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後漢伝


陸績 公紀りくせき こうき

姓名陸績
公紀
生没年187年 - 219年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評足が不自由な博識ある学者として、天文や暦学にも通じる
主な関連人物 孫権 孫策 陸遜 
関連年表 196年 幕僚の末席に加えられる

略歴

陸績、字を公紀といい、呉郡の呉の人である。父親は陸康、弟は陸儁、子は陸宏、陸叡、娘に鬱生がいる。

陸績は、六歳のとき、九江において袁術に目通りをした。袁術が橘(みかん)をお菓子として出したところ、陸績はそのうちの三つを懐に入れ、退出しようとしてお辞儀をすると、橘がゆかにこぼれた。袁術が、「人に招かれた席でも橘を懐に隠したりするのか」というと、陸績はひざまずいて答えた、「母に持って帰ってやりたいと思ってのことです」袁術は、陸績が普通の子供と違っていることに大きな感銘を受けた。

孫策が呉にあったころ、張昭・張紘・秦松らが上客として遇されていた。孫策は彼らと語り合い、天下がまだ安定しておらず、もっぱら武力的な政治を行って天下を平定する必要があるとの議論を展開したことがあった。このとき、陸績はまだ年若く末座にあったのであるが、遠くから大声で、「武力や兵車を用いらず、文徳を修めて招きよらせるべき」と言った。張昭らは、陸績の非凡さに心をうたれた。

孫権が呉を纏めてゆくことになると、招かれて奏曹縁に任ぜられた。しかし陸績が正しいと思うところを誰はばからず主張したため、けむたがられて、中央から追われて鬱林太守に任ぜられ、偏将軍を加えられ、兵士二千人を給せられた。事実上の左遷であった。

陸績は、足がよくないうえに、学者として文化的な仕事をしたいと願っていたので、そうした任にあてられたことは彼の志にはそわぬものであった。軍務にあるときにも、著述を行うことをやめず、『渾天図』を著し、『易経』に任をつけ『太玄経』に解釈を施し、それらはみな世の中に広く伝えられた。

自分の死ぬ日を予め知ってみずからを祭る辞を作った。

「漢王朝の志士たる呉郡の陸績は、幼くして『詩経』と『書経』に深く通じ、長じては、『礼』と『易』とを楽しんだ。主命によって南方の軍征に従事したが、病を得、困苦に迫られて、長寿を得ることができなかった。ああ、悲しいことだ、ねがいとかけ離れてしまったその生涯は」

また次のようにもいった。

「いまより六十年のあと、馬車は軌(わだち)を一つにし、文字も共通のものとなり、天下は統一されるであろう。それを目にすることのできぬことが心残りである」

陸績は、享年33歳で死去した。


評価

陸績は、男らしい風貌をそなえ、博学で知識が広く、天文暦法や計算術など、その読者が及ばぬ方面がなかった。虞翻は古くから名の知れた著名人であり、ホウ統は荊州の名士であって、年齢的にも彼よりいささか上であったが、二人とも陸績と親友として交わした。


演義

小説『三国志演義』では、孫権の時代に集まった人材の一人として名があがる。

赤壁の戦いでは降伏派の家臣の一人として登場し、孫権と曹操に戦わせるために孫権を説得させる使者として訪れた諸葛亮に対し、多くの降伏派の群臣達と共に論戦を挑むものの、陸績は諸葛亮に袁術の前で蜜柑を盗んだ過去をからかわれた上で論破されてしまった。