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蜀伝


姜維 伯約きょうい はくやく

姓名姜維
伯約
生没年202年 - 264年3月3日
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号平襄侯
伝評諸葛亮に才能を見出され、後年を託された悲運の文武両道の名将
主な関連人物 諸葛亮 費禕 傅僉 夏侯覇 
関連年表 228年 倉曹掾・奉義将軍・当陽亭侯となる
234年 右監軍・輔漢将軍・平襄侯となる
243年 鎮西大将軍・涼州吏史となる
254年 督中外軍事を加官される
256年 大将軍、のちに後将軍・行大将軍事となる
258年 大将軍となる

略歴

姜維、字を伯約といい、天水郡冀県の人である。父は姜冏。

幼くして父を失い、母と暮らした。鄭玄の学問を好んだ。

郡に出仕して上計掾となり、州に召し出されて、従事に任命された。父の姜冏は昔、郡の功曹であったとき、羌族の反乱に遭遇し、身をもって群将を守って戦場で死亡した。そのため姜維に中郎の官を贈り、本群の軍事に参与させた。

228年、丞諸葛亮の軍が祁山に向かった。そのとき、天水の太守はたまたま巡察に出かけ、姜維および功曹の梁緒、主簿の尹賞、主記の梁虔らが随行していた。太守は蜀軍が今にもおし寄せんとしており、諸県も呼応していると聞く、姜維らすべてが異心を抱いているのではないかと疑った。そこで夜半逃亡して上邽にたてこもった。姜維らは太守が逃亡したのに気づくと追いかけたが、城門にたどりついたころには、城門はすでに閉ざされ、中に入れてくれなかった。姜維らが連れだって冀県に帰ってくると、冀県もまた姜維をいれてくれなかった。姜維らはそこで一緒に諸葛亮のもとへと赴いた。たまたま馬謖が街亭で敗北し、諸葛亮は西県を陥して千余軒の住民を連れ出し、姜維らを率いて帰還した。そのため姜維は母と離れ離れになってしまった。諸葛亮は姜維を召し出して倉曹掾とし、奉義将軍の官位を加え、当陽亭侯に封じた。時に27歳であった。

『魏略』にいう。天水太守馬遵は姜維や他の属官を率い雍州刺史郭淮に随行してたまたま西方から洛門に至るまで巡察している最中だった。そのとき諸葛亮がすでに祁山到着したとの情報が入った。郭淮は馬遵をかえりみて、「こいつはまずいことになりそうだぞ」といい、かくて東に駆けて上邽に戻った。馬遵は政庁の所在地冀州の場所が西方に偏っていることを考え、また吏民が混在をよろこぶことを恐れたので、そのまま郭淮について行った。そのとき姜維は馬遵に向かって、「明府は冀州にお帰りになるべきです」といったが、馬遵は姜維らに、「諸君はもう信用できない。みな逆賊だ」といい、それぞれ勝手な行動をとることになった。姜維もまた馬遵をどうすることもできず、しかも家は冀県にあるため、そのまま郡吏の上官子修らといしょに冀県に帰った。冀州に済む吏民は姜維らを見て大喜びし、さっそく諸葛亮に会う役目を押しつけた。二人は仕方なく、いっしょに諸葛亮のもとへ参上した。諸葛亮は謁見して、大いに気に入った。冀中の人を迎えにやる間もなく、たまたま諸葛亮の先鋒隊が張郃・費繇らによって撃破されたため、そのまま姜維らを率いて退却したのであった。姜維は帰ることができず、かくて蜀に入国した。魏の諸軍は冀を攻撃し、姜維の母と妻子をすべて捕らえたが、それも姜維に本来去る気がなかったおかげで、その家族を誅殺せず、ただ保官に拘留しただけで命を助けた。この叙述は本伝と異なっている。

孫盛の『雑記』にいう。それより前、姜維は諸葛亮のもとに出頭したため、母と離ればなれになってしまったが、家に帰ってほしいという母の手紙をふたたび受け取れる状態になった。姜維は、「百頃の両田を賜れば、一畝の地しかないわが家は気にかけないものですし、ひたすら将来の希望を追う者は、故郷に帰る気持はもたないものです」といってやった。

234年、諸葛亮がなくなると、姜維は成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍となって、諸郡を統率し、平襄侯に爵位をあげられた。

