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孫権が帝位に就き呉建国

後漢伝


張承 仲嗣ちょうしょう ちゅうじ

姓名張承
仲嗣
生没年178年 - 244年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号定候
伝評人物鑑定に長けて推薦し、絶えず努力を怠らなかった人物
主な関連人物 張昭 諸葛瑾 張休 
関連年表 219年 西曹掾となる
221年 濡須都督・奮威将軍となる

略歴

張承、字は仲嗣といい、彭城県の人である。父は張昭、弟は張休、子は張震らがいる。

張承は若い頃から才学をもって知られ、諸葛瑾・歩隲・厳畯らと親しかった。

219年、孫権が驃騎将軍になると、張承はまねかれて西曹掾として官史の選抜に当たり、後に長沙西部都尉に任じられた。そして山越を討伐し、一万五千人の精兵を配下にした。

221年、昇進して濡須都督・奮威将軍となり、都郷候に封じられ、部曲五千人を領した。

張承の人柄は堂堂として勇ましく、道理に合った発言をし、人物の鑑識にも秀でていた。彭城郡の蔡款・南陽郡の謝景を、幼くて不遇の境遇の中から抜粋した。蔡款は内外の官を歴任し、清貞をもって世に知られ、衛尉に昇進し、留候に封じられた。謝景は太子孫登の賓客の一人に選ばれ、孫登から深く信頼され、後に豫章太守にまで昇進した。

魯淑(魯肅の子)が成人すると、自分の後任として都督になる人物であると評価した。後に魯淑は武昌督、次いで夏口督に就任した。

また、諸葛恪は若いころ、人々から英才を高く評価されていたが、張承は「ついに諸葛氏の家を破る者は元遜であろう」と言い、結局、そのとおりになってしまった。

張承は絶えず自分の研鑽に努め、人々に思いやりを缺かさなかったので、大勢の人たちがその門を訪れた。

244年、67歳で亡くなり、定候と諡された。子の張震が後を継いだ。


評価

陸機は『弁亡論』の中で「教養高く、その名声によって国家に栄誉をもたらした」人物の1人として、張承の名を挙げている。

周昭の評価によると、張承のことを「己を虚しくする人格者」と評している。


見解

『呉書』張昭伝には、「長子の承はすでに候に封じられていたので、末子の休が父の爵位を継いだ」とある。しかし張承の字は仲嗣、張休の字は叔嗣である。となると、一番上に伯嗣の字を持つ子がいたはずであり、それならば、張承は次男である。

兄弟を年齢順に伯・仲・叔とも言い、字の一字に用いる例が多い。長男を孟で示す例としては曹操・馬超が挙げられる。

張承が妻を亡くすと、父の張昭は諸葛瑾の女を後妻にしようとした。張承は瑾と友人だったので渋ったが、これを聞いて孫権自ら口添えして結婚させた。二人の間に生まれた女を、孫権は子の孫和の妃とした。