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呉が晋に降伏

後漢伝


闞沢 徳潤かんたく とくじゅん

姓名闞沢
徳潤
生没年? - 243年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評厳シュン、程秉と並びし学者の一人、博識で知られた政治家
主な関連人物 孫権 薛綜 孫和 
関連年表 242年 太傅となる

略歴

カン沢(カンは[門構え]に[敢])、字を徳潤といい、会稽郡の山陰の人である。

その先祖は代々農民であった。そうした家に生まれたカン沢は、学問を好んだのであるが、貧乏ぐらしで学費もなく、いつも他人のために筆耕をして紙筆のもとでを稼ぎ、一冊の書物を筆写しおわったときには、その全体が暗誦できるようになっていた。

師たるべき人物を求めて各地で議論をしたり自分の意見を発表したりし、多くの書籍に目を通し、加えて暦の計算に通じていた。こうしたことから彼の名は人々に知られるようになった。

孝廉に推挙されて、銭唐県の長に任命され、やがて桂陽郡の県令に昇進した。孫権が驃騎将軍となると、カン沢をその将軍府に招いて、やがて孫権が皇帝を号するようになると、彼を尚書に任じた。

嘉禾年間に、中書令となり、侍中を加官された。

242年、太子太傅に任ぜられ、中書令の職務も以前どおり担当した。

カン沢は、経書やその解釈は文章が煩多で、それらすべてを実際に用いることが困難であることから、種々の注釈家の説を比べあわせ、礼の経文とその注釈とを簡略化して、それを太子の孫和と魯王の孫覇とに教授し、また二人のために外出の際や賓客と会う際の作法を制定した。また別に『乾象暦注』を著して、暦と季節や日付がよく一致するようにした。

朝廷において重大な事柄が議論されたり、経典について疑問が生じたりしたときには、いつも彼の意見が求められるのであった。儒学にはげんで功績があったということで、都郷侯に封じられた。

呂壱の悪事が発覚したときのこと、かかりの役人がその罪状を調べ上げて、死刑に処すべきことを上奏した。ある者は、火あぶり車裂きの刑を加えて、大悪人のなれの果ての見せしめにすべきだとの意見を述べた。孫権がこのことについてカン沢に尋ねると、盛んで輝かしき御代に、このような刑を行ってはいけないといい、孫権は、カン沢の意見に従った。

また諸官庁では不正の発生になやまされて、禁令監視を強めて臣下たちを取り締まりたいと望んだが、カン沢はつねに「礼と律とによるべきだ」と述べた。彼が和をたっとびながらも正直を貫いたさまは、みなこのようなふうでもあった。

243年、冬にカン沢は死去した。享年不明。孫権はその死を哀惜して、食事を取らぬことが数日に及んだ。


評価

カン沢は、謙虚で実直な性格で、宮廷や行政府の身分の低い役人であっても、彼らを呼び寄せて質問をしたりするときには、いつも対等の者としての礼をとるのであった。他人に欠点があるときにも、それを直接に口に出したりはせず、彼自身の容貌は、あまり学問もありそうには見えなかったが、その見聞の広さはほとんど限りがなかった。

『呉録』によると、虞翻はカン沢を称賛して、「衆にぬきん出て優れているが、それはちょうど蜀の地の揚雄と同様なのだ」といい、また次のように、「儒学にも徳行にも優れ、これぞ現代の董仲舒なのだ」と称えた。

魏の曹丕が即位したときのこと、孫権が改まることのない場で群臣たちに、曹丕には年齢では立ち打ちできないから心配しているというと、カン沢が、「十年もたたぬうちに、曹丕は死にましょう。大王さまには、お気遣いなさいませぬように」といった。孫権が理由を尋ねると、カン沢は、「その字からいいますれば、不十(十あらず)で丕の字になるのです。これが彼の定めなのです」はたして、曹丕は七年にして崩御した。

このことについて裴松之の注釈によると、「計算してみると孫権は曹丕より五歳年上であるのであって、その差はわずかである」と述べている。

カン沢の同郷の先輩として丹陽の唐固がおり、彼も身を修め学問を積んで、まことの学者だとの評判をとった。『国語』『公羊伝』『穀梁伝』の注釈を著し、その学問を受ける学生がつねに数十人をくだらなかった。


演義

小説『三国志演義』では、孫権の代に集まった人材の一人として名が登場する。

208年の赤壁の戦いのとき、黄蓋の苦肉の策に協力し、甘寧達と謀議をめぐらし、さらに曹操のもとへ使者として赴き、黄蓋の降伏を疑った曹操を優れた弁舌で丸め込むなどの活躍を見せている。

また222年の夷陵の戦いの時、陸遜を大都督に任命するよう、孫権に進言している。