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月間キーワード 11月の出来事
蜀漢滅亡

三国志歴史年表

演義正史
184年 2月、張角が太平道を号し黄巾賊の大乱を生む。波才、張曼成らが賛同し、一斉蜂起。張宝張梁ら、三軍を分け北方を拠点とする。朝廷は朱儁・皇甫嵩・廬植・董卓・曹操らに黄巾賊討伐を命じる。劉備、関羽、張飛が楼桑村において義兄弟の契りを結ぶ(桃園の誓い)。劉備らは盧植を頼って討伐軍に参加する。5月、廬植、張角を追い詰めるが、中常侍の圧力により免職され投獄される。10月、皇甫嵩、曹操と共に、張梁を討ち取る。11月、皇甫嵩、劉備の策で張宝を討ち取る。張角が病死し黄巾の乱は一時平定となる。 2月、太平道の組織者の張角が蜂起する。みな頭に黄色の巾をつけていたところから、黄巾の賊と呼ばれる。3月、何進が大将軍に任じられ、都の守りにあたる。皇甫嵩や呂強により、党錮のメンバーが黄巾の反乱者と結ぶことを畏れて、党錮の禁は解除される。4月、鄧盛が大尉に、張温が司空になる。5月、皇甫嵩は長社において黄巾の包囲を受けるが、朱儁、曹操の助力を得て黄巾を打ち破る。さらに皇甫嵩は、朱儁とともに汝南、陳国一帯の黄巾を破って、その地は平穏になる。6月、盧植は、張角を広宗に追い詰めたが、宦官の讒言により罪におとされ、董卓がそのあとを継ぐ。7月、巴郡において五斗米師の張脩が蜂起する。人々はその一味を米賊と呼ぶ。10月、皇甫嵩は、張角の弟の張梁を斬り、11月には張宝を打ち破る。 12月、忠平と改元する。
185年 涼州にて韓遂が反乱、討伐軍に董卓・張温が任命される。張温の副将孫堅、董卓と対立する。劉備は安喜県の令となる。都からの督郵が視察に来て劉備に賄賂を要求する。これに対して張飛が督郵を木に縛り鞭を打って、劉備らは出奔する。 2月、宮殿造営、金人鋳造などのため、田地に十銭の税をかける。黒山の賊の首領の張飛燕が投降し、平難中郎将に任じられる。3月、崔烈が買官によって司徒に、5月、張延が大尉に、9月、楊賜が司空になる。楊賜が死去すると、許相が司空になる。劉陶は、天下混乱の原因は宦官にあると上言したために、獄死する。陳耽も宦官に陥れられて獄死する。張温は辺章、韓遂を討伐するが、苦戦に陥り、11月、董卓らが辺章、韓遂らを打ち破る。
186年 劉備は、芙蓉姫と恋に落ちる。関羽が劉備に天下泰平のために立ち上がった道義を説き、劉備は芙蓉姫と別れを告げ、公孫サンを頼る。 2月、江夏の兵士の趙慈が反乱をおこし、南陽太守の秦頡を殺す。6月に趙慈は敗死する。張温が長安にいたまま大尉に任じられる。霊帝は玉堂殿を造り、銅人・黄鐘・天禄・蝦蟇などを鋳る。12月、鮮卑が幽州、并州に侵攻する。
187年 4月、涼州の韓遂が馬騰と組んで涼州を統一。第二次討伐軍大敗する。7月、零陵、桂陽にて反乱、朝廷は孫堅を討伐軍に任命する。孫堅、見事反乱を平定し、長沙太守三郡を任される。 韓遂が辺章らを殺し、隴西を包囲する。4月、六郡の兵をひきいて韓遂の討伐にむかった耿ヒが敗れ、韓遂は漢陽を包囲。漢陽太守の傅燮が陣没する。馬騰も反乱に加わり、王国を首領におしたて、三輔の地を攻略する。4月、崔烈が大尉に、5月、許相が司徒に、丁宮が司空になる。6月、張純が張挙や烏丸大人の丘力居らと結んで薊中の地を攻略、右北平太守の劉政、遼東太守の陽終、護烏丸校尉の公基稠らを殺し、張挙は天子を称する。10月、長沙の区星の蜂起に対し、孫堅を長沙太守に任じて、これを平定させる。11月、曹嵩が大尉となる。陳寔が死去、会葬者が三万人にのぼる。
