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曹操と劉備の英雄論

蜀伝


費詩 公挙ひし こうきょ

姓名費詩
公挙
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評才幹を評価され、諸葛亮の南征に随従し、後年の蜀を支えた人物
主な関連人物 劉備 諸葛亮 関羽 
関連年表 215年 督軍従事となる
221年 永昌従事となる
234年 諫義大夫となる

略歴

費詩、字を公挙といい、ケン為郡南安県の人である。子は費立がいる。

劉璋時代、緜竹の令に任じられた。劉備が緜竹を攻撃した際、費詩は先んじて城をあげて降伏した。成都が平定された後、劉備は益州の牧を兼務し、費詩を督軍従事に任命した。

外に出て牂牁太守となり、中央に戻って州の前部司馬となった。

劉備は漢中王になると、費詩を派遣して関羽を前将軍に任命したが、関羽は黄忠が後将軍になったと聞くと腹をたてて、「大の男が、絶対に老兵と同列にはならぬぞ」といい、どうしても拝受しなかった。費詩は関羽に向かって、「そもそも王業を樹立する者、任用する人物は一人ではありません。昔、蕭何・曹参は高祖と若いころから親しい関係にありましたが、後から陳平・韓信が亡命してやってきまして、席次からいって韓信が最上位を占めることになりました。しかし蕭何・曹参がそのために怨みを抱いたなどと聞いたことがありません。いま、漢王は一時の功績によって、漢升(黄忠)を高い身分にされましたが、しかし心中の評価がどうして君侯と同等のはずがありましょう。そのうえ、王と君侯とはたとえてみれば一つ身体のようなもので、喜びも悲しみもともにされ、禍いも幸いもともにされる間柄でいらっしゃいます。私、君侯のために考えますに、官号の高下や爵禄の多少を計って気になさるのは適当でないと存じます。私は一介の使者、命令を伝える人間でありまして、君侯がお受けにならないのならば、このまま帰るだけでありますが、ただ君侯のためにこの行為を残念に思います。おそらくは後から悔やむことになりますぞ」関羽は大いに悟るところがあり、即刻拝受した。

後に群臣が漢中王を推して帝号を称させようと論議したとき、費詩は上疏して述べて、高祖が先に秦を破って項羽に王を譲った例を出し、逆賊討伐を先決するべきだと主張してこれを反対した。ことから劉備の気持ちを害し、永昌従事に左遷された。

225年、諸葛亮に随行して南征し、帰途、漢陽県まで来ると、降伏者の李鴻が諸葛亮のもとに出頭した。諸葛亮が李鴻に接見したとき、ちょうど蒋エンと費詩が同席していた。李鴻は、「魏に寝返った孟達が諸葛亮の判断は筋道だって諸葛亮に対する思慕の念は衰えてない」といった。諸葛亮は手紙を出して連絡を取ろうとした。費詩は述べて、孟達は小人物であって、忠節を尽くさないとして、手紙を出す価値などないと諌めた。諸葛亮は黙ったまま返事をしなかった。諸葛亮は孟達を誘って外からの援けにしたいと望み、けっきょく孟達に手紙を送った。

孟達は諸葛亮の手紙を受け取り、たびたび連絡をとりあった末、魏に絶縁状を出し反旗をひるがえそうとした。魏は司馬懿を派遣して彼を討ち、たちまち孟達を斬り殺した。諸葛亮もまた孟達には誠実な心がないと考えたので救助しなかった。


評価

習鑿歯は曰く、費詩が劉備の帝号に反対したことについて、過去の春秋時代から漢の歴史を例にして、自己の利益を追求しての行動ではないとし、正義によって逆賊を討伐するのに、どうして譲る気持ちなどもつ必要があろうか、費詩の左遷は当然であると述べている。裴松之もこの意見が正しいとしている。

陳寿曰く、「費詩は直言を吐いたため、出世の道を閉ざされた」述べている。

孫盛の『蜀世譜』によると、益州の費を姓とする諸家のうち、名声・官位を得た者の多くは、費詩の子孫であった。