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陸遜憤死

後漢伝


鍾離牧 子幹しょうりぼく しかん

姓名鍾離牧
子幹
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評内政にも通じてよくまとめ、反乱軍の鎮圧にも功績を挙げた人物
主な関連人物 陸遜 
関連年表 242年 太子輔義校尉・南海太守となる
263年 公安の督・揚武将軍となる

略歴

鍾離牧、字を子幹といい、会稽郡の山陰の出身で、漢代の魯国の相であった鍾離意の七世の孫である。父は鍾離緒、兄は鍾離駰、子は鍾離禕・鍾離盛・鍾離徇らがいる。

彼は、若いときに永興に移住し、みずから田を墾いて、二十余に否を植えた。稲が実るころになって、同県の住民に、ここは自分の土地だと申し立てる者がいた。鍾離牧がいった、「もともと田んぼが荒れはてていたので、開墾しただけのことだ。」そのまま実った稲ごと土地をその住民にゆずった。県の長(知事)は、このことを伝え聞くと、その住民を召喚して獄につなぎ、法にてらして処罰しようとした。鍾離牧が彼のために取りなしをしたが、知事はいった、「あなたは承宮の行いを慕って、自分も同様の立派な行動をなさろうとするのであるが、私は住民の統治にあたる者であるゆえ、法によって下の者たちを率いてゆかねばならない。どうして公の掟を棄ててあなたの要求に従うことができよう。」鍾離牧がいった、「この地は同じ会稽郡でもあり、あなたさまからご配慮いただいたこともあって、ここにやってまいってしばらく留まりました。しかしいま少しばかりの稲のことでこの住民を殺されるのでありますれば、これ以上この地に留まるつもりはございません。」そういうと家に帰ってしたくをし、山陰にもどろうとした。知事はみずからその家までおもむいて引き留め、彼のいうとおり獄中にあった住民を釈放した。その住民は恥を恐れて、妻子を引きつれ、稲を舂いて得た六十石の米を、鍾離牧のもとに送り返してきた。鍾離牧は門を閉じて米を受け取らず、その住民も運んできた米を道の傍らに置いたままにしていってしまい、米は引き取り手がないままとなった。このことがあってから鍾離牧の名が人々に知られるようになった。

242年、鍾離牧は、郎中から太子輔義校尉にあてられ、南海太守に昇進した。のちに中央に戻って丞相長史となり、司直に転じ、中書令に昇進した。

ちょうどこのころ、建安・ハ陽・新都の三郡の山越の民たちが反乱をおこしたので、鍾離牧は監軍使者として派遣され、反乱者たちを討伐してこれを平定した。降服した叛徒たちの頭目の黄乱や常倶らは、その配下の兵士たちをさし出し、彼らを兵役にあてた。この功によって鍾離牧は、秦亭侯に報じられ、越騎校尉の宮を授けられた。

263年、蜀が魏に併呑されると、武陵郡の五ケイの異民族たちは、その居住地が蜀と接していることから、当時、彼らが呉にそむいて乱をおこすのではないかと心配する議論が盛んに行われた。その結果、鍾離牧が平魏将軍に任ぜられ、武陵太守の任を兼ねることとなって、武陵郡におもむいた。

魏のほうでは、漢カ県の長である郭純を派遣し、仮に武陵太守の職につかせ、フ陵の住民たちを纏め率いて武陵郡へとむかい、蜀の遷陵のあたりまで進んで、赤沙に留まると、異民族の部落の主たちに魏に付くようにと誘いをかけさせた。移民族の中には反旗をひるがえして郭純に応ずるものも出てきた。郭純がさらに進んで酉陽県に攻撃をかけてくると、武陵郡全体が恐慌をきたした。

鍾離牧が郡の役人たちに尋ねた、「西方の蜀の国は傾きたおれてしまい、わが国の辺境は侵略を受けておる。どのようにしてこれを防ぎ守ったらよいであろうか。」役人たちはみな次のように答えた、「いま問題の二つの県は、険阻な山地にあって、異民族たちは武力によって立てこもっておりますから、軍を動かして彼らを騒がせてはなりません。彼らを騒がせれば、異民族のものたちは互いの結束を固めることになります。しばらくはほうっておき、役人を遺わして彼らの恩賞を約束し、ご教科を宣べ伝えて慰撫させられるのがよろしゅうございます。」鍾離牧がいった、「そうではない。外からの侵略が郡内におよび、民衆たちをたぶらかそうとしているときには、その根が深くならぬうちにたたきつぶして抜きとらねばならない。現在の情況は、できるだけ迅速に火を消し止めることを求めておる。」

