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諸葛恪が一世一代の失態

後漢伝


呂岱 定公りょたい ていこう

姓名呂岱
定公
生没年161年 - 256年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評呉国の重責任務をこなし、各地の反乱平定に尽力した人物
主な関連人物 孫権 陸遜 潘濬 孫亮 
関連年表 200年 録事となる
215年 盧陵太守となる
220年 交州刺史となる
239年 武昌の反乱を鎮圧
252年 大司馬となる

略歴

呂岱、字を定公といい、広陵郡の海陵の人である。子は、呂凱(蜀とは別人)がいる。

郡や県の役人をつとめていたが、のちに戦乱を避けて南へ移住した。孫権が呉の勢力を指揮するようになったころ、呂岱はその幕府に出向き、地方官の任を与えられて呉県の丞となった。孫権は、みずから諸県の倉庫や囚徒たちのことを裁断し、それに際しては県の長や丞はみな御前に出て孫権の質問に答えるのが例であったが、呂岱は事務処理と質問に対する受け答えが、はなはだ孫権の意にかなったところから、幕府に呼び戻され録事の官につけられた。

のちに地方に出て余姚県の長に任じられると、精鋭果敢な者を募って、配下に一千余人の兵士を加えた。

会稽郡などに属する五つの県の不服従民たちが呂合や秦狼らを首領として乱を起こすと、孫権は、呂岱を督軍校尉に任じ、将軍の蒋欽らとともに兵士を率いて討伐にむかわせた。呂合と秦狼とを難なく捕らえて、五つの県は平穏になった。この功績により呂岱は、昭信中郎将の位を授けられた。

211年、呂岱は、郎将の尹異らを指揮し、兵士二千人を率いて西方にむかい、漢中の反乱者たちの首領である張魯に誘いをかけ漢興郡の城まで出てくるようにいざなった。張魯が呉の真意を疑って両者の間の道を通れなくしたため、計画はうまくゆかなかった。孫権は、そのまま呂岱に帰還を命じた。

215年、呂岱は、孫茂など十人の部将を指揮し、軍を進めて長沙三郡を奪取した。さらに、安成・攸・永安・茶陵の四つの県の役人たちが共謀して陰山城に入ってたてこもり、人数を集めて呂岱の支配下に入ることを拒否すると、呂岱はこれに攻撃を加え包囲し、またたく間に降服をさせて、三つの郡は呉の支配に服して平穏になった。孫権は、呂岱をそのまま長沙に留めてあたりの鎮撫にあたらせた。

安成県の長の呉トウや中郎将の袁龍らが関羽と気脈を通じて、ふたたび反乱をおこし、呉トウは攸県に立てこもり、袁龍は醴陵にあった。孫権は、横江将軍の魯粛をおくって攸県を攻めさせると、呉トウは魯粛の軍の鋒先を突き破って逃亡した。呂岱は醴陵を攻撃し、難なく袁龍を捕らえて斬った。この功績により盧陵太守に昇進した。

220年、呂岱は歩隲のあとを継いで交州刺史となった。交州に着任すると、高涼の不服従民たちの首領の銭博が降服を申し入れてきたので、呂岱は孫権の許可を得て、銭博を高涼西部都尉に任じた。

また鬱林の異民族の不服従民たちが郡や県の役所を包囲して攻撃をかけてくると、呂岱は討伐を行ってこれを打ち破った。この当時、桂陽やテイ陽一帯に根を張った叛徒の王金が南海郡の辺境地帯で人数を集め、反乱を指揮して付近に損害を与えていたので、孫権は、ふたたび呂岱に詔を下してこれを討伐させた。呂岱は、王金を生けどりにして都まで護送させ、この討伐で斬首しあるいは生けどりにした者が一万余人にのぼった。この功績により安南将軍に昇進し、仮節を授けられ、都郷侯に封じられた。

交趾太守の士燮が死去すると、孫権は、士燮の息子の士徽を安遠将軍となし、九真太守の職務を兼任させると、校尉の陳時に士燮のあとを継いで交趾太守とならせようとした。呂岱は上表して認可を得ると、海南の三郡を分割して交州となして、将軍の戴良をその刺史に任じ、海東の四郡を広州となし、呂岱みずからがその刺史となった。戴良と陳時とを南方に派遣してその任地に赴かせようとしたが、士徽は命令を拒否し、兵を動かして海口を固め、戴良らの着任を阻止しようとした。呂岱は、そこで上疏をして士徽の罪を懲らしたいと願いでると、兵士三千人を率いて昼夜兼行で海上から軍を進めた。呂岱に意見をする者がいて、慎重な行動を取るようにいった。呂岱は、反逆者に対して急襲をかけ、異民族が集結する前に破らなければならないとした。

そのまま軍を進め、合浦に立ち寄ると、そこに留まっていた戴良と合流して先を急いだ。士徽は呂岱がやって来たと聞くと、はたして恐慌をきたし、なすすべも知らず、あわてて兄弟六人を引き連れ肌脱ぎになって呂岱を出迎えた。呂岱は、彼らをすべて斬刑に処し、その首級を孫権のもとに送った。士徽の主だった部将であった甘醴や桓治らが役人や民衆を引き連れて呂岱に攻撃をかけてくると、呂岱は積極的に反撃を加えて散々に打ち破った。この功績により爵位を進められ番禺侯に封じられた。このようにして地方が安定すると広州は廃止され、もとどおりの交州が復活した。

