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後漢伝


周瑜 公瑾しゅうゆ こうきん

姓名周瑜
公瑾
生没年175年 - 210年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評赤壁で曹操の野望を打ち砕いた奇才
主な関連人物 孫権 孫策 魯粛 
関連年表 196年 江東平定
206年 山越討伐
208年 赤壁の戦い

略歴

周瑜、字を公瑾といい、盧江郡の舒の人である。従祖父の周景と、周景の息子の周忠とは、ともに漢王朝で大尉に任ぜられた。父の周異は、洛陽県令であった。子は、周循と周胤、妻は小喬。

周瑜は成人するとともに立派な風采をそなえた。孫堅の息子の孫策は、周瑜と同年であったことから、二人は特別に親しい交わりを結んでいた。周瑜は、大きな屋敷を孫策に譲ってそこに住まわせ、座敷に通ってその母親に拝謁し、必要な物は互いに融通しあって生活をした。

孫策が歴陽まで軍を進めてのぼると、周瑜は兵士をひきつれて孫策を出迎えた。周瑜は、そのまま孫策の配下に入って横江と当利とを攻撃し、双方ともその城を陥落させた。更に軍を進め長江を渡って秣陵を攻撃し、サク融と薛礼との勢力を打ち破った。曲阿まで侵攻すると、劉ヨウは逃亡した。その後、周瑜は一度丹陽へ戻った。

198年、袁術が周瑜を配下につけようとしたが、周瑜はそれを拒否するため、自ら居巣県の長になりたいと申し出た。袁術は受け入れたので、周瑜は居巣にいき、そこから呉にもどった。孫策は、自ら周瑜を出迎え、建威中郎将の任を授けた。

しばらくして孫策は、荊州の奪取を企てると、周瑜は中護軍に任命され、江夏太守の職務をあたらせ、孫策に従って皖を攻め、これを落とした。このとき、橋公の二人の女を捕虜にしたが、ともに絶世の美人であった。孫策はみずから姉の大喬を、周瑜は妹の小喬をそれぞれ妻とした。

その後、尋陽まで軍を進めて、劉勲を破り、江夏を討伐し、軍を還して豫章と盧陵を平定すると、巴丘に軍を留めた。

200年、孫策が逝去し、孫権が跡を継いで呉を指揮することになった。周瑜は兵をひきつれて葬儀にかけつけ、長史の張昭とともにすべての事務を取り仕切った。

202年、曹操が袁紹を打ち破ったばかりの際に、曹操は孫権に書簡を下し、息子を人質としてさし出すよう要求してきた。周瑜の説得により、人質は送らなかった。

206年、孫瑜らの軍の目付け役として、山越討伐に参加し、一万余人を捕虜にした。江夏太守の黄祖が、トウ龍を派遣し、柴桑に侵入してくると、周瑜はこれを追撃し、トウ龍を捕虜にし呉へ護送した。

208年、孫権が江夏を討伐すると、周瑜は前部大督をつとめた。

同年、曹操が荊州に侵攻すると、領民を服従させて水軍を手に入れた。曹操の軍勢はあわせて数十万となり、呉の将士らはこれを聞いてみな恐れを抱いた。孫権は、群臣らを集めて、どのように対処すべきかを尋ねた。多くの群臣は曹操を迎え入れるよう進言したが、周瑜は、曹操は漢の賊徒として大義名分があることを語り、水軍と地理の優位さを説いて、孫権を納得させた。

さらに曹操に打ち破られた劉備は、当陽で魯粛と出会うと、双方協同して作戦にあたる約束ができ、諸葛亮が使者として孫権のもとへ赴いた。孫権は、周瑜と程普を派遣し、曹操と赤壁で遭遇した。このとき、曹操の軍勢には疫病が発生していて、長江の北側に軍営をすすめていた。周瑜は黄蓋を派遣し、投降すると偽って船を近づけた。同時に船に火を放ったので、強風ですべての船に火が移って、岸辺の軍営まで延焼した。曹操の軍勢は敗退して、南郡に引き返して立てこもった。

周瑜は、劉備らとさらに追い打ちをかけ、曹操は、曹仁らを江陵に守らせて、自らまっすぐ北方へ逃亡した。周瑜は甘寧を派遣して、夷陵を占領させた。曹仁の別働隊が甘寧を攻撃し包囲したので、みずから呂蒙とともに甘寧の救援に向かった。両軍は正面からぶつかり、周瑜が敵陣に乗り込んだが、流れ矢が左の鎖骨に命中し、陣営に引き返した。

周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務をあたらせ、江陵に駐屯させた。また、劉備が関羽張飛らのような勇猛無比の将らを従えているから、いつか決別することを孫権に指摘した。

当時、劉璋が張魯の侵攻を受けていたので、蜀奪取を企て、北方制覇を計った。そこで、周瑜江陵にもどって、遠征の準備に取り掛かろうとしたが、その途中、巴陵において病気を発し、死去した。享年36歳。


評価

周瑜は知略・武略に優れる名将であり、寛大で人の心を掴むことが得意だった。しかしながら宿将程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈してへりくだり続けたので、その謙譲さに程普もとうとう感服し、尊重するようになったという。また、曹操や劉備は周瑜の才能を恐れ、曹操は家臣の蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようと図ったほどである。

陳寿の評に言う。「曹公(曹操)は、漢の丞相という地位を利し、天子を手元に置き、 その威をかりて群雄達の掃蕩につとめていたが、荊州の城を落とすや、 その勢いを借りて東夏(呉)の地に鉾先を向けてきた。 このときにあたり、(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しを立て、 人々に抜きん出た存在を示したというのは、まことに非凡な才能によるのである」


演義

小説『三国志演義』での周瑜は、天下の奇才諸葛亮に翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透かしてくる諸葛亮を危険視し、暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながら対抗するも遂に敵わず病に倒れる。臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」と血を吐いて憤死するという哀れな最期となっている。

ただ、軍事の才は『演義』においても史実と同じく目を見張り、孫呉の将兵を巧みに指揮し、赤壁の戦いを始めとして多くの戦役で戦功をたてるのは同様である。決して愚鈍ではなく、むしろ一国を担う将器として、常人に勝る才幹を持つ人物として描かれているものの、それをさらに圧倒する、もはや化け物じみた鬼謀を備えた諸葛亮の引き立て役にされてしまったというイメージが強い(これらの諸葛亮と周瑜の対比描写について、魯迅などは「物語にしても実在の人物の功を歪曲しすぎており、やりすぎである」などと批判を加えている)。

なお京劇では周瑜は「美周郎」のあだ名の通り、古来より二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としてのイメージが定着している。「赤壁の戦い」を舞台にした映画『レッドクリフ』では主人公として登場。梁朝偉が演じた。