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諸葛恪が一世一代の失態

後漢伝


諸葛恪 元遜しょかつかく げんそん

姓名諸葛恪
元遜
生没年203年 - 253年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評若くして才能に溺れ、軍事の失敗を問われて殺害された人物
主な関連人物 孫権 諸葛瑾 孫亮 孫峻 
関連年表 220年 騎都尉となる
234年 丹楊太守となる
237年 威北将軍・都尉候となる
246年 大将軍となる
252年 太傅となる

略歴

諸葛恪、字を元遜という。父は諸葛瑾、弟は諸葛喬、諸葛融、子は諸葛綽、諸葛竦、諸葛建、甥は諸葛亮らがいる。

若くしてその名が知られた。二十歳前後で騎都尉に任ぜられ、顧譚・張休らとともに太子の孫登の側近くに仕え、ものごとの道理や学問を太子に教授し、みな賓優として遇された。中庶子から左輔都尉に転じた。

諸葛恪の父親の諸葛瑾は、面長で驢馬に似ていた。孫権は、群臣たちを大勢集めた席上で、一匹の驢馬を引いてこさせると、その驢馬の顔面に細長いふだを付けて、それに「諸葛子瑜」と書かせた。諸葛恪が跪いていった、「どうか筆で二字書き加えるのをお許しください。」そこでそれを許して筆を与えると、諸葛恪はその下に続けて「之驢」と書き加えた。一座の者はみなどっと笑い、その驢馬は諸葛恪に下賜された。そののち、ふたたび目通りをしたとき、孫権は諸葛恪に尋ねた、「あなたの父上と叔父上とでは、どちらが賢いであろう。」答えていった、「臣の父が勝っております。」孫権がその理由を尋ねると、答えていった「臣の父は仕えるべき所を知っておりますのに、叔父にはそれが分かりません。それゆえ父が勝っておるのでございます。」孫権は、このときにも大笑いをした。

諸葛恪に命じて、宴席において酒を勧める役にあたらせた。張昭の前まで来たとき、張昭はもうすでに酔いが回っていて、杯を取ろうとはせず、いった、「このように無理強いをされるのは老人をいたわるという礼にそむいておる。」と孫権が諸葛恪にいった、「あなたが、張公をうまくいい負かせられたら、彼もそれを飲むであろう。」諸葛恪は、そこで張昭の言葉に反論をしていった、「昔、師尚父は、年が九十になっても、旗を手にとり鉞を杖ついて陣頭に立ち、年老いたことを理由に役目を辞退したりはいたしませんでした。ただ今、軍役のことについては、将軍はもう先頭には立たれませんが、宴会の際には、将軍を先頭に立てようとするのであって、どうして老人を大切にせぬなどと申せましょう。」張昭は、一言も反論ができず、やむをえず杯を飲みほした。

そののち、蜀から使者が到来し、呉の群臣たちがみな参集した席で、孫権はその使者にむかっていった、「この諸葛恪は平素より乗馬を好んでおる。帰国されたら丞相どのに申されて、彼のために良馬を送っていただくように。」諸葛恪は、これを聞くと、座をすべって感謝の言葉を申し述べた。孫権がいった、「馬はまだ来ておらぬのに、謝意を表すのはなぜか。」諸葛恪が答えた、「蜀の地は、陛下の、遠く離れた厩なのでございます。ただいま特別のおぼしめしによる詔がありましたうえは、馬は必ずやってまいります。どうして謝意を表わさずにおれましょう。」諸葛恪の頭のめぐりの良さは、みなこうして類であった。

孫権は、彼の才能を高く評価し、実務によってその才を試そうと考えて、彼に節度の役目を兼任させた。節度の役目は、群の兵糧を統括するもので、文章の処理が繁雑であるため、彼の望むところではなかった。

『諸葛恪別伝』にいう。孫権があるとき蜀の使者の費禕を饗応したが、それに先だち、群臣たちに、使者が到着してもそのまま食事を続け、身を起こしたりしてはならないといいつけておいた。費禕が到着すると、孫権は食事をやめたが、群臣たちは誰も身を起こすものがなかった。費禕がからかっていった、「鳳凰が翔り来たると、麒麟は食事をやめたが、驢馬や騾馬はばかだから、相変わらずうつむいて食事を続けておる。」諸葛恪がお返しにいった、「梧桐の木を植えて、鳳凰がやって来るのを待っていたが、何としたことか燕雀の類がやって来て、勝手に鳳凰が翔り来たったのだと称しておる。弾弓で射て、故郷に追い帰さねばなるまい。」

費禕は、食べていた餅を置くと、筆を求めて「麦の賦」を作った。諸葛恪も筆を求めると「磨の賦」を作った。両者ともに立派な作品だと称賛された。

孫権が、あるとき諸葛恪に尋ねた、「近頃、どんな楽しみごとがあって、ますますふとってつやつやしくなったのか。」諸葛恪が答えていった、「富は家を潤し、徳は身を潤すと聞いております。臣は、楽しみごとにふけっているのではなく、おのれの行動を正しておるだけなのでございます。」また尋ねた、「あなたは自分自身を董允と比べてどうだと考えておるか。」諸葛恪が答えていった、「宮中にあって、みごとな立居振舞いをするという点では、臣は董允に及びませんが、計画を練り策謀を運らすことについては、董允は臣に及ばぬのです。」

諸葛恪があるとき孫権に馬を献上したが、その馬の耳には前もって穴があけられていた。范慎がちょうどその席にいて、諸葛恪をからかっていた、「馬は大きな家畜にすぎぬとはいえ、天から気をうけて生まれたものだ。その馬の耳に傷をつけられたのは、仁を残なうことになるのではないか。」諸葛恪が答えた、「母親の娘に対する情愛は、情愛の中でも尤も篤いものです。その母が娘の耳に穴をあけて珠飾りを付けさせるのでありますから、耳に穴をあけることがどうして仁を残なうことになりましょう。」

孫登があるとき諸葛恪をからかっていった、「諸葛元遜は馬の糞を食らうべし。」諸葛恪がいった、「太子さまには鶏卵を食べていただきたい。」孫権がいった、「人から馬の糞を食らえといわれたのに、あなたのほうでは人に鶏卵を食べさせようとするのはなぜか。」諸葛恪がいった、「その出どころは同じです。」孫権は大いに笑った。

『江表伝』にいう。あるとき、頭の白い鳥が宮殿の前庭にやって来た。孫権がいった、「これは何という鳥であろう。」諸葛恪がいった、「白頭翁でございます。」張昭は、自分が同座の中で最も年を取っていることから、鳥にかこつけて諸葛恪が自分をからかっているのではないかと考え、そこでいった、「諸葛恪は陛下に嘘をついております。白頭翁などという名の鳥のことは聞いたこともございません。諸葛恪に別に白頭母という鳥を探されてはいかがでしょう。」諸葛恪がいった、「鸚母、という名の鳥はおありますが、それと対をなす名の鳥がおるとは限りません。輔呉将軍さまに別に鸚父と申す鳥を捜していただいたらいかがでしょう。」張昭はこれに返答ができず、その席にあった者たちはみな笑いさざめいた。

