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曹操と劉備の英雄論

後漢伝


孟宗 共武もうそう きょうぶ

姓名孟宗
共武
生没年? - 271年
所属
能力 統率:  武力:  知力:  計略:  政治:  人望:
推定血液型不明
諡号---
伝評若いころから母を想い、職務より孝行を選んだ「二十四孝」の一人
主な関連人物 朱拠 李粛 
関連年表 258年 光禄勲となる
262年 御史大夫となる
268年 司空となる

略歴

孟宗、字は共武といい、江夏郡の人である。

若い時、南陽の李粛に従って学問を修めた。

母は孟宗のために、厚い敷蒲団を作ってやった。人が理由を訊くと、母親は「息子には他人様を惹きつけるような徳はありません。学問をやる人は多くは貧しい方です。大きな敷蒲団があれば、その方たちと仲良く過ごせると思いまして」と答えた。孟宗は昼夜おこたらずに勉強したので、師の李粛は非凡だと思い、「そなたは宰相たるべき器を具えている」と評した。

敷蒲団を作ったのは、今でいえば息子の下宿先に空調機を買い与えたようなものだろう。寝具があれば、過ごしにくい季節に、自然と友人が集まってくるからだ。

初め、孟宗は志を得ないまま、驃騎将軍の朱拠の軍営で小役人をやっていた。ある夜、雨漏りがあった。目を覚ました孟宗は、こんな陋屋に母を住まわせる不幸を詫びると、母は「お勤め第一に考えればいいのです。なんで泣くことがありましょう」と慰めた。

朱拠もやげて孟宗の才能を認め、監池司馬とした。孟宗は網を編んで魚を捕り、鮓を作って母親に贈った。母親は受け取ろうとせず、「お前は魚の管理をする役目なのに、鮓を届けてきました。他人の嫌疑を受ける行いですよ」と注意した。「瓜田に履を納れず、李下に冠を整へず」の譬えと同じである。

後に呉の県令に昇進した。

当時の規程では、官史は赴任先に家族を連れて行くことを禁じられていたので、孟宗は旬の物が手に入るとまずは母に送り、自分が先に食べようとはしなかった。また、親が亡くなった場合、勝手に任地を離れることも禁じられており、これを犯す者は死罪と定められていた。しかし、孟宗は母の死を聞くと、官職を抛って葬儀に駆けつけた。その後で自首し、「いかなる刑でも甘受致します」と言った。陸遜は彼が親思いだったことを上陳して、命請いをした。そこで孫権は死一等を減じたが、「これは特例であって、以後はこれを令として刑を緩めはしない」と釘を刺した。

この後、官吏が服喪のために職務を放棄する風は跡を断った。

258年、孟宗は官を復帰して光禄勲となり、孫綝らによる孫亮の廃位に加わっった。

262年、御史大夫に昇進した。

呉主孫晧の字の元宗を避けて、後に名を仁に改めた。

268年、孟宗は司空にまで昇進し、271年に亡くなった。


逸話

孟宗の母は筍が好きだったが、初冬のこととてまだ生えて来なかった。孟宗は母を思いやって、竹林に入って嘆き悲しんだ。すると筍が頭を出した。孟宗は掘り取って母親に早速食べさせた。これを知った人々は、孟宗の厚い孝心に天が感応したのだと語り合った。

この話に因んで、筍を採るために広く栽培されている竹を「孟宗竹」と名付けた。竹は成長すると十メートルから二十メートルにも達し、太さは二十センチというみごとさである。


評価

孟宗は元の郭居敬が選び出した二十四人の孝行者、「二十四孝」の一人に挙げられている。井原西鶴はこの表題をもじって『本朝二十不孝』を著わした。親不孝者を題材に、彼らのさまざまな生き方を誇張を混じえて描いた十九の話と、最後に御祝儀として書いた孝行話一話とから成る短編集である。