三国志による三国志好きのための三国志総合情報サイト

登録人物伝 326 名 | 43人が閲覧中

三国志.jp[三国志総合情報サイト]
月間キーワード 8月の出来事
孫権が呉王となる

蜀伝


劉備 玄徳りゅうび げんとく

姓名劉備
玄徳
生没年161年 - 223年6月10日
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型AB型
諡号昭烈帝
伝評義勇軍から旗揚げし、蜀を建国した苦労人
主な関連人物 諸葛亮 劉禅 関羽 張飛 
関連年表 184年 黄巾賊討伐の義勇軍を起こす
190年 虎牢関の戦い
198年 曹操と連合して呂布を討つ
200年 官渡の戦い
208年 赤壁の戦い
210年 荊州全土を掌握
215年 蜀を掌握
220年 夷陵の戦い

生い立ち

琢(たく)郡琢県の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。

幼い時に家の前に生えている大きな桑の木を見て劉備少年は「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという。

15歳の時に母の言いつけで、従父(叔父)の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然(劉備のいとこ)と共に、同郷で儒学者として有名な廬植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫瓚がおり、劉備は公孫瓚に対して兄事しており大変仲が良かったという。

廬植門下の劉備はあまり真面目な生徒ではなく、勉学よりも乗馬や闘犬、音楽を好み、仲間達の中でも見栄えがある服装で身を包んだ。男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結び、劉備の周囲には多くの若者が集まるようになった。馬を商って諸国を回っていた中山の豪商・張世平と蘇双は、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。劉備はこの金で人数を集めてその頭目となった。


転戦

黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍らと共に義勇軍を結成し名を上げた。その功により安熹県の尉(警察)に任命された。しかし、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。

その後、公孫サンの元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬とされ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。そこで戦功を立てたので、公孫サンの推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった。劉備は賊の侵入を防ぎ、民に経済的な恩恵を与え、身分の低い士人を差別しなかったので、大勢の人々に心を寄せられた。

公孫サンは袁術と手を結んでおり、192年、袁術と袁紹が決裂すると、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。だが、全て袁紹と、袁紹に味方していた曹操に撃退された。

この頃、平原の人劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は刺客を手厚くもてなした。刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。

193年、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷と劉備は陶謙の元へと向かい、劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。

194年、曹操が退いた後、陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとした。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に鄭玄の推薦で、北海郡の人の孫乾を従事として迎えた。

曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。その後、かつての盟主であった袁術が攻めて来たのでこれと対峙し、一ヶ月が経過した頃、下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。

劉備は兵を一万余り集めたが、劉備が多数の兵を集めたことを不快に思った呂布は劉備を攻め敗走させた。劉備は曹操の元へ身を寄せた。ここで、曹操は劉備の器量を評価して優遇した。しばらくして曹操が上奏し、劉備を豫州の牧に任命して、劉備を援助して再び小沛に入らせた。

197年、楊奉と韓暹は呂布と同盟を結び、袁術を大いに撃破し、徐州・揚州付近を荒らしていた。劉備は楊奉・韓暹を討伐し、楊奉・韓暹を討ち取った。

198年、呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破され、小沛は陥落し、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して劉備軍を回収すると共同して呂布を攻めて、呂布を生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少しためらったが、劉備は呂布がかつて丁原と董卓を殺したことを挙げて曹操を諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「こいつが一番信用できないのだぞ!」と罵倒したが、結局、処刑された。

劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「天下に英雄といえば、おぬしと予だけだ。袁紹などでは不足よ」と評されている。

この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。やがて袁術が討伐途中で死去したため、そのまま徐州に居残った。

劉備は朱霊らが帰還した後に、徐州刺史の車冑を殺して、下ヒの守備を関羽に任せて自らは小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱・王忠の両将を破った。

だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われた。『三国志』蜀書先主伝の注に引く『魏書』によれば、劉備は攻めて来た曹操の指揮の旗を見ると、戦わずして逃走したという。袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。

袁紹が曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので、劉備は袁紹の命を受けこれに合流して、数県を攻め取ると、多くの県が曹操に背いて劉備らに味方した。この時に関羽が曹操の元を去り、劉備のところへ帰ってきた。曹操は曹仁を派遣して、劉備を撃退した。