『江表伝』にいう。孫権は、呉王となると、はじめて節度の官を置いて、軍糧のことをつかさどらせた。これは漢王朝の制度にはなかったものである。最初、侍中で偏将軍であった徐詳がこの官にあてられ、徐詳が死ぬと、代って諸葛恪を用いようとした。諸葛亮は、諸葛恪が徐詳の後を継ぐと伝え聞くと、陸遜に手紙を送っていった、「わが兄はもう年を取ってしまって、しかも諸葛恪はいいかげんな性格でありますのに、その彼に穀糧のことをつかさどらせようとされたとのことです。穀糧は軍事の最も重要なかなめとなるものです。私は遠方の地におるのでございますが、ひそかにこのこおに不安を懐きます。足下さまには、どうか陛下に申し上げて、彼の役目を変えていただきますように。」陸遜がこのことを孫権に上言すると、ただちに諸葛恪は兵士を指揮する役目のほうに移された。

諸葛恪は、丹楊郡は山がけわしく、住民たちの多くが勇敢なのであるが、かつて兵卒の微用を行なった際には、ただその周辺部の従順な住民を兵士に微用できただけで、それ以外の奥地では、その住民を完全に捕捉することができていない、との意見を述べ、みずから地方官としてその地に赴きたいと幾度も願い出て、三年の間に武装した兵士四万人を手に入れてみせますと上申した。人々はそろって次のような意見を述べた、「丹楊郡は地勢険阻で、呉郡・会稽・新都・鄱陽の四郡と隣接しており、その周囲は数千里の距離があって、やまや渓谷が十重二十重にいりくんでいる。その奥地の住民たちには、まだ城邑に出て、地方の長官たちに目通りしたことがない者もいて、みな武器を持って山野に逃げかくれ、林野の中で一生過ごしており、逃亡者や頑強な悪人どももみな彼らの中に逃げひそんでいる。また山からは銅や鉄が産出し、甲冑や兵器を鋳造して自給することができ、武を好む気風が盛んで戦いには慣れており、忍耐強さが尊ばれて、彼らが山を登り険阻の地を通過し、やぶをものともせず突き進むさまは、ちょうど魚が淵の中を泳ぎ、さるが木に登るのと変わりがない。しばしば隙をうかがって、山を出て略奪を働くため、そのたびごとに兵を動かして征伐を行ない、その巣窟をさがすのであるが、戦いとなる蜂のごとく集まって来て、敗北すれば鳥のように四散してひそみかくれてしまう。前代以来、どうしてもいうことを聴かせることができなかったのである」と。人々はみな諸葛恪の計画の実現を疑問視したのである。諸葛恪の父の諸葛瑾も、このことを聞くと、事は失敗に終わることになるだろうと考え、嘆息していった、「恪のやつめは、わが家を大いに盛んにするかわりに、わが一族を根絶やしにしてしまうであろう。」諸葛恪は、事は必ずうまく運ぶと盛んに上陳をした。孫権は、諸葛恪を撫越将軍に任じ、丹楊太守を兼任させて、儀杖用の戟を持った騎馬兵三百を与えた。拝官の儀式が終わると、孫権は諸葛恪に命じ、威儀をととのえ、楽隊に太鼓や笛を鳴らさせ、先ぶれが行列を導きつつ家に帰らせた。このとき、彼は年が三十二であった。

諸葛恪は、任地の丹楊郡に着任すると、四つの郡に属する城々の長官たちにまわし文を送り、それぞれの彊界内の安全を確保し、軍隊組織をしっかりと定め、教化を受け入れている良民たちはすべて屯田地に安住させるようにと命じた。こうした処置を行ったうえで、部将たちを分けて派遣し、奥地の険阻な地に兵士たちを配置したが、彼らには、ひたすら防禦の陣地を補修するのみで、戦いを交えることを禁じ、その地の穀物がみのることを見はからって、兵士たちを放って農田の穀物を刈り取らせ、あとには落ち穂も残らぬようにさせた。去年の穀物は食べ尽くしてしまい、その年の田んぼからの収穫はなく、良民たちは屯田地に住んでいるため、ほとんど何もてに入らない。こうしたことから山越の民たちは飢えにせまられ、次々と山を降りて降伏帰順してくるようになった。諸葛恪は、そこでふたたびその配下に命令を出した、「山越の民たちが悪い仲間を棄てて教化を受け入れるようになったときには、みなその心を慰撫して、周辺の諸県に居住させるように。彼らを取り調べたり、拘束したりするようなことがあってはならない。」

臼陽県の長の胡伉が、降服してきた周遺を捕縛した。周遺は、古くよりの不服従民で、せっぱつまって山から出て来たが、心中では機会をうかがって反乱を起こそうとくわだてていた。胡伉は、そこで周遺を捕らえて、諸葛恪の役所に送って来たのであった。諸葛恪は、胡伉が命令にそむいたとして、すぐさま彼を斬刑に処して見せしめとし、そのあと、この間の事情を孫権のもとに上表した。民衆たちは、胡伉が人を捕縛したことで罪せられ処刑されたと聞き、役所はただ自分たちが山を降りることを望んでいるだけだと知って、老人や幼い者たちの手を引いて山地から出てきた。三年の期限が終わるときには、その人数が先に孫権の前で約束した数を充たした。諸葛恪は、そのうちの一万人をみずからの配下に編入し、余った人数は他の部将たちに分配した。

孫権は、こうした手柄を喜んで、尚書僕射の薛綜を派遣し、諸葛恪の軍を労った。薛綜は、前もって諸葛恪たちに移書を送っていった、「山越の民たちは、険阻な地勢をたのんで、これまで幾世代にもわたり服従してくることがなかった。手を緩めれば日和見の態度を取り、しめつけるとこそこそと隠れひそんでしまったのである。皇帝陛下は、こうしたありさまに赫然として怒りを発せられ、部将たちに西征を命ぜられた。卓越した策略が中央にあって指示され、その威武は遠い土地を震わせたのであった。兵器はその刃に血ぬることなく、甲冑は汗にまみれることもなくして、悪のもとじめはさらし首となり、その一味たちは正しい道のもとに帰順したのである。山籔を洗い清め、十万の異民族の者たちを捕虜として宗廟に献じ、原野に遺った賊徒はなく、邑にも生きのびた悪人はおらぬ。凶悪な者たちを除き去ったのみか、さらに彼らを軍役にあて、役に立たぬ雑草は有用な草と化し、魑魅魍魎たちもたけき兵士となったのである。こうした手柄は、たしかに陛下のご霊威が発揮された結果なのではあるが、同時にまた将軍たちが実際の事にあたる中から招来した成果でもあるのだ。たとえ、『詩経』が称賛する、方叔が異民族を討伐して挙げた大成果、『易経』が嘉している、王者が出征して悪人を斬首するといった手柄、周の方叔や召伯虎、漢の衛青や霍去病が建てた勲功だとて、このたびの功績に比べれば、語るに足らず、その手柄は先人たちをしのぎ、勲は前の世の例を超えたのである。主上は、これに心をよろこばせられ、遥かに、その功績の大きさを賛嘆された、王者より派遣された者が大功を建てた際の労いの様子を歌った『詩経』小雅・四牡篇の古い典に心を動かされ、凱旋した兵士たちに宴を賜わったという『春秋左氏伝』に旧い文章に思いをいたされた主上は、それゆえに中台に侍る側近の臣を遺わされ、凱旋を出迎えて恩賞を行ない、そうすることによって立派な功績を顕彰し、その労苦をねぎらおうとされるのである。」諸葛恪は、威北将軍に任ぜられ、都尉候に封ぜられた。

