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劉備が白帝城で病死

蜀伝


廖化 元倹りょうか げんけん

姓名廖化
元倹
生没年? - 264年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評蜀建国以前から滅亡まで在命し仕えた唯一の武人
主な関連人物 劉備 劉禅 張翼 姜維 
関連年表 219年 呉に投降する
222年 蜀に復帰 夷陵の戦い
223年 督広武となる
248年 姜維北伐に参軍
259年 右車騎将軍・仮節・并州刺史となる
262年 狄道の戦い
263年 剣閣攻防

略歴

廖化、字を元倹といい、もとの名を淳といって、襄陽郡の人である。

劉備が荊州にいるころ、廖化は仕えて、後に前将軍の関羽の主簿となった。

関羽が呉に敗北した際、呉に身を委ねて投降した。劉備のもとへ戻りたい一心で、死んだという嘘の情報を流し、当時の人々は本当に死んだと思い込んだ。そこで老母を連れて昼夜兼行で西方に向かった。

ちょうど劉備は東征に出たときに遭遇した。劉備はたいそう喜び、廖化を宜都太守に任じた。

劉備が逝去すると、丞相参軍となり、後に督広武となったが、次第に昇進して右車騎将軍・仮節まで昇り、并州刺史を兼任し、中郷侯に封じられ、果敢な烈しい人物として知られた。官位は張翼と同等であった。

262年、姜維が軍勢を率いて狄道に出陣したとき、廖化は、「『戦争をやめなければ、必ず自分の身をやくことになろう』という言葉は、伯約(姜維)にあてはまる。智謀が相手を上まわっていないうえに、武力も敵より劣っているのだ。あくことなく戦争をしかけたとしても、どうして手柄を立てられよう。『我れより先だたず、我れより後れず』という言葉は、現在の事態にあてはまるものである」といった。

264年、春、蜀滅亡後に廖化は洛陽に移住させられたが、途中で病気のために亡くなった。享年不明。宗預伝における会話を見るに、没年齢は70歳を越えて没したのが伺える。


評価

廖化の本伝は、宗預伝の中で記述されており、内容には乏しいが、宗預伝以外に、蒋エン伝、明帝紀(曹叡)、郭淮伝、トウ艾伝、後主伝(劉禅)、姜維伝、陸遜伝など、三国に渡ってそれぞれ廖化の名前が記されて、行動が読み取れる。

いつ改名したかについて、『三国志』では明確には書かれていない。呉書陸遜伝の黄武元年(222年)、蜀書蒋エン伝の建興元年(223年)では廖淳の名前があり、また魏書明帝紀注の景初二年(238年)九月の記事では廖淳と記されている。 廖化としての初出は魏書郭淮伝の正始九年(248年)である。


演義

小説『三国志演義』では、黄巾賊の残党ながら仲間の杜遠が拉致してきた劉備の妻妾に無礼を働いたため、 首を斬って関羽に差し出した。 その際は賊出身の人物を家来にすることを嫌った関羽に拒絶された。

劉備が荊州を手中にしたころに物語に復帰し、関羽主簿(幕僚長)となった。

関羽が呂蒙に攻められて麦城へ逃げ込んだ時に上庸の劉封・孟達へ援軍を求めに走ったが、要請を拒否されて成都に走る。関羽の死後に劉封らの処罰を劉備に訴え、これが孟達の脱走と劉封の処刑につながった。

北伐の際には諸葛亮の指揮下の将として活躍する。あるとき、諸葛亮の策により魏の将軍司馬懿を追い詰めるが、司馬懿がわざと逃げ道の逆方向に兜を落としたのを真に受け、誤った方向を追ったために後一歩の所で取り逃した。諸葛亮は廖化の戦功を評価したものの、もし関羽なら司馬懿を捕らえることが出来ただろうと思い耽ることになる。最後は正史と同様である。

『演義』では、特に老将としての描写はないものの、物語の設定の都合で、黄巾の乱から蜀漢滅亡まで(まさに劉蜀の勃興から滅亡までである)を生き抜いたことになっている。