238年、大将軍蔣琬も随行して漢中に駐屯した。蔣琬が大司馬に昇進した後、姜維は司馬に任命され、たびたび一軍を指揮して、西方へ侵入した。

243年、鎮西大将軍に昇進し、涼州吏史を兼任した。

247年、衛将軍に昇進し、大将軍の費禕とともに録尚書事となった。この年、鎮山郡平康県の蛮族が反乱を起こし、姜維は軍勢を率いてこれを討ち平定した。また隴西・南安・金城の諸軍の地に出陣し、魏の大将軍郭淮・夏侯覇らと洮水の西で合戦した。蛮王の治無戴が全部落をあげて降伏したので、姜維は彼らをつれて帰還し安住させた。

249年、姜維は節を与えられ、ふたたび西平に出陣したが、勝利を得ることなく帰還した。姜維は西方の風俗に習熟しているという自信のうえに、軍事の才があると自負していたから、各種の羌族を誘い入れ友軍にしようとの望みを抱き、そうなれば隴より以西の地は魏から切断して支配できると考えた。大軍を動かそうと望むたびに、費禕はつねに制約を加えて思いどおりにさせず、わずか一万の兵を与えるだけだった。

『漢晋春秋』にいう。費禕は姜維に向かって次のようにいった、「われわれは丞相にはるかに及ばないのだ。その丞相でさえ中原の地を平定しえなかったのだ。ましてわれらに至っては問題にもならない。まずは国家を保ち民を治め、慎んで社稷を守るにこしたことはないのである。功業樹立のごときは、能力ある者の出現を待ってからにしよう。僥倖をたのんで一戦で勝敗を決しようなどとは考えまいぞ。もしも思いどおりにいかなかった場合、後悔してもまにあわないのだ。」

253年春、費禕が降将の郭循に刺殺され、亡くなった。夏、姜維は数万の軍勢を率いて石営に出、董亭を経て、何安を包囲したが、魏の雍州刺史陳泰が包囲を解かんとして洛門に到達し、姜維は兵糧尽きて撤退帰国した。

254年、督中外軍事の官位を加えられた。ふたたび隴西に出陣したところ、狄道を守備していた県長の李簡が城を挙げて降伏した。進行して襄武を包囲し、魏の将徐質と交戦して、首を斬り敵をうち破ったため、魏軍は敗退した。姜維は勝ちに乗じ、多数の敵兵を降伏させ、河関・狄道・臨トウの三県の住民を拉致して帰還した。

255年、また車騎将軍夏侯覇らとともに、狄道に出、トウ水の西において魏の雍州刺史王経をさんざんにうち破った。王経の軍勢の死者は数万人に及んだ。王経が退却して狄道城にたてこもると、姜維はそれを包囲した。魏の征西将軍陳泰が軍勢を進めて包囲を解いたので、姜維は退却して鍾題に駐屯した。

256年春、遠征先において姜維を大将軍に昇進させた。さらに戦闘準備をととのえ、鎮西大将軍の胡済としめし合わせて上邽で落ち合う手はずであったが、胡済は約束を破ってやってこなかった。そのため姜維は段谷において魏の大将鄧艾にうち破られ、軍兵はちりぢりになって逃げまどい、多大の戦死者を出した。人々はそのためひじょうに怨み、隴以西の地でも騒乱がおこり不安定になった。姜維はあやまちを謝し責めを負って、みずから官を下げてほしいと願い出、後将軍・行大将軍事となった。

257年、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南で反逆し、関中の兵を分けて東方へ下った。姜維はその虚に乗じて泰川へ向かおうと欲し、またも数万の軍勢を率いて駱谷に出、ただちに沈嶺に到着した。当時長城にはたいへん多くの穀物が貯蔵されていたのに、魏の守備兵は少数であったので、姜維がやってきたと聞き、人々は恐れおののいた。魏の大将軍の司馬望が守備に当たり、鄧艾もまた隴右より駆けつけ、みな長城に陣を張った。姜維は前進して芒水に駐屯し、すべて山を利用して陣営を築いた。司馬望・鄧艾は渭水にそって防禦のとりでを固めた。姜維は何度も戦いを挑んだが、二人は応戦しなかった。

