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呉が晋に降伏

後漢伝


賀斉 公苗がさい こうびょう

姓名賀斉
公苗
生没年? - 227年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評山越や不服従民を討伐し、魏との戦いで活躍した将軍
主な関連人物 孫権 孫策 徐盛 陸遜 
関連年表 196年 県長となる
203年 平東校尉となる
208年 威武中郎将・偏将軍となる
213年 奮武将軍となる
215年 合肥の戦い
216年 安東将軍・山陰侯となる
222年 後将軍・徐州牧となる

略歴

賀斉、字を公苗といい、会稽郡の山陰の人である。父に賀輔、子に賀達、賀景がいる。

虞預の『晋書』によると、賀氏は元来、慶氏という姓であった。賀斉の伯父の慶純は、学者として人々から高く評価され、漢の安帝の時代に侍中や江夏太守をつとめた。いったんは官を去ったが、江夏の黄瓊や広漢の楊厚らとともに、公の馬車が遣わされてふたたび朝廷に召し出された。それに際し安帝の父親の孝徳皇の諱を避けて、姓を賀氏と改めた。賀斉の父親の賀輔は、永寧県の長をつとめた。

若くして郡の役人となり、セン県の長の代行をつとめた。県の役人であった斯従は、仁侠を好んで悪事を働いていた。賀斉が彼を取り締まろうとすると、主簿の役人が諌めて、「斯従は県内の豪族で、山越たちも彼になついております。もし彼を処分されますと、次の日には叛従の一味がおしかけてまいります」といった。賀斉は、これを聞いてひどく腹を立て、ただちに斯従を斬った。

斯従の一族郎党はすぐさま同勢を糾合し、千人以上の者を集めると、武器を取って県の役所に攻め寄せてきた。賀斉は、役人や住民たちを指揮し、城門を開いて打って出て、さんざんに一味を打ち破った。

このことがあって賀斉の威声は山越たちの間に鳴りひびくこととなった。そののち、太末県と豊浦県の住民が反乱を起こすと、彼は転じて太末県の長を代行し、反抗する者は誅殺し、従順な者には保護を加えて、一年ほどの間に反乱をすべて平定した。

196年、孫策が太守として会稽郡を治めることになると、賀斉を考廉に推薦した。この当時、孫策に追い出された前の会稽太守の王朗が東冶に逃げこんでおり、侯官の長であった商升は、王朗のために孫策討伐の兵を起こした。孫策は、永寧県の長であった韓晏に南部都尉の職務を与え、兵を指揮して討伐に向かわせると、かわりに賀斉を永寧県の長に任じた。

韓晏が商升に打ち破られると、賀斉はさらに韓晏に代わって南部都尉の職務にあたった。商升は、賀斉の威声に畏れをなし、使者をおくって盟約を結びたいと申し入れてきた。賀斉は、その使者を介して商升を教えさとし、どのように身を処すれば安全が保てるかを述べ聞かせたところ、商升は印綬を差し出し、その根拠地を棄てて降服を願い出てきた。

敵方の頭目の張雅やセン彊らは、商升が降服をすることに不満を懐き、それならいっそのことと考えて、共謀して商升を殺すと、張雅は無上将軍と名乗り、セン彊は会稽太守を名乗って徹底抗戦のかまえを示した。敵方の勢いは盛んであるのに対して味方の兵士は少なく、討伐を行うには十分でないところから、賀斉は軍を留めたまま兵士たちを休養させた。

そうするうちに張雅が娘婿の何雄と勢力を争い、二人の仲が悪くなると、賀斉は山越の者たちをたきつけ、両者の反目に乗じて内部抗争をおこさせたので、両派は不信の念をつのらせ、兵力によって相手の出方を窺おうとするまでになった。賀斉は、そうした様子を見定めたうえで軍を進め、一度の戦いで散々に敵を打ち破った。張雅やセン彊の一味はふるえ上がり、部下たちをひきつれて軍門に降って来た。

侯官は平定されたが、建安・漢興・南平の地でふたたび反乱がおこったので、賀斉は建安まで兵を進めて、そこに都尉の役所を置いた。203年のことである。会稽郡の役所は、その配下の各県に指令し五千人の兵を徴発して軍団を作らせ、各県の知事がその指揮者となって、みな賀斉の指図のもとに入らせた。

不服従民の洪明・洪進・苑御・呉免・華当ら五人は、それぞれに一万戸を指揮し、みな漢興に本営をつらねて置き、呉五は、それとは別に六千戸を率いて大胆に本営を置き、鄒臨は別に六千戸を率いて蓋竹に本営を置いて、彼らはそれぞれに余汗まで兵を進めていた。それに対抗するため軍を動かして漢興に討伐を加えることになり、その途中、余汗までやって来た。