諸葛恪は、みずから願い出て、軍勢を率いて廬江や皖口で屯田を行うと、隙をうかがって少数精鋭の兵を出して舒を襲撃し、その地の住民をすべて捕虜にしてつれ帰った。そのあとさらに遠くまで斥候を遺り、軍を進めるための近道や要害の地について調べさせ、寿春の攻略を計ろうとしたが、孫権はそれを許可しなかった。

赤鳥年間、魏の司馬懿が諸葛恪に攻撃をかけようとしてきたとき、孫権は兵を動員してそれに対抗しようとしたが、望気者が戦いに利がないと申し述べたため、諸葛恪の軍を柴桑に移らせて、諸葛恪は丞相の陸遜に手紙を送って次のようにいった、「楊敬叔が述べ伝えて来ました、あなたさまのご高論によれば、いまではひとかどの人物たちはみないなくなり、徳行を守り行っている者ももうほとんどおらぬのであるから、われわれは互いに助け合い、こもごも捕いあって、上は国家の事業を輝かせ、下にあたってはお互い尊重しあってゆかねばならぬ、とのご意見だとのことでございました。また、世間一般の風潮が相手をおとしめることばかりを好み、立派に完成した才能を備えた人物までも、わざわざだめにしてしまい、積極的に事をなさんとする人々は、つらい目ばかり見るといった情況をにがにがしく思っておられるともうかがいました。こうしたことをお聞きして嘆息をもらし、ひとり心を高ぶらせた次第でございます。愚考いたしまするに、君子は一人の人間がすべての能力を備えることなどは要求せず、孔子の門徒がおおよそ三千人にも上った中で、特に目をかけられた者が七十二人おり、それら子張・子路・子貢など七十人の弟子は、聖人に亜ぐ徳を備えてはおりましたが、それでもそれぞれに短所があり、子張は奇矯、子路は不作法、子貢は孔子の言いつけを守らなかったのであります。ましてやこれより劣る人々に欠点がないはずがありましょうか。しかも仲尼はこれら弟子たちに欠点を問題にはされず、彼らを手もとに置いて友人として遇し、短所があることでその人物の長所まで無視してしまうようなことはなさいませんでした。ましてや現在は、人材採用にあたって、住古よりもずっと寛容であらねばなりません。なぜかと申しまするに、現在、他国と虚々実々の駆け引きをいたしておるのですが、立派な人物は孤立してその数も少なく、陛下のために職務にあたる者は、いつもその数が十分に得られぬことに苦しんでおるからでございます。その性格に邪ったところがなく、力いっぱい働こうと志しておる者でありさえすれば、抜擢して役目に就かせ、その職務の場で存分に力を揮わせるべきなのでございます。いささかは取り挙げるべき才能があるが、その素行はどうもという人物については、すべて大目に見て、こまごまとしたことを問題とする必要はないでありましょう。しかもひとかどの人物については、けっしてこまごまと穿鑿し厳しくあげつらったりしてはならぬのです。もし厳しくあげつらったりすれば、かの聖人や賢者だとて完璧だと申すわけにはゆきますまい。ましてやそれに及ばぬ者についてはなおさらのことでございます。だから、道を基準にしてふさわしい人物を求めるのは困難であるが、人との比較の中からふさわしい人物を求めるのは容易だといわれるのであり、そのようにしてはじめて人物の優劣もつけられるのでございます。漢末以来、中原の士大夫たち、たとえば許子将といった人々の中には、互いに相手の欠点をあげつらい合ったことが原因で、災禍を受けることになる者の出たのでありますが、そのもとを尋ねてみますれば、互いに大きな恨みがあったわけでもなく、ただ彼らは自分を抑制して礼を守った行動を取ることができず、正しい道をふりかざして人の欠点をあばき立てたことがあだとなったのでございます。そもそも自分自身が礼に従っておらぬのであれば、他人は心服いたしませんし、もっぱら正しい道という観点でもって他人を指斥すれば、それに堪えきれる者はおらぬのでございます。内心において許子将らのやり方を承服しかね、実際の行動の点でも彼らの指斥にたえ切れぬのであれば、そこに怨みの心が生じないわけにはゆきません。もしひとたび怨みの心が生ずれば、つまらぬ連中がその間隙に容喙することを許すことになります。もしその間隙に容喙することを許せば、三度つづけてもたされる虚言やじわじわと沁みこむ讒言が、入り乱れこもごもやって来て、たとえ最も聡明な人物や最も親密な関係にある者がそれに対処したといたしましても、本来の自分の考えを保持してゆくことは困難なのでございます。もしてやみずから間隙を作り、それほど聡明でない者にとってはなおさらのことでございます。それゆえ張耳と陳余とが互いに刃を手にして争うこととなり、蕭望之と朱雲とが互いの好を貫きとおすことができなかったのも、もとはといえばその原因はこうしたところにあったのにすぎないのでございます。もし小さな過失を大目に見ることをせず、こまかいことまであばき立てれば、やがては同じ家族の内にも怨恨が生じ、一国全体をさがしても完全無欠な人物はおらぬということとなるのでございます。」

諸葛恪は、細行を守らぬということで陸遜が自分に不満を持っていることを知っていたので、わざわざこのような道理を大きな視点から述べ、陸遜の意見に賛同したのであった。

そうこうするうちに陸遜が死去すると、諸葛恪は、大将軍に昇進し、仮節を授かって、武昌に駐屯し、陸遜に替えって荊州の軍事全般の指揮にあたることになった。

そののち久しくして、孫権が重い病にかかると、太子がまだ幼いということから、諸葛恪を召し帰して、大将軍の位をもって太子太傅を兼任させ、中書令の孫弘には少傅を兼任させた。孫権の病気が危篤になると、諸葛恪・孫弘、および太常の滕胤、将軍の呂拠、侍中の孫峻を病床のもとに呼びよせて、後事を託した。