軍に対して急いで出動の準備をするように命ずるとともに、副官たちの中でこれに反対の意見を出す者は、ためらいなく軍法に照らして処分をした。撫夷将軍の高尚が鍾離牧を説得しようとしていった、「かつて藩太常(藩濬)どのは配下に五万の兵士をそろえて、はじめて五谿の異民族の討伐を行なわれたのであります。しかもそのときには、蜀の劉氏との間に同盟関係が結ばれており、多くの異民族たちもすすんで呉の教化を受け入れていたのでありました。ところが現在は、かつてのような蜀からの援助もなく、しかも郭純はすでに 遷陵に根拠地をかまえております。そうした中で明府は三千の兵でもって深く攻め込こもうとしておられますが、私には成算があるものとも思われません。」鍾離牧がいった、「非常事態に際して、どうしても旧い例などにならっておられよう。」そういうと、すぐさま配下を率いり、昼夜兼行で道を進め、山岳地帯の険阻な場所をぬって、二千里近い行軍を行なうと、異民族の部落に乗りこみ、呉に反旗をひるがえした住民の頭目たち百余人とその一味の者、全部で一千人余りの首を斬った。郭純たちの勢力は四分五裂し、五谿の地は平定された。

この功により鍾離牧は、公安の督、揚武将軍に昇進し、都郷侯に封じられ、やがて濡須の督に移った。さらに前将軍として仮節を授けられ、武陵太守の職務を兼任した。

鍾離牧は、在官のまま死去した。その死後、家には財産も残らず、士人や民衆たちは彼の徳をしのんだ。息子の鍾離禕が爵位を嗣ぎ、鍾離牧のあとを継いでそのまま兵士をあずかった。


逸話

徐衆の『異同評』にいう。鍾離牧は、立派な人物が示した手本を自分自身も実行したのである。ある人が質問をした、「鍾離牧の行動を考えてみるに、人から侵害をうけてもあらがわず、しかもその者にために救いの手をさしのべ、すっぱりと物に執着することなく相手に与えて、しかもそれを還されたときには受け取らなかった。仁にして譲であったといえぬであろうか。」これに答えていった、「私が聞いている仁と譲とはそれとは同じくない。原憲は孔子に次のように尋ねた、『克(相手を侵害すること)と伐(自分を誇ること)と怨(小さいことを根にもつこと)と欲(貧欲)とを行うことがなければ、仁だということができましょうか。』孔子は答えた、『なかなかできないことをなしたとはいえるにしても。それが仁をなしたということなのだ』ともいわれている。この場合、身分の賤しい者が自分の労働で育てたものでもないのに、他人の稲を自分のものだと主張したのであるから、はなはだしく不仁である。しかるに鍾離牧は、彼に稲をゆずり与えてしまい、しかもその罪を救ってやった。これは正義に背いた譲であり、救うべきでない者を救ったのであって、不仁を悪むという道理にそむいている。不仁を悪むこともなくて、どうして仁をなしたとすることができよう。蒼梧澆は、娶った妻が美人であったので、妻を兄に譲った。尾生は恋人との信を重んじて、橋の下で待ち合わせをしたとき水が来ても去らなかったため溺れ死んだ。直躬は、直ぐな行動を好んで、父親が羊をぬすんだことをみずから証言した。申鳴は、国法を大切にし、主君に忠を尽くしたため、その父親は捕われ殺されることになった。忠と信と直と譲との四つの行いは、聖人賢者たちが貴ぶところである。しかるに蒼梧澆の譲が貴ばれないのは、譲の理念にはずれているからである。直躬の直が認められないのは、直の根本にはずれているからである。申鳴の忠が喜ばれぬのは、忠の意味内容を取りちがえているからである。この場合、鍾離牧が侵害を受けてもあらがわず、還されても受け取らなかったのは、なかなかできないことだとはいえても、仁と譲とにかなった行動だということはできぬのである。聖人というものは、徳でもって徳にむくい、直(正しさ)によって怨みに報いるのである。しかるに鍾離牧は、徳でもって怨みに報いようとしたのであって、それは正しくはないのだ。どうしてもこの二つの態度のうちの一つを選択せねばならぬというのであれば、私は孔子の従うのである。」

