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劉備が帝位に就き蜀漢建国

蜀伝


孫乾 公祐そんけん こうゆう

姓名孫乾
公祐
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評麋竺、簡雍と並びし功績を称えられ、劉備を支えた政治家
主な関連人物 劉備 麋竺 
関連年表 200年 白馬の戦い
208年 長阪の戦い
214年 秉忠将軍に任命される

略歴

孫乾、字を公祐といい、北海郡の人である。

もともとは鄭玄の門下生である。孔融、陳登などと交流を持っていた。劉備が徐州の刺史に任じられたとき、鄭玄は孫乾を推薦した。劉備は孫乾を招聘して従事とした。後につき従って転々とした。

劉備は曹操にそむいたとき、孫乾をやって袁紹と手を握った。

荊州に赴こうとするとき、孫乾はまた、麋竺とともに劉表のもとへ使者として赴き、すべて劉備の指示どおりにとりまとめた。後に、劉表は袁尚に手紙を送って、彼ら兄弟(袁譚・袁尚)の分裂抗争の事変について延べ、「劉左将軍や孫公祐とこのことについて議論するたびに、骨の髄までこたえるほど心を痛ませ、あなたがたのために悲しまないことはありません」といっている。彼に対する尊重の念はこれほどのものであった。

劉備が益州を平定すると、孫乾は従事中郎から秉忠将軍になり、麋竺に次ぎ、簡雍と同等の礼遇を受けた。しばらくして逝去した。享年不明。


評価

彼はほとんどの外交を成功に導き、同盟や共同作戦の要請などには無類の能力を発揮した。

麋竺、簡雍らと同じく扱われて功績を認められているが、正史での本伝記述は少ない。また、かの孫子の兵法で知られる孫濱の末裔とも云われているが、定かではない。


演義

説『三国志演義』では、最初陶謙に仕えていて、その死後劉備に仕えてたことになっているが、正史によれば、陶謙には仕えておらず、劉備への仕官も約1年ほど早い。