258年、姜維は諸葛誕の敗北を聞くと、成都に帰還した。ふたたび大将軍に任命された。

262年、姜維は軍勢を率いて侯和に出、鄧艾に撃破され、引き返して沓中に駐屯した。姜維はもともと故郷を離れて蜀に身を寄せた人物であり、連年戦いに明け暮れながら、功績を立てることができずにいるうち、宦官の黄皓らが宮中にいて権力をわがしものとし、右大将軍の閻宇が黄皓と結託した。しかも黄皓はひそかに姜維を廃して閻宇を立てんと願った。姜維もまたそれを疑っていたので、危惧の念を抱き、二度と成都に帰還しなかったのである。

263年、姜維は劉禅に上表して、「聞きますれば、鍾会は関中で出動の準備をととのえ、進攻の計画を練っているとか。張翼・廖化の二人に諸軍を指揮させ、陽安関の入口と隠平橋のたもとをそれぞれ固めさせ、危険に対して未然に処置なさいますように」と述べた。黄皓は鬼神や巫の言葉を信用し、敵は絶対にやってこないと考え、劉禅にその進言をとりあげないように言上したが、群臣は何も知らなかった。

鍾会が駱谷に向かい、鄧艾が沓中に侵入しようというときになってはじめて、右車騎将軍の廖化を沓中にやって姜維の援軍とし、左車騎将軍の張翼、輔国大将軍の董厥らを陽安関の入口に向かわせ、諸陣営の外にあって救援態勢をとらせることにした。隠平まで来たとき、魏の将諸葛緒が建威に向かったと聞いたため、留まってこれを待ち受けた。一ヶ月あまりたって、姜維は鄧艾に撃破され、隠平に引き退いた。鍾会が漢・楽二城を攻撃包囲し、別将を派遣して関口に進撃させたため、蒋舒は城を開け渡して降伏し、傅僉は格闘して戦死した。鍾会は楽城を攻撃したが、落とすことができないまま、関口がすでに落ちたと聞いて長駆して進撃した。張翼・董厥らと出会い、そろって引き退き剣閣にたてこもって鍾会に対抗した。

『漢晋春秋』にいう。蒋舒は城を出て降伏しようとするとき、傅僉を欺いて、「今、賊軍がおしよせているのに出撃もせず、城を閉ざして守備に当たるのは良策ではない」といった。賦存が「命令を受けて城を守っているからには無事に守り抜く事こそ手柄なのだ。今、命令に反して出撃し、もしも軍隊を失い国家の期待を背くようなことがあれば、死んでも何の足しにもならないだろう」というと、蒋舒は、「子は城を無事に守りにくことを手柄だと考え、わしは出撃して敵に勝つことを手柄だと考えている。それぞれ自分の思いどおりにやろうではないか」といい、かくて軍勢を率いて出て行った。蒋舒は彼が戦うものだと思いこんでいたところ、隠平に到着すると、胡烈に降伏してしまった。胡烈は虚に乗じて城を襲撃し、傅僉は格闘して戦死した。魏の人々は彼の道義を評価した。

鍾会は姜維に文章を送り述べた、「あなたは文武両面にわたる才能をもたれ、世人をそのぐ策略を旨に抱かれ、功業を巴・漢のちにあげられ、名声は中華の地にまで聞えわたり、遠きも近きもあなたの心に寄せないものはございません。過去に思い馳せるたびに、かつては〔国を異にしても〕大きな理想に心を通わせたことをかんがえるのです。呉の季札と鄭の子産の交情は、友情のあり方というものを理解しておりました。」姜維は返書を出さず、軍営をつらね要害を固めた。鍾会は抜くことができず、はるか彼方から兵糧輸送を行なっているため、帰還の相談をしようと考えた。

『華陽国志』にいう。姜維は黄皓の専横を憎み、劉禅に上言して彼を殺害せんとした。劉禅は、「黄皓は走り使いの召使にすぎない。先には董允が彼に対して歯ぎしりしておったが、わしはいつもそれを残念に思っていたのだ。君が気にかけるほどの男ではない」といった。姜維は黄皓が枝や葉が木の幹にすがりついているように皇帝にとりいっているのを見て、失言するのを恐れ、言葉を出すのをひかえて退出した。劉禅は黄皓に勅命して姜維のもとへあやまりに行かせた。姜維は黄皓に沓中で麦を植えたいと申し出、宮中から加えられる危険を避けた。

