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淮水の戦い

後漢伝


朱桓 休穆しゅかん きゅうぼく

姓名朱桓
休穆
生没年178年 - 239年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評配下の面倒をよく見、敵を欺いては勇敢に戦う将軍
主な関連人物 孫権 陸遜 全琮 
関連年表 223年 濡須の戦い
228年 石亭の戦い
229年 前将軍・青州牧となる

略歴

朱桓、字を休穆といい、呉郡の呉の人である。子は朱異がいる。

孫権が将軍になると、朱桓はその幕府でお仕えとして働き、やがて余姚県の長に任ぜられた。

県に赴任してみると疫病が流行しており、飢饉で穀物や食糧も高騰していた。朱桓は、有能な役人たちを選んで彼らに指図をして、直接に医薬の手配をし、炊き出しを幾度も行わせたので、士人も民衆も彼の処置に感激し、よろこんで彼の命令に従った。

朱桓は、盪寇校尉に昇進すると、兵士二千人を授けられ、呉郡と会稽郡とで軍隊の編成を命じられた。彼は、ばらばらになっていた兵士たちを集めて、一年ほどの間に一万余人の兵士を配下に収めた。そのうち、丹陽郡やハ陽郡の山越の不服従民たちが蜂起をし、城を攻め落とし、地方長官たちを殺したり捕虜にしたりして、各地に集団をなしてたむろをした。

朱桓は、部将たちを指揮し、各地をへめぐって討伐を行い、またたく間にすべてを平定した。ややあって裨将軍にまで昇進し、新城亭侯に封じられた。

のちに周泰のあとを継いで濡須の督に任ぜられた。

222年、魏は大司馬の曹仁に命じ、歩兵と騎兵数万を率いて濡須に向かわせた。曹仁は、兵をおくって中洲を武力で奪い取ろうとくわだて、呉をあざむくため、東に軍を進めて羨渓を攻撃するのだと前もって宣伝させた。朱桓は、兵を分けて羨渓に向かわせることにし、その部隊が出発したあとで、曹仁が濡須から七十里の距離まで軍を進めて来ているとの急報が入った。朱桓は使者をやって羨渓に向かった兵士たちを呼び戻させた。その兵士たちがまだ戻らぬうちに曹仁の軍が早くも襲来した。

このとき、朱桓の旗本とその指揮下にある兵で、その場にいたのは五千人に過ぎず、部将たちは心をおののかせ、みな恐怖をきたした。朱桓はそうした部将たちをさとして、「勝敗は部将の手腕にあって、兵の数ではない」といい、「兵法に則って説き、城壁を高く築き、兵に充分な休息を与え、遠方から来る敵を防ぐべきだ」と言い聞かせた。

朱桓は、軍旗を立てず戦鼓も鳴らさず、敵にはいかにも弱体であるように見せかけて、曹仁を誘い込んだ。曹仁は、はたしてその計にのり、息子の曹泰を派遣して攻撃をかけさせるとともに、将軍の常勝を別動隊として派遣し、諸葛虔や王双らを指揮して、油船に乗り、いくつかに分かれて中洲を襲わせた。中洲には朱桓がたの部曲や妻子たちがいた。

曹仁自身は、一万の兵を率いて、曹泰らは後方を固めた。朱桓は、配下の兵士や部将たちに指図して油船を攻撃してこれを拿捕させ、また別に常勝らに攻撃をかけさせると、朱桓みずからは他の者たちとともに曹泰と対峙し、その軍営に焼き打ちをかけると軍を引いた。このようにして常勝の首を斬り、王双を生け捕りにして、武昌に送った。

孫権は朱桓の手柄をよろこび、嘉興侯に封じ、奮武将軍に昇進させ、彭城の相の職務にあたらせた。

228年、ハ陽太守の周魴は、いつわって魏へ降服を申し出て、魏の大司馬の曹休をおびきようとした。曹休は、歩兵と騎兵十万を率いて皖城までやって来て周魴を迎え取ろうとした。これに際し、陸遜が総指揮にあたり、全ソウと朱桓とが左右の督となって、それぞれに三万人を率いて曹休に攻撃をかけた。曹休は、騙されたのを知って、軍を引き上げることにしたが、軍勢が盛んであることで一戦交えようとした。朱桓が献策して、曹休を捕らえることを申し出た。孫権が前もって陸遜と協議をした作戦があったので、陸遜は許可を出さず、謀り事は実行にうつされなかった。