188年 劉備、関羽、張飛ら放浪を続ける。 2月、黄巾の余党の郭大らが河西の白波谷で蜂起し、太原・河東を攻める。3月、屠各胡が并州刺史の張懿を攻めて殺す。劉焉が刺史の支配力が弱っていることから、各地に牧を置くことを建議。劉焉を益州牧、黄エンを豫州牧、劉虞を幽州牧に任じる。5月、樊陵が大尉となる。6月、馬相、趙祇らが緜竹で蜂起し、刺史のチ倹を殺して天子を称する。賈龍がこれを攻め破り、劉焉を益州に迎え入れる。7月、馬日テイが大尉となる。8月、西園八校尉を置き、蹇碩・袁紹・鮑鴻・曹操・趙融・馮芳・夏牟・淳于瓊が校尉に任じられる。9月、丁宮が司徒に、劉弘が司空になる。11月、王国が陳倉を包囲、皇甫嵩、董卓らが四万の兵でこれと対抗する。張純と丘力居が青・徐・幽・冀の四州で略奪をはたらく。公孫サンがこれを討伐する。
189年 4月、霊帝が崩御、何氏の企みで幼い劉弁が皇帝に選ばれ少帝となる。大将軍何進、荀攸らを召す。 8月、何進、中常侍殺害を企てるが、逆に張譲に討たれ、袁紹、宮中禁裏に兵を入れ、中常侍を次々に殺害する。生前の何進勅令にて董卓らが洛陽に集結、少帝と陳留王を擁護し権威誇示。董卓、自ら相国を名乗り、少帝廃止を公表。廬植・丁原らが反対し対立する。呂布、義父の丁原を殺害し董卓に降る。 9月、董卓、少帝を廃し陳留王劉協を皇帝に即位、献帝となる。荀彧が宮中参内する。 12月、曹操が董卓暗殺を企てるが失敗し、陳留へ逃亡。兵5000を集め、夏侯一族を説得する。 2月、皇甫嵩が陳倉で王国を破る。4月、劉虞が大尉となる。同月に霊帝が年三十四で崩御する。少帝劉弁が即位、光熹と改元する。大将軍の何進が実権を握り、蹇碩を誅殺、さらに董重・董太后に迫って自殺させる。8月、宦官の張譲ら、宮中において何進を斬る。袁紹は宮中に兵を入れて宦官を皆殺しにする。少帝と陳留王は宮外に脱出、少帝は都につれもどされて董卓の支配下に入る。昭寧と改元を行う。董卓はみずから司空となる。9月、董卓は少帝を廃し、陳留王劉協を帝位につけ献帝となる。永漢と改元する。董卓はみずから大尉となり、楊彪が司空に、黄エンが司徒となる。11月、董卓はみずから相国となる。12月、黄エンが大尉に、楊彪が司徒に、荀爽が司空になる。董卓に反対して、袁紹、盧植、袁術、曹操らが都を離れ、それぞれの根拠地に戻る。
190年 1月、袁紹、曹操、韓馥、孔チュウ、張超、孫堅、王匡、張バク、公孫サン、袁術、袁遺、劉岱ら、反董卓連合を結成。袁紹が盟主となる。先鋒の王匡軍、董卓軍に大敗する。劉備の義弟関羽、華雄を討ち取る。呂布と劉備、関羽、張飛が一騎打ちを演じる。 2月、廃帝劉弁、董卓に殺害される。董卓、洛陽から長安へ遷都、400年歴史を燃やす。曹操、関中攻略を進言するが袁紹に聞き入れられず単独行動し、徐栄軍に大敗し壊滅状態となる。荀攸、董卓暗殺計画を実行するが失敗し、投獄される。 正月、関東の諸州郡は董卓討伐の兵を挙げ、袁紹がその盟主となる。王匡、韓馥、孔チュウ、劉岱、張バク、張超、橋瑁、鮑信、袁遺、曹操、袁術らが加わる。しかし内部不一致から、酸棗に集結した諸軍もやがて解散する。董卓は李儒に命じて先帝劉弁を毒殺させる。2月、趙謙が大尉に、王允が司徒になる。董卓は洛陽から長安への遷都を強行する。荊州刺史の劉表は、襄陽に役所を置き、カイ良らの支持をえて、勢力を蓄える。6月、チュウ払が司空になる。董卓は、五銖銭を廃して小銭を鋳る。インフレが進行する。 遼東太守の公孫度は、襄平に到着すると、みずから遼東侯・平州牧を号する。 孫堅が荊州刺史の王叡、南陽太守の張咨を殺す。