『蜀記』にいう。蒋舒は武興督であったが、事にあたっって目立った働きがなかった。蜀は他の人に命じて彼と交替させ、そのまま蒋舒を留めおき、漢中の太守を助けさせた。蒋舒は怨みを抱き、そのために城を開き、外にでて降伏したのである。

ところが、鄧艾は隠平から景谷道を通って脇から侵入し、かくて綿竹において諸葛瞻を撃破した。劉禅が鄧艾に降伏を願い出たため、鄧艾は進軍して成都を占領した。姜維らが諸葛瞻の敗北を聞いた当初、劉禅は成都を固守するつもりでいるとか、東方の呉に入国するつもりであるとこ、南方の建寧に入るつもりであるとか、いろいろの情報が流れた。そこで軍を引いて、広漢・シの街道を通りつつその真偽を確認しようとした。ついで劉禅の勅命をうけたので、武器を投げ出しよろいをぬいで、鍾会のもとに種痘し、フの陣営の前まで赴いた。将兵はみな怒りのあまり、刀を抜いて石をたたき切った。

干宝の『晋紀』にいう。鍾会が姜維に向かって、「どうして来るのが遅かったのだ」といった。姜維はきりっとした表情になり、涙を流して、「今日ここでお会いしたのは早過ぎると思っています」と答えた。鍾会は彼をひじょう立派だと思った。

鍾会は姜維らを手厚くもてなし、かりの処置として、彼らの印璽・節・車蓋をみな返してやった。鍾会は姜維と外出するときには同じ車に乗り、座にあるときには同じ敷物に坐り、長史の杜預に向かって、「伯約を中原の名士と比較すると、公休や太初でも彼以上ではあるまいな」といった。鍾会は鄧艾を罪に陥れ、鄧艾が護送車で召還されたのち、そのまま姜維らを成都に至り、勝手に益州の牧と称して反旗をひるがえした。姜維は兵士五万人を授け、先鋒をつとめさせるつもりだったが、魏の将兵は憤激して、鍾会と姜維を殺害した。姜維の妻子もみな処刑された。

『漢晋春秋』にいう。鍾会はひそかに反逆の意図を抱いていた。姜維は会見して彼の本心を見抜き、騒乱状態を作り出すことによって蜀復興の道が開けると考えた。そこで詭計を立て鍾会に進言した、「聞けばあなたは淮南の戦役以来、計策に遺漏なく、晋の政道が隆盛になったのも、みなあなたのおかげであるとこ。今また蜀を平定されて、威光と恩徳は世間にとどろき、民衆はあなたの功績を高く評価し、主君はあなたの軍略の才を畏怖しておられます。かかる状況をもって誰に身を寄せるおつもりですか。そもそも韓信は混乱の時代に漢を裏切らなかたため、平和になってから疑われ、大夫種は五湖に舟浮かべて立ち去った范蠡の態度を見習わなかったため、けっきょく自決を迫られ無駄死をしました。彼らはいったい暗愚な君主、愚かな臣下であったのでしょうか。利害によってそうなったまでです。いま、あなたは大きな功績をすでに樹立され、大きな徳をすでに明らかにされておられます。どうして、陶朱公が舟を浮かべて行先をくらまし、巧名を姜持し身の安全を保った行為を手本とし、峨嵋山の嶺に登って、仙人の赤松子に従って遊ぼうとはなさらないのですか。」鍾会が、「あなたの言葉は浮世離れしていて、わしにはとても実行できない、それに現在とるべき手段はなにもそれだけに限るまい」というと、姜維は、「それ以外の手段ならば、あなたの才智と能力によってできることです。この老人をわずらわせるまでもないでしょう」と答えた。このことから、二人の間はいよいよ親密になった。

『華陽国史』にいう。姜維は鍾会をそそのかして、北方から来た諸将を誅殺させ、彼らが死んだあと、おもむろに鍾会を殺し、魏の兵士をことごとく生き埋めにし、蜀朝を復興させるつもりだった。劉禅に密書を送って次のように述べた、「願わくは陛下には数日の屈辱をお忍びくださらんことを。わたくしは危機に瀕した社稷をふたたび安んじ、光を失った日月をふたたび明るくするつもりです」

