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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


郝普 子太かくふ したい

姓名郝普
子太
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評呂蒙に謀られて呉に投降し、間謀に挟まれ不幸になった人物
主な関連人物 呂蒙 潘濬 隠蕃 
関連年表 214年 零陵太守となる

略歴

郝普といい、荊州義陽郡の人である。

214年、劉備は諸葛亮・張飛・趙雲を呼び寄せ、5月には成都を落城させた。荊州留守の大役は関羽に委ねられた。士仁は公安を守り、廖立は長沙太守に、麋芳は南郡大守に、そして郝普は零陵太守に任じられた。また、潘濬は荊州治中として州の行政を司った。

孫権は劉備が益州を得たと知って、荊州の返還を要求したが、劉備は涼州を平定するまで待ってほしいと言って誠意ある返事をしなかった。怒った孫権は呂蒙、鮮于丹を引き連れ、以下二万の兵を与えて長沙・零陵・桂陽三郡の攻略を命じ、魯肅には一万の兵を与えて、巴丘において関羽の進出を拒がせた。そして孫権は陸口に駐まって総指揮に当たった。これを聞いた劉備は五万の兵を率いて長江を下って公安に到着し、関羽に命じて三万の兵をもって益陽に向かわせた。

孫権は三郡の太守を自分のほうで新たに任命したが、関羽に追い払われてしまった。しかし、呂蒙来たると聞くと、長沙太守廖立は逃走し、桂陽太守は降伏した。

郝普だけは降伏しなかった。呂蒙は長沙平定後、郝普の旧友鄧玄之を伴って零陵に向かい、彼の口から郝普に降伏を勧めさせるつもりだった。そこに孫権から、「零陵を捨て、至急軍を還して魯肅を救助せよ」という手紙が届いた。呂蒙はこれを秘したまま、明朝、零陵を攻撃すると言って軍議を開いた。

席上、呂蒙は鄧玄之にこう説いた。「郝子太は世間で言う忠義の道を履み行いたいと考えているが、それは時世の動きを知らないものだ。左将軍は漢中で夏侯淵に包囲され、関羽は南軍で至尊と対陣している。子太の生命はまさに風前の灯同等である。子太が士卒の心を一つにして孤城の守りを少しでも引き伸ばしている間に、救援が来ると思っても、私が自軍の力を計って軍略を設けて攻撃すれば、その日のうちに城は落ちる。そうなれば、身死んで益なく、また子太の百歳の老母が白髪頭で誅戮されるのは、痛ましいではないか。君は彼のために具に禍福を論じてもらいたい。」郝普は恐れて降伏を承諾した。

間もなく、郝普が出て来ると、呂蒙はあらかじめ用意しておいて四百人の兵を城内に入れて城門を固めさせた。呂蒙は郝普を迎えてその手を把って、船に招じいれた。呂蒙が残酷だったのは、挨拶が終わると。「至急還れ」という孫権の手紙を彼に見せ、手を打って大笑いしたことである。自軍にとって不利な手紙をさあらぬ体で隠した上、敵と講和した。郝普は手紙を見て、劉備は公安に到着し、関羽はすでに益陽に布陣していると知り、恥じ且つ恨んで床に突っ状した。

後に郝普は呉で延尉となった。

230年、魏帝曹叡に命じられて呉に降った陰蕃は、延尉監として裁判・刑罰を司ることになり、重臣の非違を厳しく糺弾して、君臣の離間を図った。

これはまんまと成功し、全琮・朱績・潘翥らは彼に傾倒した。郝普は朱績とともに、「陰蕃には王佐の才がある」と称賛し、彼の低い待遇は不当だと不満を漏らしていた。後に陰蕃は謀略が発覚して誅戮され、陰蕃は孫権に問責され、ついに郝普は自殺に追い込まれた。


評価

零陵城明け渡しといい、陰蕃といい、郝普には、軽忽なところがあったと評される。

『蜀書』の末尾に載る『李漢輔臣賛』には、郝普は士仁・潘濬・麋芳ら、いずれも呉に降った蜀臣たちと一括されていて「国を救おうとせず逃亡して人から見離され、蜀・呉二国の笑い者となった」と冷ややかに記されている。


演義

『三国志演義』には登場しない。