賀斉は、叛徒たちの数が多く官兵は少ないことから、深く攻めこめば後が続かず、退路を断たれてしまうであろうことを心配して、松陽県の長の丁蕃に命じ、余汗に留まって敵の動きに備えさせた。丁蕃は、もともと賀斉と隣り合う城を治めた同輩であったのであるが、ここでその配下として指図を受けなければならぬことになったのを恥だと考え、辞りをいって余汗に留まろうとはしなかった。賀斉は、やむをえず丁蕃を斬ったが、それ以降は全軍がふるえ上がって、彼の命令を聴かぬ者はなくなった。そこで兵士を分け、その一部を余汗に留めて守備にあたらせると、さらに軍を進めて洪明らを討伐した。つづけざまに大勝利を収め、戦闘の中で洪明を斬ると、呉免・華当・洪進・苑御らは、みな降服した。この戦役の中で討ち平らげて斬首した者が六千、名ある頭目はことごとく捕虜にした。反乱を鎮圧したあとふたたび県や邑の機構を立て直し、この地域から選抜して兵士一万人を軍に編入した。この功績により賀斉は平東校尉に任ぜられた。

205年、会稽南郡から転じて上饒の討伐に向かい、その地を分割して建平県を立てた。

208年、賀斉は威武中郎将に昇進し、丹陽などを討伐した。このとき、武彊・葉郷・東陽・豊浦の四つの郷がまず降服したので、賀斉は上表して意見を具申し、葉郷を昇格させて始新県を立てた。しかしその後、不服従民の頭目である金奇は、一万戸を配下に収めて安勒山に立てこもり、同じく毛甘も一万戸を配下に収めて烏聊山に立てこもり、頭目の陳僕や祖山らも二万戸を集めて林歴山に立てこもってしまった。林歴山は四面が切り立って、高さは数十丈、そこに通じる小道は険しく狭く、刀や楯を用いることができず、しかも叛徒たちが高みから石を落とすので、攻撃を加えることができなかった。

軍を止めたまま日かずがたつと、部将や兵士の中には不満がつのってきた。賀斉は、みずからこの山のまわりを一周し、攻撃の加えやすそうな所を見て取ると、ひそかに身軽で敏捷な兵士を募り、彼らに持たせる鉄製の弋(ハーケン)を作らせた。そうして人目につかず、叛徒たちも見張りを置いてない場所から、弋によって山を切り開いてよじ登るための道を作り、夜闇にまぎれてそこを登ると、上からたくさんの布を垂らして下にいる者たちを引っ張り上げさせた。百数十人を上に登らせることに成功すると、四方に散らばり、いっせいに太鼓と角笛とを鳴らさせ、賀斉は、兵士たちに出動準備を整えさせたまま、成り行きを見守った。叛徒たちは、夜中に太鼓が四方から一斉に鳴るのを聞き、てっきり大軍がすべて登ってしまったのだと思い、恐れ惑って、なすすべも知らなかった。登り道の守りにあたり、要害の地に配されていた者たちも、みな逃げもどって皆といっしょになろうとした。そのため攻撃がわの軍は大挙して山上に登ることができ、陳僕らを大敗させた。のこった者たちはみな降服し、斬った首級は七千にのぼった。

賀斉は、ふたたび上表をし、反乱のあった地を分割して新定・黎陽・休陽・并などの六つの県を立てるようにと具申した。孫権はその意見をいれて、それらをまとめて新都郡を立てると、賀斉を太守に任じて、その役所を始新に置かせ、偏将軍を加官した。

211年、呉郡余杭の平民の郎稚が一族郎党を集めて反乱を起こし、またもやその配下に数千人という人数が集まった。賀斉は余杭まで進め、即座に郎稚を打ち破った。そこで上表して意見を具申し、余杭を分割して臨水県が立てられた。

213年、豫章東部の平民の彭材・李玉・王海らが立ち上がって反乱をおこし、一万人以上の者が配下に集まった。賀斉はこれに討伐を加えて討ち平らげ、その首謀者を誅殺すると、ほかの者たちはみな降服をした。降服した者たちの中から精悍な者を選び出して兵士とし、それに外れた者は県の戸籍に編入した。この功績で賀斉は、奮武将軍に昇進した。

215年、孫権の指揮のもとで、合肥に遠征した。このとき、城中から繰り出してきた魏の兵と戦ううちに、徐盛が負傷をして将軍の旗さしものを失ったが、賀斉は、兵を指揮して防ぎ戦い、徐盛が失った旗を奪い返した。

216年、ハ陽の平民の尤突が、曹操の印綬を受けて魏に内通し、民衆たち扇動して呉に対し反抗的な行動を取らせた。陵陽・始安などもそろって尤突に呼応した。賀斉は、陸遜と力を合わせて尤突を討伐し、数千人の首を斬ると、ほかの一味は震え上がって降服し、丹陽の三県もすべて降服した。降服した者たちから選抜して精鋭の兵士八千人を軍に編入した。この功績で安東将軍の位を授かり、山陰侯に封ぜられて、長江のほとりにその駐屯地を進め、扶州から上流の皖までの地域の軍事の総指揮にあたることになった。