『呉書』にいう。孫権は病の床につくと、後事を誰に託すればよいかを論じさせた。当時、朝臣たちはそろって諸葛恪こそその人物だと考えており、しかも孫峻は上表をして、諸葛恪の器量は主君を補佐して政治を行なうに足るもので、大事を託されるにふさわしいと申し述べた。孫権は、諸葛恪がみずからの意見を押し通して事を行おうとすることに危惧を懐いていたのであるが、孫峻が、現在の朝臣の中に彼に及ぶ者はないといって、くりかえしその人物の確かさを保証したので、諸葛恪が召し寄せられることになった。そののち諸葛恪らを病床のそばに呼びよせて、寝台の上から詔を授けた。孫権はその詔でいった、「私の病気はもう絶望的だ。おそらく諸君たちとふたたびまみえることもあるまい。諸事をすべて諸君に委ねたい。」諸葛恪がすすり泣きし涙を流しながらいった、「臣らはみな暑いご恩をたまわっており、生命に代えてもお言葉をお守りいたします。どうか陛下には、お心を安んじられ、ご懸念なく、外事に心をわずらわされませぬように。」

孫権は、関係の役人たちに詔して、諸事はすべて諸葛恪の決裁にまかせるように、ただ死刑などの大事については後事に上聞するようにと命じた。諸葛恪のために屋敷が建てられ、護衛の兵士が置かれた。百官たちの官中での行儀作法が定められ、それぞれの品階によってその作法に差が置かれた。また法令の中で現実にそぐわぬものがあると、それを箇条書きにして上表したが、孫権はすべてそれらの改正を許可した。朝廷の内外はともになごやかになり、人々はみな心をよろこばせた。次の日、孫権が逝去した。孫弘は、もともと諸葛恪とは仲が悪かったことから、自分が諸葛恪のために粛清されてしまうのではないかとおそれて、孫権が死んだという知らせを抑え、詔を勝手に改作して諸葛恪を排除してしまおうとくわだてた。孫峻がこのことを諸葛恪に告げた。諸葛恪は、相談ごとがあるといって招き、その席上で孫弘を誅殺し、そのあと孫権の逝去を発表して服喪にはいるよう指示をだした。

諸葛恪が、弟の、公安の督であった諸葛融に与えた手紙にいう、「今月十六日の乙未の日、大行皇帝陛下は、万国の民を打ち棄てて逝去され、臣民たちは貴賊を問わず、悲しみ痛まぬ者はない。特にわが父子兄弟は、みな特別のご恩を蒙り、なみのお仕えをしていた者たちとは別格であったことから、悲痛さを心肝をも裂かんばかりだ。皇太子殿下は丁酉の日に帝位に昇られ、先帝さまを失った悲しみと新帝さまのご即位を喜ぶ気持とが入りまじり、どうしてよいかわからない。私はこの身に、先帝さまの、後事を託するとのご命令を受け、年若いご主君をご輔弼申し上げることとなったのであるが、ひそかにみずからを量ってみるに、才は博陸候に及ばぬのに、周公旦が幼い成王を輔けて諸侯たちに朝見を受けたような重任を託され、丞相が漢の王室のために働かれたお手柄を辱めるのではないかとおそれ、先帝さまのご委嘱という栄誉を損ずることになるのではないかと心配をして、それゆえ憂悶慚愧で心の安まることもなく、憂いごとは数かぎりもなく起こってくる。ましてや人々はその上に立つ者を嫌い、じっとその行動に目を注いでおるのであるから、いつ気をぬくことができよう。いま頑鈍な資質で、ご主君をご補佐する任について。困難ばかり多くて才智は不足し、任は重いが十分な策略を持っておらぬ。誰が私と苦楽を共にしてくれよう。近くは漢の世に、燕王旦と蓋公主とが結託し、上官桀父子が霍光を除こうと変事をくわだてたという例もある。みずからが霍光と同じ立場にあってみれば、どうして心のどやかにしてなぞおられようか。また弟のおる所は、敵国とその境界がいりくみ合っており、こうしたときにこそ軍備をととのえ、将士たちをまとめはげまして、常にもまして警備をきびしくせねばならない。絶望的な死地へおもむくことを願って、千に一つの生還に心を引かれて未練なことをしたりすることなく、そのようにすることによって朝廷にご恩報じをすべきであり、おまえの祖先をはずかしめるようなことがあってはならないのだ。それに加え、各部将たちがそれぞれ定められた区域を守備しておるとはいえ、敵方が先帝のご逝去を伝え聞いたとき、ほしいままに侵入略奪を行うのではないかと心配される。辺地の邑々の役所には、すでに別に命令を下し、その配下の督や将たちが、勝手に守備の任務をすてて、陛下のご葬儀にはせ参じてはならないと禁じた。たとえご主君を失って悲しみにたえぬ心を懐いてはいても、公の義は私の心情に勝るものであって、魯の伯禽も、親の死にあたって喪に服すべきとき、強いて軍務にたずさわったのだ。もしこの命令に背いたときには、小さな過ちとして大目に見ることはできない。親しい者に厳格に対することによって一般の人々に正しい道を示すべきだというのが、古人たちの明らかな戒めなのであって。」

諸葛恪は、さらに太傅にも任ぜられた。官吏たちを監察する交官の制度を廃止し、未納の税金を帳消しにし、関税をとりやめ、すべてにわたって恩沢を施すことに務めたので、彼のことを喜ばぬ者はなかった。諸葛恪が外出するたびに、民衆たちは首を延ばして、彼の様子を見たいと願った。

229年、かつて孫権は、建業に都を遷すと、同二年には東興提を築いて巣湖をせき止めた。のちに淮南に軍を進めたとき、そのつつみをこわして巣湖に船を入れ、それ以後、このつつみを放棄して修理を加えていなかった。

252年10月、諸葛恪は、人数を東興に集めると、ふたたび大きなつつみを作り、左右の山地に拠って、そのつつみを挟む形で二つの城を築いた。それぞれの城中に千人を留め、全端に留略とその城の守備を命じると、諸葛恪は軍をまとめて引き上げた。魏のほうでは、呉軍がその疆域の中に入って勝手なことをしているのを恥辱だとして、大将の胡遵や諸葛誕らに命じ、七万の軍勢を指揮して、二つのとりでを包囲し、提防を決壊させようとした。諸葛恪は、四万の軍に出動を命じ、夜を日ついで救援にかけつけた。胡遵らは、配下の諸部隊に命じ浮橋を作って水を渡ると、提の上に陣を設け、兵を分けて二つの城に攻撃を加えさせた。

城はけわしい地勢の上にあったため、魏の軍は、すぐにはそれを落とすことができなかった。諸葛恪は、将軍の留賛・呂拠・唐咨・丁奉を先鋒として、まっ先に魏軍に攻撃をかけさせた。ちょうど寒ぞらで雪が舞って、魏の部将たちは寄り合って酒を飲んでいたのが、留賛たちが兵の数を少なく、しかも甲もぬいだままで矛や戟を持たず、ただかぶとをかぶり刀と盾だけを持って、裸身でよじ登ってくるのを見て、大いに嘲笑し、すぐさま兵士たちに警戒を固めさせることはしなかった。呉の兵は、上に登り切ると、ただちに太鼓を鳴らし大声をあげててんでに斬りこんできた。魏の軍は驚きあわてて散走し、争って浮橋を渡ろうとしたが、橋はこわれて断ち切れ、みずから水に投じたり、互いに踏みつけ合ったりして、楽安太守の桓嘉ら多くの者が一時に死亡し、死者は数万にのぼった。