呂岱は交州を平定したあと、さらに進んで九真を討伐し、斬首したり捕虜にしたりした者が何万という数にのぼった。さらに従事の役人を南方に派遣して、呉の国の教化を宣べ伝えさせたところ、国境のかなたの扶南・林邑・堂明の王たちも、それぞれに使者をおくって貢ぎ物を献上してきた。孫権は、呂岱の功労を嘉して、位を進めて鎮南将軍の称号を授けた。

231年、南方の土地が安定したことから、呂岱を召し還して長沙に軍営を駐めて守りにあたらせた。ちょうどこのころ、武陵の異民族たちが不穏な動きを示すようになってきたので、呂岱は、太常の潘濬とともに討伐を加えてこれを平定した。

234年、孫権は呂岱に命じ、潘璋が率いていた兵士たちを替わってあずかり、陸口の守りにあたらせ、のちに蒲圻にその駐屯地を移した。

235年、盧陵郡の賊徒の李桓と路合、会稽郡の賊徒の随春、南海郡の賊徒の羅レイらが時を同じくして蜂起した。孫権は、ふたたび呂岱に詔を下し、劉簒、唐咨らを指揮し、それぞれに分かれて討伐を行わせた。随春がただちに罪を認めて降服すると、呂岱は随春を偏将軍に任じ、それまでの配下をそのまま指揮させた。随春は、のちには呉国の列将の一人にまでなった。李桓や羅レイらはみな斬首されたり捕らえられたりし、その首級は都に送られた。

潘濬が死去すると、呂岱が潘濬に代わって荊州の公文書を決裁し、陸遜とともに武昌にあって、もとどおり蒲圻の駐屯軍の指揮にもあたった。

それからしばらくして、廖式が反乱をおこし、城邑に攻撃をかけたり包囲をしたりして、零陵・蒼梧・鬱林の諸郡の情勢が不穏になってきた。呂岱は、上表してみずから出陣することを願いでると、時を移さず出発して、夜を日についで軍を進めた。孫権は、使者を派遣して呂岱に交州牧の任を追授し、また唐咨らの諸将たちを次々と呂岱のあとを追って派遣した。討伐を加えること一年にして反乱者たちを打ち破り、廖式や彼が勝手に官位を与えて各地に派遣していた臨賀太守の費楊らを斬り、その部下たちを自軍の中に組み入れた。郡県が完全に落ち着くと、呂岱はふたたび武昌にもどった。

このとき、呂岱はすでに八十歳になっていたが、質素な生活の中で仕事にはげみ、みずからその職務を処理した。奮威将軍の張承が呂岱に手紙を送り、周公旦と召公セキを例えて、呂岱の功績を称えた。

陸遜が死去して、諸葛恪が陸遜の職務を継ぐことになると、孫権は武昌を二つの部に分け、呂岱には右部を総監し、武昌から上流の蒲圻にいたるまでの地域の指揮をあたらせた。やがて呂岱は上大将軍に昇進し、息子の呂凱は副軍校尉に任じられて、蒲圻において兵士たちの監督にあたった。

孫亮が即位すると、呂岱は、大司馬の官を授けられた。

256年、呂岱は死去した。享年96歳。呂岱は息子の呂凱に遺言をして、飾りのない棺を用い、死装束としては粗末な頭巾と麻布の単衣を用い、葬送の儀礼も、なるべく倹約に務めるようにと命じた。


評価

呂岱は、清潔な行動によってひたすら公のために尽くし、さまざまな部面で取り上げるに足りる功績であった。交州に赴任したときには、幾年にもわたって家族に仕送りをしなかったため、妻子たちは食べるものにもことを欠いた。孫権は、このことを聞いて嘆息し、臣下たちを責めて、銭と米と反物とが、歳ごとにその額を定めて下賜されることになった。


逸話

呂岱は、呉郡の徐原と親しい交わりを結んでおり、徐原が気概を備え才能と志とを持っていることから、呂岱は彼が大成するであろうことを見抜いて、衣服などを与えて、親しく議論をかわした。のちに徐原は、推薦を受け抜擢されて、御史の官にまで昇った。徐原は、真心があり、なにものをも畏れず、ずけずけとものをいうことを好んだ。呂岱が過失を犯すことがあると、徐原はそのたびに諫言をし、人々の前でも呂岱を論難した。呂岱はこのことで告げ口をする者がいると、呂岱はかえって賛嘆した。

のちに、徐原が死ぬと、呂岱は深い悲しみをこめて彼を哭し、「徳淵(徐原)どのは、この私にとって益友であった。いま不幸にして彼に死なれたあとは、私は誰からみずからの過ちについて指摘を受けられるであろう」といった。

美しい話だとして人々はこの二人の関係について語り伝えた。