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呂布が董卓を殺害する

蜀伝


董厥 龔襲とうけつ きょうしゅう

姓名董厥
龔襲
生没年生没年不詳
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評諸葛亮の側近として才能を評価され、政務を司った人物
主な関連人物 諸葛亮 姜維 樊建 陳祇 
関連年表 223年 令史となる
234年 尚書僕射となる
258年 尚書令・大将軍平台事となる

略歴

董厥、字を龔襲といい、義陽県の人である。

董厥は、諸葛亮が丞相であったとき、その幕府の令史となった。

その後、転任して主簿となった。

234年、諸葛亮の死後、段々と昇進して尚書僕射となった。

258年、陳祇に代わって尚書令となり、大将軍平台事に昇進した。

諸葛瞻、董厥、樊建が政務を担当し、姜維がつねに征伐で外地にいるようになってから、宦官の黄皓が、政治の実権をほしいままにしたが、みな互いにかばいあって、政治の矯正することができなかった。

董厥らは、姜維が戦争を好んで功績なく、国内が疲弊していることを理由に、姜維を召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うように劉禅に上奏すべきだと考えた。閻宇と姜維を交替させようとしていた。

263年、魏の鄧艾、鍾会、諸葛靚らが大軍で侵攻してくると、董厥は張翼、廖化とともにその迎撃に向かった。その後、董厥は、張翼とともに陽安関の守備に向かった。

陰平で敗北した姜維、廖化らと合流して剣閣に立て籠もった。しかし蜀は降伏したため、董厥は姜維らとともに成都へ戻った。

264年春、董厥、樊建らはともに首都洛陽に上り、ともに相国参軍となった。その年の秋、ともに散騎常侍の官職を兼任し、蜀の人々の慰撫にあたった。


評価

諸葛亮は董厥を賛えて「董令史は、秀れた人物である。私はいつも彼と話をするが、思慮は深く過不足がない」といった。


演義

『三国志演義』では、蜀滅亡後、劉禅が洛陽へ向かうときに病気となり、廖化とともに憂死したことになっている。