229年、朱桓は、前将軍に任ぜられ、青州の牧の任務を帯び、仮節を授けられた。

237年、魏の盧江郡主簿の呂習が、呉に降服したいと申し出て、呉の軍が到着したら城門を開いて内応したいと申し入れてきた。盧江についたところで、偽の降服であることを露見し、呉の軍勢は引き上げることになった。呉の軍は、これに隊伍を整えて河を渡り、朱桓がみずから殿にあって敵の追撃を防ぐ任をつとめた。このとき、盧江太守の李膺は、兵士や騎馬に十分な装備をさせて、追撃をかけようとくわだてた。しかし朱桓が後方にあるのを見ると、最後まで兵を動かす決心がつかなかった。朱桓が敵から一目をおかれるのは、こんなふうであった。

全ソウが督の任にあたっていたのであるが、孫権は別に偏将軍の胡綜に命じ、勅令をもって、特別に軍の作戦決定に加わらせた。全ソウは、軍を動かしてみたが、何の戦果も挙げられなかったところから、部将たちに命じて不意打ちの作戦を取らせようと主張した。朱桓は平素より気位が高く、他人の指図を受けるのを恥として、全ソウのもとに赴いて、本当にそうしたことをするつもりなのかを尋ねたが、やがて感情が激し怒りが発して、全ソウと言い争いになった。朱桓はもどると、人をやって胡綜を呼ばせた。胡綜が軍営の門までやって来ると、朱桓が迎え、側近たちに胡綜を討つ謀ごとを命じた。しかし朱桓は門に出たが胡綜は見当たらず、それが側近の者が告げ口したと知ると、その者を斬り殺した。朱桓の副官が諌めると、その副官をも刺殺し、そのまま気が狂ったということを理由に、建業に赴いて治療にあたった。

孫権は、彼のこれまでの手柄と能力とを惜しんで、その罪を問うことはしなかった。息子の朱異に命じて彼の代わりにその配下を取りまとめさせ、医者をやって朱桓の看護をさせ、数ヶ月後には、復帰してふたたび中洲にもどらせた。孫権は親しく朱桓を見送り、「あなたには五万の軍勢を指揮して一方面をまかせ、積極的に作戦を進めてもらいたい。あなたの病気がぶりかえすこともないであろう」といった。朱桓は、「おそれ多くも重く用いくださり、奸賊を除くように命じられて、私の病気もおのずから快癒するにちがいありません」

239年、朱桓が本当の病気になって危篤となると、その軍営のすべての者が憂いにしずんだ。そのまま死去した。享年62歳。


評価

孫盛の評によると、胡綜を殺害未遂の問題で、「朱桓の残虐さは、虎や狼と変えるところがない。主君だとてこうしたことは為してはならぬのに、まして部将や宰相の身でこんなことを為してよいはずがあろうか。古い言葉で『一人の人間の歓心を得るために、一つの国を失ってしまう』と。ほしいままに人を罪するのと、刑罰の原則を破って刑をゆるやかにするのと、その失うところはどちらが大きいのであろう」といった。

朱桓は、自分の過ちを認めず、人の下につくのを嫌う性格で、敵と対陣し戦いを交える際にも、自分の思い通りに軍を動かすことができぬようなことがあると、いつも腹を立てて憤激した。しかし一方で彼は、惜しみなく私財を散じ、他人との道義的な関係を大切にした。

加えて記憶力がずばぬけて良く、人と一度会っただけで、その人のことを何十年も忘れず、配下には一万の私兵がいたが、彼らの妻や子までみなその顔を覚えていた。軍吏や兵士たちの生活を大切に考えてやり、血縁の者たちには厚い援助を与え、俸禄や家の財産は、すべて彼らと分かち合った。


逸話

朱桓は孫権と杯を捧げつつ、「遠くにまいろうとするにあたり、どうか一度だけ陛下のお髭を撫でさせてください。それさえできれば、他に思い残すことはございません」孫権は身をよせかけつつ乗り出すと、朱桓が進み出て髭を撫でて、「私は今日、まこと、虎の髭を撫でたのだと申せましょう」孫権は大声で笑った。

『捜神記』には、朱桓の下女(原文は婢女)は飛頭蛮と言う妖怪で、夜になるとよく飛んだということが書かれている。

朱桓はその下女を愛嬌が良いので雇い、彼女の所へ夜這いに行った。すると、寝所には首の無い彼女の胴体が寝ていた。驚いた朱桓は、疑いがかかるのを恐れて自分の寝所に戻った。翌日、その下女はたらいに湯を汲んで朱桓の部屋に運んで来た。朱桓はぎょっとしたが、あれは夢だったのではと合点して下女はそのままにした。

後日、朱桓の屋敷でぼや騒ぎがあった。屋敷中が混乱するなか例の下女だけ現れない。朱桓が一家を連れて見に行くと、頭の無い胴体の上を、耳を羽にした下女の頭が飛んでいた。そして下女の頭はゆっくりと降下して胴体とくっつき、何事も無かったかのように目覚めたのであった。朱桓は家族の者にはこの事を言外させず下女に暇を出させた、ということで終わっている。