もと呉から寝返った部将の韓綜は、このとき魏の前軍督となっていたが、その彼も斬られた。呉の軍は、車や牛馬、驢馬や騾馬などそれぞれ数千頭を手に入れ、奪った軍糧や兵器などを山積みにして、軍を整えて凱旋した。諸葛恪は爵位が進んで陽都候に封ぜられ、荊州と揚州の牧の官を加えられ、国内の軍事全般の指揮をまかせられるとともに、黄金一百斤、馬二百匹、絹と布それぞれ一万匹を下賜された。

諸葛恪には、このような勝利の結果、敵を軽んじる心が生じ、十二月に戦勝したあと、次の年の春には、ふたたび軍を動かしたいと願いでた。おもだった朝臣たちは、たびたびの出兵で兵士たちは疲弊しているからといって諸葛恪を諌めたが、諸葛恪は聴かなかった。中散大夫の蔣延が頑強に反対意見を申し述べてたところ、朝会の場からつれ出されてしまった。

『漢晋春愁』にいう。諸葛恪は、司馬の李衡を使者として蜀に行かされると、姜維を説いて、呉と時を同じくして魏に対し軍事行動を起こさせようとした。

そのときの言葉にいう、「古人にこんな言葉がございます、聖人だとて時運を作り出すことはできぬのであって、もし時運がめぐって来たならばそれを取り逃がしてはならない、と。ただいま敵国の政治は臣下の有力者に馬耳られており、朝廷の内外は猜疑のために人々の心がばらばらになって、その軍隊は国境にあって敗北を喫し、国内の民衆たちは怨嗟の声をつのらせております。曹操以来、かの国の滅亡のきざしが今ほどはっきりとあらわれたことはございません。もし大挙してこれを伐ち、呉がその東部を攻め、漢がその西部に侵入いたしますれば相手は西を救おうとすれば東がからっぽになり、東を重視すれば西が手うすになります。訓練を積み充実した軍でもって、からっぽで手うすな的に乗ずるのでありますから、打ち破ることができるのは必定でございます。」姜維は、この意見を納れた。

諸葛恪は、そこで論を著わし、人々を納得させようとした。その論にいう、「そもそも天に二つの太陽がないように、地上に二人の王者が並び立つことはありえない。王者たるもの、天下の統一のために力を注がずにいて、しかもその位を子孫代々に伝えようなどと考えたものは、今古にわたっていなかったのです。昔、戦国の時代のこと、諸侯たちはそれぞれに兵力の強さと土地の広さとをたのみ、互いに救助しあうことをあてにし、そのままでその位を子々孫々に伝えてゆけるのだと考えて、誰も将来を危ぶんだりはしなかった。気持の動くまま、思うままにふるまって、労苦をいみ嫌っているうちに、秦の国をしだいに強大にならせてしまい、結局は秦のために併合されてしまった。これがかつてあった歴然たる事実だ。最近の例でいえば、劉表は荊州にあって、十万の軍勢を擁し、財貨や穀糧は山のごとくにあったのであるが、曹操がまだ微弱なうちにこれと全力を挙げて対決しようとはせず、曹操の勢力が強大になり、袁氏一族を併呑して滅ぼしてしまうのを坐視していた。北方が完全に平定されたあと、曹操は三十万の軍勢を率いて荊州におしよせて来た。こうなってしまったときには、たとえいかに知恵にすぐれた者であっても、これを切りぬける策略は考え出せない。このようにして劉表の息子たちは、みずからを後ろ手に縛って降伏を申し出て、捕われ人となってしまったのである。敵対する国どうしが相手を併呑しようとくわだてるのは、ちょうど仇敵どうしが相手を抹殺しようと願うのと同様であって。仇敵がありながらそれが勢力を蓄えるのを許したりすれば、たとえその禍いが自分自身にふりかからぬ場合にも、必ず子孫がその禍いを受けることとなる。遠い将来までの配慮が不可欠であるのだ。昔、伍子胥がいった、『越が十年間にわたって民衆を養い、十年にわたってこれに訓練を加えたなら、二十年がたったあとには、呉の宮殿は沼地に化してしまおう』と。呉王の夫差は、みずからの強大さをたのんでいたので、この言葉を聞いてもいささかも意に介することなく、それゆえ伍子胥を誅殺してしまい、越を警戒する心は持たなかった。滅亡を目の前にすることになり、呉王夫差はそれを悔いたのであるが、そうした事態になってしまってからでは、どうして取りかえしがつくだろう。越は呉よりも小さかったが、それでも呉に滅亡の禍いをもたらすことができた。ましてや強大な敵国であれば、いうまでもない。昔、秦の国は、ただ関西の地を領有するだけであったが、それでもそれを基盤にして東方の六国を併呑したのであった。いま敵国は、秦・趙・韓・魏・燕・斉など九州の地をすべて手中にし、その領域は戦馬を産出する地域と有能な人材を輩出する地域とを完全に包括している。ここで魏を古の秦と比べてみれば、土地は数倍の広さを持ち、呉と蜀とを古の六国と比べてみれば、その半分にも及ばない。しかるにいま、そうした魏に対し、呉と蜀とが対等に争い合うことができるのは、魏では、曹操の時代以来の兵卒たちが現在ちょうど尽き果ててしまったが、あとから育てられた者たちが全部は成長しておらず、敵方の勢いが衰えてそれをもりかえせずにおる時期にあたっているというだけの理由からにすぎない。それに加え、司馬懿は先に王凌を誅殺したが、続いて自分も命を落としてしまった。その息子はまだ幼いのに、あとは継いで大任を一手にになっており、いかに智略のある策士がおろうとも、その計略を実行に移すことができないのである。いまこれに討伐を加えれば、相手の不運なめぐり合せに乗ずることができる。聖人は時運をとらえて事をおこすことを何よりも重視するとされるが、今日の情況こそそうした場合にあたるのだ。人々の気持に流されて、一時の平安を追い求める策しか考えず、長江という要害は子孫代々変えることなく伝えてゆけるのだと考えて、魏が今後いかに変化するかを検討することなく、目前のことに安心して将来のことは深くは考えようとしない。こうしたわが国の現情こそ、私が深い嘆息をもらす理由であるのだ。古より産めや増やせの政策に務めるものであって、いま敵国の治下の民衆たちは年ごと月ごとに増加しており、ただまだ年齢が足らず、彼らを用いてできずにおるだけなのだ。もし今後十年あまりもたてば、敵方の人口は現在の倍になるにちがいなく、それに対しわが国の強力な兵士を生み出す土地は、そのころにはすでに尽きはてておろうから、ただ今日、現有の軍勢を動かすことによってのみ、魏との勝負をつけることができるのである。もしすみやかに事を起こさず、手をこまねいたままで兵士たちを老いさせてゆけば、今後十年あまりのうちに、兵力はほぼ半数に減るであろうし、現在いる兵士たちの子弟の数も言うに足らぬほど少数だ。もし賊軍の兵士が倍になったのに、わが軍の兵士が半分に減ってしまえば、たとえ伊尹や管仲といった者たちに挽回の策を練らせたとしても、手のほどこしようがない。いま将来を見通した配慮をなすことのできぬ者たちは、必ずや私のこうした言葉を迂遠なものとするであろう。災禍や困難が来たらぬうちに、あらかじめそれを憂慮するようなことは、もとより人々から迂遠とされることなのである。しかし災難がやってきたあとから、額ずいて救ってほしいと頼みこんだのでは、たとえいかに智恵にすぐれた者であっても、手を打つすべがない。こうしたことは古今を通じてつねに憂慮されて来たところであって、ただ今日だけのことではない。むかし呉は、当初、伍員のいうことを迂遠だとして、危機に直面したとき、それを救う手だてがなかった。劉表は、十年先のことを配慮することができなかったために、子孫に国を伝えることができなかった。いまわたくしは、臣下に列するだけの才能もないのではあるが、大いなる呉の国を支えてゆくべく、蕭何や霍光にあたる任を授けられた。智は人々に抜きんでているわけでもなく、遙かな将来を見通した計略を立てるだけの思慮があるわけでもない。もし今日の有利な情況の中で国家のためにその彊域を広げておかず、なすこともないまま年を取って、しかもその間に仇敵のほうがますます強大になってしまえば、たとえみずから首をはねて責任を取ったとしても、何の補いになるであろう。いま聞けば、人々のうちには、民衆たちがなお困窮しておるから、彼らの休息を与えてやるよう計らうべきだとする意見もあるとのことだが、それは大きな危機に対する配慮ができず、ただ小さなつとめばかりに執着している者の考えなのだ。昔、漢の高祖は、幸いにして三秦の地を自分のものとしながら、函谷関を閉ざし要害の地を固めて、安楽な生活を送ることはせず、しっかりしたあてもないまま根拠地を出て楚を攻撃し、身には手傷をおい、甲冑にはしらみがわき、部将も兵卒も戦いの苦しみにいやけがさすといった行動を取ったのはなぜであろう。刃をかいくぐることを楽しんで安寧を忘れたのであろうか。いつまでも漢と楚とが両立してはゆけぬであろうことに思いをめぐらせた結果であったのだ。荊邯が公孫述に説いた、積極的に行動を起こすべきだとするはかりごとや、また近くはわが敘父上(諸葛亮)が上表して述べた、敵とあくまで対抗すべきだとする計略を読むごとに、心を動かされ深い嘆息をつかぬこととてなかった。夜も寝られず寝返りばかりを打って、心におもんぱかって来たのは専らのこのことであって、それゆえいささか愚見を述べて、あなたがたのお耳の端にいれてもらった。もしいったん私に死がおとずれて、こうした志が成らなかったときにも、後の世の人々に私が憂慮していたところをわかってもらい、後人から追慕されることがあれば幸いだと思っている。」