黄武年間のはじめ、魏の曹休が派遣して討伐の軍を進めてきたとき、呉の諸軍団に動員がかけられたとき、賀斉は、戦場までの道のりが遠かったために遅れて到着したことから、新市に軍を留めて防御にあたることになった。たまたま洞口にあった諸軍団が暴風にあって流され水に沈み、その半数が失われて、部将も士卒たちも色を失ったが、賀斉がまだ渡河しておらず、彼の軍だけはまったく損傷を受けてなかったことから、部将たちはそれを後ろ楯にして勢いを盛り返した。

賀斉は、豪奢できらびやかなことを好む性格で、特にそれを軍事面で発揮した。武器甲冑や軍用機具はとびきり精巧で上等なもので、乗っている船には彫刻や彩色を施し透かし彫りで飾り、青いパラソルを立て赤いカーテンを垂らし、大小の楯や矛には花文様を色あざやかに描き、弓や矢にはすべて最高の材質のものを用い、蒙衝や戦艦のたぐいは、遠くから見やるとあたかも山のようであった。曹休らは、そうした威容に恐れをなし、そのまま軍をまとめて引き返した。

後将軍に昇進し、仮節を与えられ徐州の牧の任を授かった。

呉の晋宗は、戯口を守備する部将であったが、その配下をひきつれて魏に走った。魏では再び南方に派遣して太守に任じ、着任した晋宗は安楽を襲撃して、そこにいる人質たちを奪い取ろうと企てた。孫権は、晋宗のこうした行動を自分に対する侮辱だとして腹を立て、曹休が軍を引き上げて軍事行動も一段落したことから、六月の夏の盛りに、相手の意表を突こうと、賀斉に命じ、麋芳や鮮于丹らを率いて晋宗を襲撃させ、難なく生けどりにした。

227年、賀斉は死去した。享年不明。


逸話

『抱朴子』によると、昔、賀斉将軍を派遣して山越の叛徒たちを討伐させたときのこと、叛徒たちの中に禁の術(ものの力の発動を封じる呪術)をよくする者がいた。戦いを交えようとするたびに、呪術の力で官軍は刀剣を抜くことができず、弓矢を放ってもみなこちらのほうに戻ってくるため、戦いはいつも不利であった。賀斉は、事態をじっくり読み取り思案をめぐらされると、「金属でも刃のあるものは封じられ、虫でも毒のあるものは封じられても、刃のないものや毒を持たぬ虫は封じることができないとできぬに違いない」そこで堅い木材でこん棒を多数作らせると、精鋭兵士五千人を選んで突撃隊となし、そのすべてにこん棒を持たせた。敵の山越たちは、禁の術に巧みなものがあるとたのんだので、しっかりとした備えは一つもなかった。そこで官軍がこん棒によって攻撃を加えたところ、禁の術者ははたして威力を発揮することができず、打ち殺された者が何万という数にのぼった。

『江表伝』によると、孫権が合肥遠征をし、軍を引き上げることになったとき、逍遥津の北側で張遼の急襲を受け、すんでのところで生命も危うかった。賀斉は、三千人の兵を率いて渡し場の南にあり、虎口を逃れて来た孫権を迎え入れた。孫権は、大きな軍船に乗り込むと、部将たちを集めて酒宴を開いた。賀斉は、敷き物をはずすと、涙を流しながら、「至尊の位にあられるご主君には、つねに万全のご行動を取っていただかねばなりません。今日の出来事は、ご生命にもかかわりかねぬもので、臣下たちは恐れに心をおののかせ、天も地も失ってしまったかのようでございました。どうかこの事件を、一生の戒めとしていただきますように」孫権は、進みでて、賀斉の涙を拭いてやりながら、「まったく恥ずかしい次第だ。この戒めを、単に紳に書き付けるだけではなく、深く心にも刻みつけよう」といった。


評価

賀斉が命令を受けて孫権のもとに伺侯したあと、任地の郡にもどることになると、孫権は都の郊外にまで出て送別の儀式や宴会を行い、その場では音楽が奏され剣舞が舞われた。賀斉に馬車と駿馬とが下賜され、送別の宴も終わって孫権が車に入ると、賀斉にも馬車に乗るようにと命じた。賀斉が主君の前で馬車に乗るのはおそれ多いと辞退をすると、孫権は側仕えの者に命じて賀斉をむりやり馬車に乗せさせ、郡にいるときと同様に威儀を整え行列を作って出発させた。孫権はその様子を望みやり、笑いながら、「人たるもの、努力をせねばならぬ。立派な行いを積み忠勤を重ねなければ、こうした栄誉は得られぬのだ」