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呂布が董卓を殺害する

蜀伝


劉巴 子初りゅうは ししょ

姓名劉巴
子初
生没年? - 222年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評若いころから茂才に推挙され、蜀の法律制定に尽力した一人
主な関連人物 劉備 諸葛亮 黄権 
関連年表 208年 曹操につき従う
210年 交州へ赴く
214年 劉備へ帰順する
219年 尚書令となる

略歴

劉巴、字を子初といい、零陵郡丞陽県の人である。父は劉祥がいる。

若いころから有名で、荊州の牧劉表がたて続けに招聘し、また茂才に推挙したけれども、すべて出仕しなかった。もともと、父劉祥が南陽市民に怨まれ、争って戦死したことにより、荊州の牧劉表も劉祥を嫌っていたので、劉巴を殺害しようとしていた。次第に劉表は劉巴を理解し、殺害することを諦めた。劉巴が18歳のとき、郡が戸曹史主記主簿に任命された。

劉先が周不疑を派遣して劉巴のもとで勉強させようとしたとき、劉巴は、『礼記』に例えてこれを断った。

劉表が亡くなり、曹操が荊州を征討し、劉備が江南に出奔したとき、荊・楚の士人たちは、雲のごとく彼につき従ったが、劉巴は北方の曹操のもとへ赴いた。曹操は召し出して掾(エン)に任命した。長沙郡・零陵郡・桂陽郡に帰順を呼びかけさせた。

その後、曹操は赤壁で敗北を喫し、北方の帰途につく時、桓階を三郡に派遣するつもりであったが、桓階は劉巴に及ばないといって辞退した。ちょうど劉備がこの三郡を攻略したため、劉巴は復命することができなくなり、そのまま遠く交州におもむいた。劉備はそのことをひじょうに残念がった。諸葛亮は、劉巴に手紙を送って説得したが引き止めることができなかった。

劉巴は交州に入って張と改姓した。交州の太守の士燮と意見が合わなかったので、その場を立ち去って益州(蜀)へ向かった。益州の郡によって拘留され、太守が彼を殺そうとすると、主簿がこれを諌めて、願い出てみずから州府に送り、益州の牧劉璋に目通りした。劉璋の父の劉焉は昔、劉巴の父の劉祥によって孝廉に推挙されたことがあったので、劉璋は劉巴をみてびっくりして喜び、重大な事柄については、いつも彼に諮問するようになった。

劉璋が法正を派遣して劉備を出迎えさせたとき、劉巴は諌めて、必ず害をなすと忠告した。劉備が入国したあとも、劉巴は警戒して何度も劉璋に進言したが、聞き入られなかった。その後、劉巴は門を閉じて病気を称した。

劉備は成都攻撃にあたり、軍中に命令を発して、「劉巴を殺害する者があれば三族に及ぶまで死刑を処す」と述べ、発令した。

まもなく、劉備が益州を平定すると、劉巴は前の罪を陳謝したが、劉備は咎めなかった。しかも諸葛亮がたびたび彼を称賛して推薦したので、劉備は召し寄せて左将軍西曹縁に任じた。諸葛亮らと共に蜀の法律である『蜀科』を制定した。

219年、劉備が漢中王になると、劉巴は尚書となり、後に法正に代わって尚書令となった。

みずから清潔で質素な生活を実践し、田畑を所有して財産を増やそうとしなかった。また、自分が劉備に帰順することになったのも本来の意向にそってのものでなかったから、そねみ疑われることをはばかり、つつしみをもって沈黙を守り、ひかえめな態度を貫き、家に帰ったあとは個人的な交際をせず、公的なことでなければ発言しなかった。

劉備は帝号を称すると、皇天上帝(大いなる天の神)・后土神祇(地の神)に報告したが、それらの文章や任命書の類はすべて劉巴の書いたものであった。

222年、若くして逝去した。享年不明。


評価

没後、魏の尚書僕射の陳羣が諸葛亮に手紙を送って、劉巴の消息をたずねてきたが、劉君子初と称して、彼に対する非常な敬意を表していた。

劉備は「子初の才能はずば抜けている。わしのような男(地位が高い)なら彼を使いこなせるが、わしでなかったら彼に任せるのは難しいぞ」といった。

諸葛亮は「陣幕の中で作戦を立てることにかけては、わしは子初に遠く及ばない」といった。


逸話

劉備が劉璋を攻撃するとき、劉備は兵士たちを約束して、「事が成就したら、蔵の中の品物はすべて与える」といった。成都が陥落すると、兵士たちはみな武器を放り出して、いたるところの蔵に駆けつけ、争って宝物を奪い取った。軍需品の不足をきたしたため、劉備は非常にこれを心配した。劉巴は、「簡単なことです。ただ百銭の貨幣を鋳造して諸物価を安定させ、役人に命じてお上の管理する市を立てさせるだけですみます」といった。劉備がそれを従ったところ、数ヵ月の間に、蔵はいっぱいになった。

張飛はかつて、劉巴のもとに泊まったことがあった。劉巴が彼と話もしないので、張飛はかんかんに腹を立てた。諸葛亮が劉巴に向かって、「文武を結束して、大業を定めようとしているので、少し我慢してください」というと、劉巴は、「大丈夫がこの世に生きていくからには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして軍人なんかと語り合う必要がありましょうか」といった。劉備はこれを聞いて腹を立てた。