人々は、諸葛恪のこの論は、何がなんでも実行に移すという意志を表したものだと考え、誰もそれ以上に反対意見を述べようとするものがなくなった。

丹楊太守の聶友は、平素から諸葛恪と仲が良かったのであるが、その彼が手紙を送って諸葛恪を諌めた、「大行皇帝陛下は、かねてより東関で敵の侵入を防ぎ止めようとの計画を持っておられましたが、その計画は実行に移されぬままにおわりました。ただいま公は、大業達成に力をそえられ、先帝さまのご遺志を実現されて、敵方は遠方よりやって来てみずから死地にとびこみ、部将や士卒たちはご威徳におたよりして、みごとにあのような大功を建てられたのでございますが、これは宗廟のご先祖さま、山川天地の神霊、社稷の神々のご加護のおかげであるに違いありません。現在、ひとまずは武器をおさめて鋭気を養い、敵の隙をよく見定めたうえで、行動をおこされるべきでございます。ただいま戦勝の勢いに乗じて、ふたたび大規模な侵攻作戦をおこそうとされましても、天の時がそれを許しません。しかるにはやる気持にまかせてゆるがせに事をおこなわれようとされておりますこと、秘かに心配いたします次第です。」諸葛恪は、まず自著の「論」を書き写したあとに、聶友への返事をしたためていった、「足下には自然の道理がお分かりになっても、大きな天運の移りゆきがお見えにならぬのだ。この論をよくお読みくだされば、ご理解いただけるであろう。」

このようにして、諸葛恪は、人々の反対をおし切って軍を動かし、州や郡に大動員をかけて二十万の軍勢をくり出した。人々の間に騒動がおこり、こうしたことから彼は人心を失っていった。

諸葛恪は、淮南の地に威武を示し、その地の民衆たちを呉の領内につれかえってくるという計画を立てたが、部将たちの中に反対する者があって、次のようにいった、「いま軍を率いて深く侵入されれば、国境地帯の住民たちは、必ずや引きつれて遠くへ逃げてしまい、兵を労するばかりで功は少ないでありましょう。それよりも合肥の新城に兵を留められて包囲をかけられるべきかと考えます。新城が危機におちいれば、魏から救援の軍が必ずやってまります。やって来た救援の軍に対し計略を用いてこれを打ち破られれば、大いに獲るところがございましょう。」

諸葛恪は、この計を納れ、軍をめぐらせて新城にむかい、これを包囲した。新城をめぐる攻防が何ヶ月にも及んだが、城を落とすことはできなかった。

士卒たちは疲れ切って、暑さのあまり生水を飲み、下痢をおこし脚気になって、大半の者が病気にかかり、多数の死傷者は泥だらけで大地に打ち棄てられた。各陣営の役人たちが毎日のように病人が多数にのぼることを報告して来たが、諸葛恪は偽りを申し立てているのだといって、報告の役人を斬ろうとしたため、それ以後、誰も実情は上言しようとする者がなくなった。

諸葛恪は、内心、自分の計画が失敗したことを認識し、また一方では新城を落とすことのできぬことを恥じて、いらだちからひどく不機嫌な様子になった。将軍の朱異が批判的な意見を述べると、諸葛恪は、腹を立てて、その場で朱異の兵士を取り上げた。

都尉の蔡林は、しばしば作戦計画を建議したが、諸葛恪に無視されたため、馬を駆けらせて魏へ逃亡した。魏は、呉の兵士たちが疲弊し病気になっているのを知ったうえで、新城救援の兵を進めて来た。諸葛恪は、軍をまとめて新城から退却した。士卒たちは負傷し病気にかかって、撤退の途上、部隊から離れてさまよい、ある者は路傍に倒れふし死んでしまい、ある者は略奪を受け捕虜となった。生き残った者も死んだ者も悲憤の心を懐き、貴賤を問わず怨嗟の声をあげた。しかるに諸葛恪は、どこ吹く風とそれを意に介することがなかった。

