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呂布が董卓を殺害する

蜀伝


程畿 季然ていき きぜん

姓名程畿
季然
生没年? - 222年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評忠節を全うして、夷陵の戦いで戦死した人物
主な関連人物 劉備 ホウ羲 
関連年表 214年 従事祭酒となる

略歴

程畿、字を季然といい、巴西郡ロウ中県の人である。子は程郁、程祁がいる。

劉璋の時代、漢昌の長に任命された。県には賓族が住んでおり、獰猛な種族で、昔、漢の高祖は彼らを利用して関中を平定したのであった。

巴西太守のホウ羲は天下動乱の時とて、郡にも守備兵が必要だと考え、盛んに私兵を招き集めた。劉璋に讒訴する者がいて、ホウ羲には反逆の陰謀があると説いたため、劉璋は内心彼を疑った。ホウ羲は聞き知ってひじょうに恐れ、守りを固めることを計画し、程畿の子の程郁を派遣して程畿に命令を伝えさせ、兵士を要求し救援させようとした。程畿は、「郡が私兵を集めたのは、本来反逆するためではないはずです。讒言を受けたとはいっても、肝心なのは誠意を尽くすことであります。もし、心配でならないからといって異心を抱くならば、私の与り知らぬことですぞ」と答えた。

同時に程郁をいましめて、「わしは州の恩誼を受けており、州牧に対して忠節を尽くすのが当然である。おまえは郡吏なのだから、太守のために力を尽くさねばならぬ。わしのために二心を抱いてはならぬ」といった。

ホウ羲は人をやって程畿に、「汝の子は郡にいるのだ。太守に従わない場合は、一家に禍いが及ぶであろう」と言った。程畿は、「昔、楽羊は魏の将となって、わが子の肉の羹を飲みました。父子の情愛がなかったからではありません。大義がそうさせたのです。今、またわが子の肉を羹とされましょうとも、私は必ずこれを飲むでしょう」といった。

ホウ羲は、程畿が自分の味方をすることは絶対にないと知って、劉璋に深く陳謝し、処罰を受けずにすんだ。劉璋はそれを聞き知って、程畿を江陽太守に昇進させた。

劉備は益州の牧を兼任すると、召しだして従事祭酒に任命した。

後に劉備の呉征討に随行し、黄権とともに参謀となった。大軍の敗北にあい、長江をさかのぼって帰還の途についた。ある者が、「追手がもうそこまできております。二つの船の網をほどき軽くして逃亡すれば、免れることでしょう」といったところ、程畿は、「わしは軍にあって、今まで一度も敵から逃げたことなどない。まして天子に従いながら危険をかまっていられるか」と述べた。

追手がかくて程畿の船に追いついた。程畿はみずから戟をとって戦い、敵船の中には転覆するものもあった。敵の大軍勢が到着し、力を合わせて程畿を攻撃したため、戦死した。


評価

『季漢輔臣賛』によると、程畿は激しい気性の人で、明君に忠節を捧げた。合戦となって敵と遭遇し、屈服することなく、たった一人で戦い抜き、陣中で一命を落とした、と評している。


演義

小説『三国志演義』にも登場し、正史同様に呉征討に随行した。ある日、布陣した軍の旗が無風の中で倒れた。程畿は、呉の夜襲を忠告したが、前夜の呉の夜襲をさんざん打ち破った劉備は聞き入れなかった。程畿は重ねて、昨夜の夜襲は小手調べかもしれないと述べたが、劉備は信じなかった。程畿の予言は的中し、軍は敗北した。その後、大軍と戦って自ら首を刎ねて死んだ。