『会稽典録』にいう。合浦郡高涼の不服従民の頭である仍弩らが略奪を働き、役人や住民を傷つけたので、鍾離牧は郡の境界を超えて討伐を加え、十日あまりのうちにこれを降服させた。また南海郡掲陽県の不服従民の頭である曾夏らは、数千の人数の配下を集めており、十年以上にわたって、彼らに侯の爵位を約束し各種の絹織物千匹を与え、書簡を送り、賞金を与えて、呉に編入することを承諾させようと努めてきたが、まったく成果がえられぬままであった。しかし鍾離牧が使者をおくって彼らの気持をやわらげ説得させると、すぐにみな帰順して、行いを改めて命令に従う従順な民となった。始興太守の羊ドウが太常のトウインにあてた書簡に次のようにいう、「鍾離子幹どののことは、かつてはよく理解できていなかった。思いがけなくも、南海郡を治められることになって、その威厳と恩愛とが配下にゆきわたり、その智略と勇気とがはっきり示されるのをこの目で見ることとなった。それに加え操行はまったく純粋であって、古人の風格をそなえておられる。」彼が尊重されることは、この書簡の例のごとくであったのである。郡にあること四年、病気のためにその職務を去った。

鍾離牧が濡須にあったとき、積極的に軍を進めれば事は有利に展開するにちがいないという確信を持ったが、そうした戦略を上陳することはためらっていた。侍中で東観令であった朱育と酒を飲んだ席で、鍾離牧は高ぶる気持をおさえかねて嘆息した。朱育は、彼が思いどおりの爵位を得られぬことから心を鬱屈させているのだと考えて、鍾離牧に向かっていった、「朝廷の諸先生たちは、うまく立ちまわって労せずして高い宮位や亭侯の爵位をもらい、人と比べられるような手柄もないくせに、人の下に付くことを承服しない。あなたから親しくしてもらっている者ですら腹が立ってならぬのであるから、侯にとってはなおさらのことでありましょう。」鍾離牧は笑って答えた、「あなたのいわれるところ、私の心を知ってくださっているものといいがたい。馬援はこういっている、『人は、立てる功は多くとも、受ける賞は少なくあるべきだ』と。私の功は取り上げるに足りぬものでありながら、授かっている恩寵には過分のものがある。どうして不満に思ったりしよう。ただ陛下から十分な知遇を得られず、しかも朝廷におる者たちからいやがらせをされて、そのため黙したまま健策の上陳をようせずにいる。もしこうした情況にあるのでなければ、積極的な進攻の方策を建言して、お受けしたご恩にお報いするのであって、いまのようにひたすら守り固めておりはしないのであるが。私の心の高ぶりと嘆息とは、このことが原因なのだ。」朱育が重ねていった、「ご主君はちゃんと中にあることを知っておられ、侯の才をもってすれば成しとげられぬことはありますまい。心中にあるところを上陳されるべきだと愚考いたしますが。」鍾離牧いった、「武安君(白起)は秦王に次のようにいったという、『大事に成しとげること自体の難しさよりも、賢者を得ることの難しさのほうがずっと難しいのであり、賢者に能力を発揮させることの難しさよりも、賢者を信頼してすべてまかせることのほうがずっと難しいのでございます。』と。武安君は、秦王の手足となって六国の兼併に尽力したいと願ったが、仕事は与えられても十分な信任が得られないのではないかと心配して、それゆえ前もってこのように上陳したのであった。秦王は、一度は武安君を信任してすべてをまかせることを約束しながら、それを守り通すことができず、結局は成功を目前にした仕事をだめにしてしまい、杜郵で武安君に剣を賜って自殺を命じたのであった。現在、ご主君が私を認めてくださっているのは、秦王が武安君のことを認めていた深さには及ばず、しかも私を害おうとする者は武安君を陥れた笵スイなどよりもずっと有力なのである。大皇帝(孫権)さまの御世に、陸丞相(陸遜)がハ陽を討伐されたときには、二千人の兵士を私にあずけられ、潘太常(潘濬)が武陵を討伐されたときには、私はさらに三千人を配下に加えられてその討伐に従ったのであるが、朝廷において議決がなされ、私を出征させたまま見棄てられ、長江沿岸の督(駐屯地の司令官)たちには、それ以上兵を動員して私の後続とすることを禁じたのであった。その際には国家のご威霊のおかげで窮地に陥ることもなくすんだのであるが、今回もまた同様にうまく行くと、誰もが保証ができよう。もし私が時期と情勢とを考慮に入れず、草卒に上陳をしたりして、もし事をまかせられるようなことになったとしたら、軍勢は不足して、結局は敗軍の憂き目を見ることになろう。どうして"成しとげられぬことはない"などということがあろう。」


評価

『会稽典録』にいう。鍾離牧の父の鍾離緒は、楼船都尉であり、兄の鍾離駰は、上計吏となり、若い時から同群の謝賛や呉郡の顧譚と等しく名声があった。それにひきくらべ鍾離牧は、若いときはのろくて口べただといわれていたが、鍾離駰つねづね人にむかって、「牧は必ずや私よりも立派になるであろう。軽んじてはならない」といっていた。当時、誰もそれを本気にする者がなかった。

陳寿の評によると、鍾離牧は、立派な人物の前例をみずからも踏み行ったと評価している。