長江の沿岸まで出ると、その岸辺に一ヶ月もとどまり、潯陽に屯田をおこそうと計った。帰還をうながす詔が矢つぎばやに送られてきて、やっと軍をかえした。こうしたことから人々の声望を失ってしまい、彼に対する怨みと非難とが盛んになった。

秋八月、軍が都に帰還すると、諸葛恪は兵士をつらねて先導とおつきを従えて、自分の役所の中の屋敷に入った。そうしてすぐさま中書令の孫嘿を呼びつけ、はげしい口調でいった。「卿たちは、なぜ勝手にしばしば詔をでっち上げて」孫嘿は、恐懼して退出すると、病気を理由に家に引きこもってしまった。諸葛恪は、自分が遠征に出たあとに選曹が上奏して任命した地方長官や司たちをすべてやめさせてしまって、もう一度任命をやりなおさせた。彼は、ますます威信を張ろうと努め、多くの人々を断罪し問責して、彼の前に出ねばならぬ者は、みな息をひそめた。また禁中の宿衛にあたる者をいれかえて、自分に親しい者たちを任用し、ふたたび命令を出して出陣の準備を整えさせ、青州・徐州に軍を進めようとした。

孫峻は、民衆が多く怨嗟し、人々が不満を懐いているのに乗じて、諸葛恪をおとしいれて政変をおこそうとくわだてた。そこで孫亮と計略を練ると、酒宴を用意して諸葛恪を招いた。諸葛恪は、孫亮に目通りすることになった前夜、心が惑い胸が騒いで、一晩じゅう眠ることができなかった。夜があけて、顔を洗おうとすると、その水が生臭かった。侍者が上衣を着せようとすると、その着物も臭かった。諸葛恪はいぶかしんで、衣服をかえさせ水もかえさせたが、臭いは相変わらずで、心がしずんでおもしろくなかった。おつきを従えて家を出ようとすると、犬がその着物をくわえて引っ張った。諸葛恪は、「犬はおれを行かせたくないのか」といい、内にもどて坐った。しばらくしてふたたび立ち上がると、犬がまたその衣服をくわえた。諸葛恪は、従者に命じて犬をおわせると、そのまま馬車に乗った。

かつて諸葛恪が淮南の遠征にむかおうとしていたとき、喪中のものが喪服をつけたまま彼の役所の問内にはいりこむという事件があった。側仕えの者がこのことを報告すると、諸葛恪は、その者を役所の外へ追い出すよう命ずるとともに問い質させた。喪服のものがいった、「自分でも知らぬうちに中にはいっておりました。」このとき、役所の内外には警備の者たちがいたのであるが、誰もこの者が入ってくるのを見ておらず、人々はみな不可思議なことだと思った。諸葛恪が淮南の遠征にむかったあと、彼が平生執務していた役所の屋根のはりがまん中から折れた。合肥新城を離れて東興に軍を留めていたとき、白虹が彼の船に現れ、帰還したあと蒋陵に参拝したときにも、白虹が彼の馬車にまとわりついた。

孫亮に目通りすべく、諸葛恪は、馬車を宮門の前に駐めた。孫峻は、すでに帷のうしろに兵を伏せていたのであるが、諸葛恪がすぐにはいってこないうちにことが泄れてしまうことを恐れ、みずから門に出て諸葛恪に会っていった、「もし使君のお身体が不調でありましたなら、目通りは後の機会にまわされて結構です。峻が主上にくわしく申し上げておきますから。」こんなふうにいって、諸葛恪が感づいているかどうかを探ろうとしたのである。

諸葛恪が答えた、「おして参内いたそう。」散騎常侍の張約や朱恩らが内秘の一筆を諸葛恪に手渡した。それには、「今日の宴会の準備は尋常ではございません。何かたくらみがありそうです。」と書かれていた。諸葛恪は、その一筆を見てひきかえそうとした。

路門からまだ出ぬ所で、太常の滕胤に出会った。諸葛恪がいった、「急に腹痛がして、奥に入れそうもない。」滕胤は、孫峻が秘かに計略をめぐらせているとはつゆ知らず、諸葛恪にいった、「あなたは遠征より帰られてから、まだ目通りをされていない。いまは主上は酒を用意してあなたを招かれ、あなたは門にまで来ておられるのだから、おして参内されるべきです。」

諸葛恪は、ためらったあとひきかえして、剣をおび履をつけたまま上殿し、孫亮の前に出て感謝の言葉を述べたあと、自分の席についた。酒がだされると、諸葛恪は心配をして、すぐには口をつけなかった。孫峻は、それを見ていった「使君の病気はまだ平癒しておられない。きっといつも飲んでおられる薬酒がおありだろうから、それをお取り寄せになるがよかろう。」諸葛恪は、そういわれて心中の警戒をとき、皆とは別に、持って来た酒を飲んだ。

酒が幾巡りかすると、孫亮は奥に入った。孫峻は立って厠へ行き、長衣を脱いで短衣をつけると、ふたたび酒席にあらわれていった、「詔によって諸葛恪を逮捕する。」諸葛恪は、あわてて立ち上がったが、剣をぬくいとまもないうちに、孫峻は刀でめった斬りにした。張約がかたわらから孫峻に斬りつけたが、その左手を傷つけることができただけで、孫峻は返す刀で張約に斬りつけ、右腕を切り落とした。警備の衛士たちがみなかけつけ殿内に入ってくると、孫峻がいった、「捕まえようとしたのは諸葛恪だ。彼はもう死んだ。」衛士たちにみな刀を収めさせると、床を掃除させて、宴会を続けた。


逸話

『呉歴』にいう。張約と朱恩とが秘かに書きつけを送って事態を諸葛恪に知らせた。諸葛恪がそれを滕胤に見せると、滕胤は諸葛恪に家にもどるようすすめた。諸葛恪がいった、「孫峻の小わっぱに何ができよう。ただ酒食に毒を盛られることだけが心配だ。」そこで薬酒をたずさえて参内した。

孫盛の『異同評』にいう。諸葛恪と滕胤とは親密な関係にあったのであるから、張約らがかきつけで知らせて来たのが非常に大事であったことからいって、諸葛恪はそれを滕胤に見せ、二人してこの危機の乗り切りをはかるのが自然のなりゆきである。ただ諸葛恪は、気の強い性格で、しかも平素から孫峻を軽蔑していたところから、その知らせを信用せず、参内したのであった。どうして、滕胤が大事をとることを勧めなかったがために、災禍を破ることになったなどということがあろうか。『呉歴』のいうところのほうが優れいてる。

『呉録』にいう。孫峻は、刀を手にし、詔と称して諸葛恪を捕縛しようとした。孫亮が立ち上がっていった、「私には関係がない、私には関係がない。」乳母が孫亮を奥につれていった。