けっきょく暴動が起こしたため計画が失敗し、姜維は鍾会および妻子らと共に殺された。享年63。


評価

諸葛亮は留府長史の張裔、参軍の蔣琬に手紙を送って「姜伯約は与えられたその時の仕事を忠実に勤め、思虜精密であり、彼のもっている才能を考えると、永南・季常らの諸君も及ばないものがある。この男は涼州における最高の人物である」と述べた。また、「まず中虎歩軍の兵五、六千人を教練する必要がある。姜伯約は軍事にはなはだ敏達していて。度胸もあるうえ、兵士の気持ちを深く理解している。この男は漢室に心を寄せ、しかも人に倍する才能を有しているゆえ、軍事の教練が終わったら、官中に参上させ、主上にお目通りさせてもらいたい」ともいった。後に中監・征西将軍に昇進した。

『傳子』にいう。姜維は功名を樹立することを好む人物で、ひそかに決死の士を養い、庶民の生業にたずさわらなかった。

『世語』にいう。当初の蜀の属官は、みな天下の英才・秀才であったが、姜維の右にでるものはいなかった。

孫盛の『晋陽秋』にいう。私孫盛は、永和の初年、安西将軍の蜀平定に随行して、古老たちと会った。姜維が降伏した後、ひそかに劉禅に上奏文を送って、鍾会に服従したふりをし、機会をとらえて彼を殺し、蜀の国土をとり戻すつもりだと申し送ったが、計画が失敗に帰したため、けっきょく滅亡にいたったという話になると、蜀の人々は今でもこれを残念がっていた。私の考えでは、古人は「困しむ必要のないことに困しめば、わが名は必ず辱められ、いるべきでないところにいれば、わが身は必ず危うくなる。屈辱を蒙ったうえに危険が迫れば、死期は今にも訪れよう」といっているが、それは姜維にあてはまることであろうか。鄧艾が江由へ侵入した際、軍勢は少数であったにもかかわらず、消極的には五将を指揮して蜀の君主を護衛しつつ、今後の謀りごとを立てることもできなかった。しかも順・逆の間をいったりきたりし、期待し難い機会をつかんで、鍾会の厚情を裏切ることを考え、虚弱した国力をもって、何度も三奏に圧力をかけてみたり、滅亡した国をもって、道理にはずれた成功を収めようと望んだりした。なんと愚かなことよ。

裴松之はいう。孫盛の姜維に対する非難はやはり妥当ではないと考える。当時、鍾会の大軍はすでに剣閣まで到達していたが、姜維が諸将とともに陣営を連ねて要害を防備したからこそ、鍾会は進行することができず、帰還の計画を相談しはじめたのであって、蜀を無事に守りきる功業は、ほとんど樹立されるところだった。ただ鄧艾がぬけ道を脇から侵入し、その後方に進出し、諸葛瞻が敗北したのち成都が自滅したのである。姜維がもしも軍をめぐらして国内の救援に向かっていたならば、鍾会はその背後を襲っていたであろう。当時の情勢では、どうして両方を救うことが可能であったろうか。それなのに姜維が綿竹で忠節を奪うことができなかったとか、蜀の君主を護衛できなかったとか非難しているのは、理屈にあわない。鍾会は魏の将をことごとく生き埋めにして反逆の大事を決行し、姜維に重装備の軍兵を授け、先鋒をつとめさせようと計画した。もしも魏の将が皆殺しにされ、兵権が姜維の手に握られていたならば、鍾会を殺害して蜀を復興するのも困難ではなかったであろう。そもそも功業は道理の外で成就されて、はじめてすぐれたものとされるのである。事にいきちがいがあって、うまくいかなかったからといって、けなしてだめだというべきではない。もし田単の計略が、機会にめぐりあえず失敗していたとするならば、それを暗愚といってよかろう。

