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淮水の戦い

後漢伝


呂拠 世議りょきょ せいぎ

姓名呂拠
世議
生没年? - 256年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評不運にも孫綝と激しく対立して、魏に投降せず自害した人物
主な関連人物 呂範 朱異 孫峻 
関連年表 228年 安軍中郎将となる
241年 偏将軍となる
251年 盪魏将軍となる
252年 右将軍となる
253年 驃騎将軍となる

略歴

呂拠、字を世議といい、豫州汝南の人である。父は呂範がいる。

呂範の長男ははやく死去したので、次男の呂拠があとを継いだ。呂範が高位にあることから郎に任ぜられた。のちに呂範の病気がおもくなると、副軍校尉の官を授かって、父親の補佐として軍務を処理した。

呂範が死去すると、呂拠は安軍中郎将に昇進した。

呂拠は、しばしば山越の不服従民を討伐し、奥まった険阻な土地も、彼が攻撃をかける所、みな打ち破られた。

太常の潘濬のもとで武陵郡の五渓の討伐に加わり、ここでも手柄を立てた。

朱異が襄陽の樊を攻撃したときには、呂拠は朱異とともに城の外まわりの防衛陣地を打ち破って、帰還したあと、偏将軍を授けられた。

のちに宮廷に入って馬閑右部督の任を授かり、越騎校尉に昇進した。

251年、暴風が吹いて、長江が氾濫し、城門が水浸しになった。孫権が人をやって出水の様子を見させると、呂拠一人が人々を指図して大きな船をつなぎとめ、被害が出るのを防ぎとめているのが見られた。孫権はこれを喜び、彼に盪魏将軍の位を授けた。

孫権の病気がおもくなったとき、呂拠を太子右部督に任じ、太子補佐にあたらせた。やがて太子孫亮が即位すると、呂拠は右将軍に任ぜられた。

魏が東興に兵を出してくると、呂拠は急遽、軍を動かしてこれに討伐を加え、手柄を立てた。

253年、孫峻がクーデターをおこして諸葛恪を殺すと、呂拠を驃騎将軍に昇進させ、西宮のことを処理させた。

255年、仮節を授かり、孫峻らとともに寿春に攻撃をかけた。その帰還の途上、魏の部将の曹珍と遭遇すると、これを高亭において打ち破った。

256年、軍を率いて魏に侵攻した。その軍がまだ淮水にまで達しておらぬところで、孫峻が死んで、従弟の孫綝が勝手にそのあとを継いだとの知らせが入った。呂拠はこれにひどく腹を立て、軍を率いて引き返すと、孫綝を廃しようとした。孫綝は、このことを聞くと、中書に命じて詔を出させ、文欽、劉簒、唐咨らに呂拠を取り押さえることを命じ、一方では従兄の孫憲を派遣し、都にいる兵士たちを率いて江都で呂拠を迎え撃たせた。

呂拠の側近らは魏に降るようにと勧めたが、呂拠は、「叛臣となるのは恥だ」といって、自殺をした。その一族は皆殺しにされた。享年不明。


評価

陳寿の評によると、欠点もなかったのに禍を被って命を落としたのは、生きた時代の間に変化があったからなのだ、としている。