『呉歴』は、孫峻がまず孫亮を奥につれてゆき、そのあと、出て来て詔と称したのだという。これは『三国志』の本文にいうところと同じである。

臣裴松之が考えるに、孫峻は詔と称して、当然、この伝の本文や『呉歴』のようにしたに違いなく、『呉録』のいうようなことではありえない。

『捜神記』にいう。諸葛恪が参内し殺害されたあと、彼の妻は居間にいて、婢女に言葉をかけた、「おまえはどうして血のにおいがするの。」婢女は答えた、「そんなことはございません。」時がたつにつれて血のにおいはますますひどくなった。重ねて婢女に尋ねた。「おまえの目はぎょろぎょろしていて、いつもと違うのはなぜなの。」婢女は急におどり上がると、その頭は棟にまでとどき、腕まくりをし歯をぎりぎりと噛みしめていった、「諸葛さまは孫峻に殺されなすった。」これを聴いて家中の者は諸葛恪が死んだことを知ったのであった。役人や兵卒がやって来たのはそれから間もなくのことであった。

『志林』にいう。孫権の病気が重くなったとき、諸葛恪を召し寄せて輔弼として政治にあたることを命じた。退出するとき、大司馬の呂岱が彼を戒めていった、「世はいま多難なときにあたっております。あなたは、すべてのことに対し必ず重度ずつ思慮をめぐらせられますように。」諸葛恪が答えていった、「昔、季文子が三度まで思慮をめぐらせたあと事を行ったとき、孔子さまは、二度思慮をめぐらせればそれで十分だ、と申された。いまあなたが私に十度まで思慮をめぐらせるようにともうされたのは、私が季文子に及ばぬことを言明されたものだ。」呂岱には返す言葉もなく、当時の人々はみな呂岱の失言であるとした。虞喜が考えるに、天下を託されることは最高に重い任務であり、臣下でありながら主君に代って権力を行使することは、最高に困難なわざである。この二つの最高のことを兼任し、しかも万にものぼる瑣事をとりさばいてゆくという任務は、これを立派にやってゆける者は数少ないのである。人々の建策を積極的に採りいれ、草刈りや薪取りの者など低い身分の者からも意見を求め、おのれを虚しくして他人の意見を採用し、しかもつねにより良い政治のあり方を求めてやまないといった者でないかぎり、功名が立つことも、勲績が著われることもないのである。ましてや呂岱は、国家の元老であり、遠い将来を見通して配慮をする知恵をそなえていたのに、その彼から、十度まで思慮をめぐらせるようにと戒められただけのことで、自分が劣ることを指摘されたといって、その忠告をはねつけてしまった。このことは諸葛恪のいいかげんな人となりが、根本的な資質の欠落に由来するものであったことを表している。もし十度まで思慮をめぐらすという道によりつつ、当時の緊急課題について広く意見を求め、すぐれた意見があれば雷鳴よりも早くそれを実行にうつし、諌めがあれば風が吹くよりもすみやかにそれに従っておれば、宮中において首をかかれ、つまらぬ悪人の刃に倒れるなどといったことはなかったはずである。世の人々は、彼の人に巧みな弁舌の才がとっさに受け答えにもあらわされたことをみごとだと評価し、呂岱が返答につまったことを不器用なことだと嘲笑したが、それは遠い将来まで安危に配慮することを忘れたもので、春の自然のあや文様の華々しさのみを喜んで、秋の果実の甘美しさを忘れたものなのだ。昔、魏の国が蜀を攻めたとき、蜀の国ではこれを防がんとして、兵をえりすぐり装備を整えて今まさに出発しようとし、全軍が雲のわくごとく集結し、兵士も馬も甲をつけ、羽檄がいり乱れて伝えられていたのであるが、費禕は、当時総司令官として国家の重任をになってはいても、来敏と囲碁を打ち、それを楽しむ以外のことは心になかった。来敏は、別れに臨んで費禕にいった、「あなたは必ずや敵をうまく取りさばかれるであろう。」費禕の胸中にすでに明確な策が固まっておればこそ、何の心配そうな様子も見せないのだという意味である。こうした費禕に対してすら、長寧は、君子たるもの、事に臨んでは心におそれをいだき、十分に計略を練ったうえで事を成しとげねばならないと非難をしているのである。そもそも蜀はちっっぽけな国でありながら大きな敵に立ち向かおうとするのであるから、取りかえる方策としては、守りを固めるか積極的に戦うかだけであって、どうしておのれに余裕のあることをひけらかし、悠然として何の心配をすることもなくてよいものであろうか。そんなふうな態度を取ったというのも、費禕の性格が大まかであって、細かなことに気を配らなかったからであり、結局彼が投降者の郭修の手にかかって死ぬことになったのも、このときにすでにその前兆が現れており、それがやがて実際の禍いとなってその身にふりかかったのではなかろうか。かつて長寧が費禕に教えたとのことを聞き、いまここで諸葛恪が呂候の意見に逆らって見た。この二つの事件は、その根本において同じ性格のものであることから、並べて『志林』に記載した。後人への戒めとなし、永く世の鑑とするに足るであろう。

これよりさき、はやり歌があって、次のように歌われた、「諸葛恪よ、蘆芦の単衣に割り竹の鉤落をつけ、どこであなたを探そう成子閤において。」成子閤というのは、反語で石子岡というのである。建業の南に長くつらなる丘陵があり、石子岡と呼ばれて、死者たちが葬られる場所であった。鉤落というのは、バックルのついた革帯のことで、人々は鉤落帯と呼んでいた。諸葛恪は、はたして芦の席でその身をぐるぐる巻きにされ、腰の所を割り竹でゆわえて、この丘陵地帯になげ棄てられたのであった。

『江表伝』にいう。朝臣たちの中に、諸葛恪のために碑を立てて彼の勲功を刻したいと願い出た者があったが、博士の盛沖はそうしたことはなすべきでないとの意見を述べた。孫休がいった、「夏の盛りに軍を出動させ、士卒は損傷したが、尺寸の土地が手に入ったのでもなかった。才能があたとは申せまい。幼主を輔弼すべき任を授かりながら、こわっぱの手に倒れた。彼に智があったとも申せまい。盛沖のいうところがもっともだ。」このようなことから、碑を立てることはさたやみとなった。

諸葛恪が、軍を撤退させ帰還したときに、聶友は、彼がやがては身を亡ぼすであろうことをさとり、滕胤に手紙を送って、次のようにいった、「人の勢いが盛んなときには、山河だてと根こぎにできますが、いったんその勢いが衰えますと、人々の心はばらばらになってしまいます。そのことを申し上げますとき、哀しみと嘆息とを禁じえません。」


評価

『江表伝』にいう。諸葛恪は、若くしてそのすぐれた才能が名であり、才智にあふれてきらびやかな言葉を用い、臨機応変の受け答えをして、彼と対等に議論を交わすことのできる者は誰もいなかった。孫権は、彼を引見してその才を高く評価し、諸葛瑾にむかっていった、「藍田に玉が生ずるというのは、たしかに虚言ではない。」

『呉録』にいう。諸葛恪は、身のたけ七尺六寸(約183m)、鬚や眉はうすく、かぎ鼻で額が広く、口が大きくて声が高かった。