郤正は論文を書いて姜維について述べた、「姜伯約は上将の重責を占め、群臣の上に位置していたが、粗末な家に住み、余分な財産を持たず、別棟に妾を置く不潔さもなく、奥の間で音楽を奏させるたのしみももたず、あてがわれた衣服をまとい、備えつけの車と馬を使用し、飲食を節制して、ぜいたくもせず、倹約もせず、お上より支給された俸禄の類を右から左へ使い果たした。彼がそうした理由を推察すると、それによって貪欲な者や不潔な物を激励しようとしたり、自己の欲望を抑制し断ち切ろうとしたのではない。ただそれだけで充分であり、多くを求める必要はないと考えたからであった。およそ人の議論というものは、つねに成功者をたたえて失敗者をけなし、高いものをさらにもちあげ、低いものをさらに抑えつけるものであって誰も彼を姜維が身を寄せる場所もなく、その身は殺され一族は根絶やしにされたことをとりあげ、それを理由に非難をあびせ、もう一度検討しなおそうとはしないが、これは『春秋』が示す価値判断のたてまえとは違ったものである。姜維のように学問を楽しんで倦むことなく、清潔で質素、自己を抑制した人物は、当然その時代の模範なのである。」

孫盛はいう。卻正の論は何と奇抜なことよ。そもそも士人たる者はくさぐさの行為をなし、生き方はさまざまに分かれるけれども、忠・孝・義・節ということにいなると、それはすべての行為をおおう最高のものである。姜維は魏朝の官禄を食みながら、蜀朝に出奔し、主君に背き利益に走ったのだから、忠ということはできない。親を見捨てて危険を免れようとしたのだから、孝ということはできない。故国に害を加えたのだから、義ということはできない。国が敗れながら危難に命を投げ出さなかったのだから、節ということはできない、そのうえ政治の恩恵がまだゆきわたっていないのに、民衆を疲弊させ武力をふるい、防禦の任務につきながら、敵を招きよせ拠点を失った。その智と勇についても特筆すべき何事もない。およそこの六点のうち、姜維はなに一つ所有していないのである。まことに魏朝の亡命者、亡国の乱相である。それを人間の模範と称すとは。なんと見当はずれであることよ。たとえ姜維が書物を好み少々清潔な生き方をしたとしても、いったいあの盗んだ物を貧乏人に分けてやるような盗人の道義心や、高い官位を降りようとした程鄭の善行と、異なろうか。

裴松之はいう。郤正のこの論は、姜維の称賛すべき点をとりあげたもので、姜維のすべての行為を模範とすべきだと述べているわけではない。「その時代の模範」という言葉は、ただ学問を好んだことと倹約・質素であったことについての言である。しかも本伝および『魏略』ではいずれも姜維には本来反逆の心がなかったのだが、危急に迫られ蜀に帰順したといっている。孫盛は非難するのならば、ただ母に背いただけを責めればよい。その他はあまりにも過酷であり、また郤正を攻撃する論拠にはなりえない。


逸話

昔、劉備は漢中のおさえとして魏延を駐屯させ、外敵を防ぐために諸陣営には充分な兵を置き、敵が来攻しても、侵入できないように配慮しておいた。興勢の役のとき、王平が曹爽に対抗できたのも、すべてこの制度が続いたおかげであった。姜維は建議して次のように述べた、「諸陣営を交錯させて守備するのは、〔乱暴な侵入者に備えて〕『門を幾重にも設け』たという『周易』の趣旨に合致してはおりますが、しかし、敵の防禦にはふさわしい対策であっても、大勝を博するわけにはまいりません。敵が来るとしても、諸陣営はすべて武器をとりまとめ兵糧を集め、引き退いて漢・楽の二城に行き、敵の平地への侵入を許さず、さらに関所の守りを大切にして防禦の当たらせるのがよいでしょう。有事の際には、遊撃隊を両城からくり出して敵の隙をうかがわせます。敵軍は関所を攻撃しても抜くことができず、野に放置された穀物もないとなると、千里の彼方から兵糧を運ぶことになり、自然に疲弊欠乏するでしょう。撤退のときにはじめて諸城からいっせいに出撃し、遊撃隊と力をあわせてたたき伏せる、これこそ敵を殲滅する方策です。」その結果、督漢中の胡済漢寿まで退かせ、監軍の王含に楽城を守らせ、護軍の蒋斌に漢城を守らせた。また西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠においてすべて防禦陣を築いた。

『世語』にいう。姜維は死んだとき腹を割かれたが、その胆は一升ますほどの大きさがあった。

かつて剣閣県剣門関鎮に墓所があり、墓碑・墓廟などがあったが、1936年に川陝公路(現在のG108国道)の整備のため取り壊された。唯一残っていた墓亭も、1960年代に文化大革命で破壊され、現在は跡形もない。