191年 2月、孫堅、袁術と南陽会見にて友好条約を結ぶ。荊州より董卓軍に侵攻、しかし、袁紹からの兵糧が届かず洛陽へ無念の撤退。運良く、廃墟の洛陽で玉璽を手に入れる。 4月、曹操・孫堅らが帰国により、反董卓連合軍は解散。袁紹、韓馥を陥れ冀州を掌握。韓馥は自殺、公孫サンと対立する。 10月、荀彧、袁紹から見切りをつけ曹操を尋ねる。曹操より「我が子房」と賞され軍事司馬となる。孫堅、袁術の命にて劉表討伐を起こす。黄祖の策にはまり戦死する。 2月、董卓はみずから太師となる。孫堅は、董卓・呂布軍を破り、洛陽に入る。7月、淳于嘉が司空に、馬日テイが大尉になる。袁紹が韓馥から冀州牧の地位を詐取する。袁紹は曹操を東郡太守に任じる。 公孫サンと袁紹が争う。袁術は公孫サンと、劉表は袁紹と結ぶ。 袁術は孫堅をおくって劉表を討伐させ、劉表は黄祖をおくって孫堅をはばむ。孫堅は黄祖を追討する間に戦死する。洛陽を守っていた朱儁が荊州に出奔する。
192年 3月、袁紹、公孫サンと界橋にて戦う。劉備・趙雲が運命の出会いを果たす。 4月、王允、呂布・子孫瑞・李粛・高順・張遼らを説得し董卓を暗殺する。牛輔が董卓中央軍を率いて呂布と争うが、殺害される。牛輔の配下、李カク・郭汜らが賈クの策略で長安を占拠。呂布軍、王方・樊稠・李蒙・賈クらに敗れ、弘農を占拠される。呂布は逃亡、王允は処刑される。荀攸、投獄から開放される 1月、董卓の軍が中牟で朱儁を破り、陳留・頴川で略奪をはたらく。袁紹が界橋で公孫サンを破る。4月、王允と呂布が董卓を誅殺する。王允は蔡ユウを獄に下して殺す。青州の黄巾がエン州に侵攻、刺史の劉岱がこれと戦って敗死、曹操が迎えられてエン州刺史となる。曹操は黄巾の降兵を青州兵とし組織する。 6月、董卓の残党、李カク、郭シらが長安に攻めこみ、李カクは王允を殺す。呂布は逃れて南陽の袁術をたより、さらに袁紹のもとにゆく。趙謙が司徒になる。8月、皇甫嵩が大尉に、9月、淳于嘉が司徒に、楊彪が司空になる。10月、劉表が荊州牧に任じられる。12月、周忠が大尉になる。
193年 3月、曹操、黄巾残党討伐に成功し、エン州・青州の牧となる。公孫サンが劉虞を破り幽州を掌握。北方、華北で曹操・袁紹・公孫サンらの対立が激しくなる。 1月、曹操に破られた袁術は寿春に入る。3月、袁術は揚州刺史の陳温を殺し、淮南を占拠する。陶謙が徐州牧に、趙イクが広陵太守に、王朗が会稽太守になる。6月、朱儁が大尉となる。 父の曹嵩を陶謙の部将に殺された曹操は、陶謙を打ち破り、虐殺を行う。10月、趙温が司空になる。公孫サンが幽州牧の劉虞を打ち破り、斬刑に処する。12月、張喜が司空になる。
194年 8月、陶謙が劉備を迎え豫州の牧に任命する。曹操、父・曹嵩が陶謙の兵に殺害され徐州へ攻め込む。留守のエン州を配下の陳宮に裏切られ、呂布に占拠される。夏侯惇が青州で呂布の侵攻を抑え、曹操、徐州から急いで帰国。曹操軍、濮陽にて呂布軍と激突し、両軍睨みあう。 12月、徐州の陶謙が病死し、劉備が後を継ぎ徐州牧となる。孫策、袁術より玉璽と引き換えに、兵1000を借りる。孫策・周瑜ら、長江より横江を攻略し、秣陵を掌握する。 1月、興平と改元する。劉備は陶謙のもとに身を寄せ、陶謙は上表して劉備を豫州刺史に任じる。7月、楊彪が大尉に、12月、趙温が司徒となる。 曹操と呂布が濮陽で対峙し、決着のつかぬまま兵をひく。劉焉が死に、息子の劉璋が益州牧となる。陶謙が病死し、劉備が徐州を領有する。孫策が揚州刺史の劉ヨウを破り、江東の地に勢力を伸ばす。
