛毅さを立派だとして、罰することはせず、手柄を立ててその罪をあがなえるようとりはからった。

のち孫権がふたたび江夏に軍を進めると、凌統は先鋒を命ぜられた。彼は、自分が平素から目をかけている兵士たち数十人と一つの船に乗り、つねに本隊から数十里をおいて先行した。そのようにして兵を進めた彼は、右江に入り、黄祖の部将の張碩を斬ると、水夫をすべて捕獲した。もどって孫権に上言したあと、軍の本隊を先導して道を急ぎ、水軍と陸上部隊とが集結した。このとき、呂蒙が敵の水軍を破り、凌統が先に立ってその城を攻撃したので、大勝利をおさめることができた。

孫権は、凌統を承烈校尉に任じ、周瑜らとともに曹操の軍を烏林(赤壁)でくい止めて打ち破った。ひきつづいて曹仁を攻撃させた。この功績で昇進して校尉に任ぜられた。

さらに皖の攻撃に参加して敵を打ち破り、盪寇中郎将の官を授かって、沛国の相の任にあたった。呂蒙らとともに西に軍を進めて三つの郡を占領した。呂蒙が部将らを集めて宴会を開いたとき、凌統が剣舞を舞うことになり、凌統の父の仇である甘寧も戟をとったが、呂蒙がその場に割って入り、大事には至らなかった。凌統の心中を悟った孫権は、甘寧をすぐに半州に移らせた。

益陽から帰還すると、合肥への出兵に加わって、右部督に任ぜられた。この出兵の際、孫権が軍の撤退を命じ、先発の部隊がすでに出発したあとへ、魏の部将の張遼らが津の北にいる孫権らに急襲をかけてきた。孫権は、人をやって先に出発した兵士たちをもどらせるようとしたが、すでに遠くまで行ってしまって、間に合いそうになかった。凌統は、近習の者たち三百人を指揮して包囲をくずし、孫権を守りつつ脱出させた。敵はすでに橋を壊して、二枚の板だけで橋がつながっていた。孫権がその橋をかけぬけると、凌統はふたたびもどって戦いに加わった。側近の者はみな死に、彼も身をこうむりつつ、数十人の敵を殺した。孫権がすでに難を逃れて安全についた時分を見計らってから、退却した。

孫権は、凌統が帰って来たのを見ると驚喜した。凌統は、近習の者たちあ誰ももどってこぬのを痛み、悲しみに沈んだ。孫権は、みずからの袖で涙を拭いてやると、「公績どの、死んだ者は帰ってこない。あなたさえ健在ならば、ほかに有能な人物がいないなどと、どうして心配したりしよう」偏将軍の官を授かり、これまでに倍する兵士を与えられた。

凌統は、山岳地帯に住む者の中にはまだまだ勇猛な者たちが多くて、彼らを威圧したり恩を施したりすれば、味方につけることができるとの意見を述べた。そこで孫権は、凌統に東に進んで様子を伺いつつ討伐を行わせ、その配下の城まちにも指令を出して、凌統が要求する物は、すべて先に彼に供給し、中央への報告はあとからでよいと命令した。

精鋭一万人余りを配下に得た後、故郷を通りかかった時にも、役人に対し恭しく礼を尽くし、古馴染みにも親しみ恩意はますます深かった。役目が終って任地を離れようとしている矢先、凌統は病気のために死去した。享年49歳。


評価

凌統は、軍旅のうちにあっても、賢者や有能な人物と接触を持つことに努め、財貨を軽んじて信義を重んじ、一国を背負って立つ国士の風があった。

凌統と同郡の出身である盛暹を孫権に推挙する者があって、盛暹の気宇の壮大さは凌統にもまさるものだと申し述べた。孫権が、凌統ほどであってくれれば充分だというと、のちに、盛暹を招いたところ、彼は夜分にやってきた。このとき、凌統はすでに床に入っていたのであるが、盛暹がやって来たと聞くと、着物をひっかけて門まで出、手をとって中に案内した。凌統が優れた人物を愛し、わだかまりを持たないことは、こんなふうであった。


見解

本伝では49歳で病死したとされ、この場合没年は237年ということになる。しかし「駱統伝」では、凌統没後に駱統がその兵の指揮を引き継ぎ、222年に宜都で蜀軍を打ち破った功績によって昇進し、228年に死去した事が記されているため、両伝の記述に矛盾が生じている。

唐代に書かれた『建康実録』には217年に29歳で死去したと記されており、こちらの説では駱統伝の記述と矛盾はない。215年以降昇進したという記述がなく、また219年の関羽との戦いや222年の夷陵の戦いにも参加したという記録がないこともあり、凌統伝での没年は伝写していく過程での誤りである可能性が高い。