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後漢伝


馬騰 寿成ばとう じゅせい

姓名馬騰
寿成
生没年? - 212年
所属後漢
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評涼州を束ねて、異民族から恐れられた猛将
主な関連人物 馬超 韓遂 
関連年表 192年 征西将軍となる
194年 安狄将軍となる
197年 前将軍・仮節となる
208年 衛尉となる

略歴

馬騰、字を寿成といい、扶風郡茂陵県の人である。先祖は後漢の名将馬援。父は馬平、子は馬超、馬休、馬鉄、甥に馬岱がいる。

馬騰は若いころ貧乏に苦しんで、いつでも彰山に入って材木をきりだしては市場に行って売っていた。

涼州刺史耿鄙が奸吏を信任したため、平民の王國や氐族・羌族が叛乱を起こした。州郡では平民の中から武勇ある者を募ってこれを討とうとした。馬騰が応募すると、州郡は彼を登用して軍の従事に任命した。馬騰は兵を率いて力戦し、軍司馬に昇進した。

187年、涼州の韓遂が仲間の辺章、北宮伯玉らを殺し、彼らの兵十余万を併せて隴西を囲んだ。涼州では耿鄙を殺してこれに応じた。そして二人は王國を推して主将となった。

189年、王國は官軍の皇甫嵩に大敗し、怒った韓遂に殺された。

190年、董卓は関東の諸侯らが一斉に挙兵して洛陽に向かったのを避けて、長安遷都を強行し、馬騰、韓遂は董卓の呼びかけに応じて長安に赴いた。

192年、董卓は呂布、王允に殺され、これに代わって李傕、郭汜が朝権を奪った。彼らは馬騰を征西将軍に任じて長安に近いところに駐屯させ、韓遂を鎮西将軍とし、馬騰と切り離すために遠くの金城に赴任させた。

194年、左中郎将劉範らが李傕、郭汜を討伐しようと進めていた。彼らは馬騰、韓遂を味方にし、内外呼応する手筈だった。馬騰たちは進軍したが、計画は事前に漏れ、樊稠に攻撃されて涼州に敗走した。馬騰は安狄将軍に降格されたが、これ以上の咎めはなかった。

涼州に還った二人は初め、非常に親しみ合い異性兄弟の約を結んだが、のちに互いに部曲を率いて争うようになり、馬騰の妻子は韓遂に殺されてしまった。

197年、司隷校尉鍾繇、涼州の牧韋誕は二人を和解させ、馬騰を召しかえして前将軍・仮節とした。以降、それまでと打ってかわって馬騰は北は異民族の侵攻を防ぎ、東は鮮卑に備え、よく士を遇して賢者を引き立て、人々を安定させた。

長子の馬超は後に司隷校尉鍾繇に随従して郭援を討ち、部下の龐悳が郭援を斬った。この功績で馬超は徐州刺史を拝命し、のちに諌議大夫に任ぜられた。

208年、朝廷は馬騰を衛尉に任命した。再び韓遂と仲が険悪になった馬騰は自らの老いを顧みて、入朝して天子の宿衛を務めた。馬騰が入朝したあと、馬超は偏将軍として父の兵を預かった。次男馬休、三男馬鉄らも父や家族とともに鄴に行った。

211年、曹操は張魯討伐を起こし、夏侯淵らを派遣した。馬超と韓遂はこれをみて自分らも領土を奪われるのではないかと疑心暗鬼になり、けっきょく馬超は韓遂とともに関中で挙兵し、潼関へ攻め込んだ。

212年、馬超らの叛乱の罪で、馬騰らとその三族は、曹操によって皆殺しにされた。


評価

馬騰は身長八尺余りもあり、顔も鼻も大きな偉丈夫だったが、為人は賢く温厚で、多くの人々に敬われた。


演義

『三国志演義』においては馬超の挙兵と馬騰一族の殺害の順序が逆になっており、馬超は一族を殺された復讐の念から曹操に兵を挙げるという図式になっている。

朝廷への忠誠に燃える正義漢として描かれており、劉備・董承らの曹操暗殺計画に参加するが、失敗に終わったため涼州に帰った。

その後、許昌に呼び出された際は黄奎と共に再び曹操暗殺を謀った。しかし、黄奎が妾に詳細を話したことがきっかけで計画が漏れ、子の馬休・馬鉄と共に一族皆殺しとなった。その後、唯一脱出した馬岱から父の死を聞いた馬超は、曹操に対して反旗を翻した。

馬超は鬼神のごとき武勇を発揮し曹操を追い詰めるも、結果的にはやはり離間の計で韓遂と仲違いし、敗北した。