その後、劉備は袁紹の命を受け、再び汝南に侵攻し、賊のキョウ都らと手を結んだ。曹操は蔡陽を派遣し劉備らを攻撃させたが、蔡陽は敗北し討たれた。袁紹が敗北したあと、自ら兵を率いて劉備討伐の構えをみせてきた曹操に対して衆寡敵せずと判断し、袁紹の元から離れ荊州の劉表の元へと身を寄せた。

劉表から新野城を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇・于禁の軍を博望にて撃破した。劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかった。そのため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許昌を襲撃するようにという劉備の進言は、劉表に受け入れられなかった。

この時期のエピソードとして「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」という話がある(裴松之が注に引く『九州春秋』より)。このことから髀肉之嘆(ひにくのたん)という故事成語が生まれた。

この頃、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操・孫権に対抗するためにはこの荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となるべしという天下三分の計を説かれた。

劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は、劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。劉備が逃亡すると、周辺の住民十数万が付いてきた。そのため、その歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、再び「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。

しかし、曹操の軽騎兵隊に追いつかれると妻子・民衆達を置いて逃亡し、関羽の軍と合流することで態勢を立て直し、更に劉琦の軍と合流した。 孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は、孫権の説得に成功して同盟を結び、赤壁の戦いにおいて、曹操軍を破った。

赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉表の長子劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせた。さらに、共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。


入蜀

211年、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である法正と張松は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。ホウ統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。

関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自らホウ統・黄忠・法正などを引き連れて蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない」と述べて退けた。

その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。212年、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺して、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた。諸葛亮・張飛・趙雲らも長江をさかのぼり、益州の郡県を攻略した。関羽は本拠地の押さえとして引き続き荊州に残った。

初めは順調に進んでいたもののラク城にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中にホウ統が流れ矢に当たって死去している。そして、諸葛亮ら別働隊と合流した劉備はようやくラクを落とすことに成功し、さらに成都を包囲、劉璋は降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。

これにより天下三分の形勢がほぼ定まった。

蜀を奪って安定した地盤を得た劉備であったが、孫権勢力からの警戒を買うこととなった。もともと赤壁の勝利は孫呉の力によるものであると考えていた孫権は、荊州はその戦果として当然帰属するべきものと考えていた。劉備の荊州統治を認めていたのは、曹操への防備に当たらせるためであり、劉備の勢力が伸長しすぎることは好ましいことではないと考えていたのである。

215年、劉備が蜀を手に入れたことで、孫権が荊州の諸郡(長沙・桂陽・零陵)を返すようにと言ってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら荊州の全領地を返します」と答えた。涼州は益州(蜀)の遥か北であり、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入った。

しかしその頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。このことに危機感を抱いた劉備は荊州の長沙郡・桂陽郡を割譲することで孫権と和解して、漢中の攻略を目標とすることになった。

219年、自ら軍を率いて漢中の夏侯淵・張コウを攻め、黄権と法正の策に従い撃破し、夏侯淵を斬り殺した(定軍山の戦い)。その後、曹操自身が軍を率い漢中を奪還すべく攻めてきたが、劉備は防御に徹して、曹操軍に多くの損害を与え、曹操軍を撤退させた。

漢中を手に入れた劉備は曹操が216年に魏王になっていたことを受けて漢中王を自称した。前漢の高祖が漢中王を称した故事に倣ったものであった。

一方、東では荊州を奪還するべく孫権は呂蒙たちとともに策を練り、関羽が曹仁の守る樊城を攻めている間に、曹操と同盟を結び、荊州本拠を襲って、孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなった。

220年に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けた(実質的には簒奪)。これに対抗して蜀の群臣は、221年に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀に作られた漢王朝であるため、前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢とも言う。

蜀漢皇帝となった劉備は、221年孫権に対して親征(夷陵の戦い)を行なった。初めのうちは呉軍を軽快に撃ち破りながら進軍、呉は荊州の拠点であった江陵を背後に残すまでに追い詰められた。しかし翌222年夏、蜀漢軍は夷陵にて陸遜の火計策に嵌り大敗し、劉備自ら白帝城に逃げ込み、ここに永安宮を造営して逝去するまで滞在した。