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後漢伝


朱績 公緒しゅせき こうしょ

姓名朱績
公緒
生没年? - 270年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評数々の功績を挙げて、後年の呉を支えた名将の一人
主な関連人物 孫権 朱然 諸葛融 
関連年表 249年 平魏将軍・楽郷督となる
252年 鎮東将軍となる
257年 驃騎将軍となる
264年 左大司馬となる

略歴

朱績、字を公緒といい、丹陽の人である。父は朱然、叔父は朱才、娘は施淑女らがいる。元の姓は施氏。

父朱然が高位にあったことから郎に任ぜられ、のちに建忠都尉の官を授かった。

叔父の朱才が死去すると、朱績がその兵士たちをあずかり、太常の潘濬の配下として武陵郡の五渓の異民族たちの討伐に参加し、大胆さを実行力のあることで称賛を受けた。偏将軍府の営下督の官に昇進し、盗賊のとりしまりにあたったが、法をしっかりと守って曲げることがなかった。

魯王の孫覇は、朱績と交わりを結びたいと願っており、あるとき彼の役所にやって来ると、彼と同座をし、親しい関係を結ぼうとした。しかし朱績は、座をはずして起立すると、そのようなことはおそれ多いとことわった。

249年、朱然が死去すると、朱績がその仕事を引き継ぎ、平魏将軍・楽郷督に任ぜられた。

250年、魏の征南将軍の王昶が軍勢を率いて江陵城を攻めたが、陥すことができずに軍を還した。朱績は、奮威将軍の諸葛融に手紙を送って「王昶は遠方からやってきて疲れきっており、馬の飼料もなくなって、力も衰えて逃げ出しましたが、これぞ天がわがぼうに力ぞえしておるのでございます。ただいまこれを追撃している兵力は不十分でありますゆえ、さらに多くの兵を率いてそのあとに続くべきでございます。私がまず先にこれに打撃を与えたいと思いますので、足下さまはそれに乗じて後からいただきますように。これは、一人で立てられる手柄ではなく、二人として心を合わせればどんな困難をも乗り越えられるとされますように、あなたさまと協同して作戦を行なうべきなのでございます。」といった。

諸葛融は朱績のこの作戦に同意を与えた。朱績はすぐさま兵を率いて追跡をし、紀南において王昶を追いついた。紀南の城から三十里の地において、朱績は戦いをいどんで緒戦で勝利を収めたが、諸葛融が軍を進めてこなかったため、やがて朱績の形勢が悪くなり、魏の軍を打ちもらすことになった。

孫権は、朱績の働きを心から喜ぶとともに、諸葛融に対してはその失態を責めて深く憤った。しかし諸葛融の兄の大将軍の諸葛恪が高位にある重臣だということで、諸葛融は官位を奪われずにすんだ。元来、朱績は、諸葛恪・諸葛融とは仲が良くなかったのであるが、この事件があって、仲違いがますます深刻になった。

252年、朱績は鎮東将軍に昇進した。諸葛恪は合肥新城に軍を進めたが、朱績に共同して作戦にあたるよう要請しながら、彼を半州に留まらせたままにして、諸葛融に朱績の任務を兼ねさせた。その年の冬、諸葛恪と諸葛融が誅殺されると、朱績は楽郷にもどって仮節を授けられた。

257年、驃騎将軍を授けられた。

孫綝が政治を牛耳るようになると、重臣たちのうちに動揺がおこった。朱績は、呉の国は必ず混乱し、中原の勢力がその乱れに乗じるであろうと心配をし、ひそかに書簡を送って蜀と連絡を取り、呉が併呑されてしまわぬよう蜀が牽制をしてくれうように依頼した。蜀は、右将軍の閻宇を派遣し、兵士五千を指揮して白帝の守備を増強し、朱績からの指示を待たせた。

上大将軍・都護督に昇進し、巴丘から上流の西陵までの地域の守備にあたった。

264年、左大司馬を授けられた。

270年、朱績は死去した。享年不明。


評価

魏の詔勅では、朱績のことを「賊国の名臣」と述べている。

陳寿の評では「呂拠・朱異と共に軍の指揮者として有用な才を備え、よく父祖以来の仕事を受け継いだ」と称えている。

陸機は『弁亡論』にて、威信の重さで人々に知られていたと語った。また『会稽典録』には、呉の唐盛は朱績のことを知勇兼備の名将だと思っていた、と書かれている。

朱然は、朱治の喪があけたとき、もとの姓にもどりたいと願い出たことがあったが、孫権はそれを許さなかった。朱績が上表してはじめて、施氏の姓にもどることができた。