195年 1月、李カク・郭汜ら、献帝を奪い合い争うようになり、張済が仲をもって和睦する。しかし、献帝は長安を脱出し楊奉が擁護する。 3月、楊奉が韓暹を引き入れて、李カク・郭汜らと弘農で争うが大敗する。献帝は楊奉と北方へ逃亡する。袁紹の郭図、献帝を迎えようとするが断られ失敗に終わる。 8月、曹操、濮陽付近鉅野にて、呂布軍を三度に渡り破る。エン州にて大飢饉が起こり、すかさず定陶を占拠してエン州を奪い返す。呂布敗退し徐州へ劉備を頼る。 12月、袁術、漢の衰退を機会とし、帝位を画策する。孫策、寿春の劉ヨウを攻め、太史慈を帰順させる。周瑜の策により張英を討ち、寿春を占拠する。劉ヨウは会稽郡へ逃亡する。 1月、曹操は呂布を定陶で破り、エン州を手中に収める。呂布は劉備のもとに身を寄せる。3月、李カクが献帝を武力で自分の軍営につれこむ。朱儁が憤死する。献帝はこれ以降、関中の各地を転々とする。4月、伏氏を皇后に立てる。朱治が太守の許貢を追い払って、呉郡を乗っ取る。袁紹は臧洪を攻めて殺し、また公孫サンを鮑丘で破る。10月、曹操はエン州牧となる。
196年 1月、劉備、袁術討伐に向かうが敗れる。その隙を狙われ徐州を呂布に乗っ取られる。 7月、楊奉、イナゴの災害により食料がないため、献帝を廃墟の洛陽へ送る。荀彧、献帝を迎えるよう曹操を説得し韓暹を蹴散らして洛陽を掌握。董承、献帝に許都へ遷都するよう勧め、曹操は献帝を擁護し大将軍に任命される。 10月、楊奉、曹操に攻められ敗退し袁術を頼る。韓浩、許都にて曹操に進言し屯田制を実施する。劉備、曹操を頼り豫州牧に改めて任命される。孫策、会稽の王朗を降伏させ、江東を制覇する。小覇王の始まり。 1月、建安と改元する。 袁術と劉備とが徐州を争い、劉備が敗れると、呂布が徐州牧を称する。7月、献帝が洛陽に入る。8月、曹操は兵をひきいて洛陽に入り、献帝を許昌に移す。10月、曹操はみずから司空となり、荀彧を侍中に、荀攸を軍師に、郭嘉を司空祭酒に任じる。棗祇の献策をうけ、曹操は屯田をはじめる。呂布に敗れた劉備が曹操のもとに身を寄せ、曹操は劉備を冀州牧に任じる。 孫策は会稽太守の王朗を討伐し、会稽を手中にし、会稽太守を称する。
197年 1月、曹操、宛の張繍を攻め降伏させるが裏切られ、賈クの策で曹昴・典韋らを失う。曹操軍を追って進撃した張繍だが、荀彧・程昱の策で返り討ちに遭う。袁術、帝位につく。これにより呂布との同盟が破談、孫策は関係を断絶する。 9月、曹操、袁術を淮水の戦いにて破る。袁術の将、李豊・楽就らが戦死。曹操、長安の李カク・郭汜らを攻略し討ち取り長安を占拠する。 1月、曹操は張繍と戦い、手ひどい損害を受ける。 春、袁術は寿春にあって皇帝を名乗る。9月、曹操が袁術を討伐し、袁術は逃亡する。
198年 7月、呂布と袁術が再び同盟し劉備を攻める。劉備軍、夏侯惇が救援に駆けつけるが敗退する。 10月、曹操、呂布討伐軍を編成し、呂布軍を下ヒ城まで追い詰める。籠城の呂布軍に対し、荀攸・郭嘉らの策で水攻めを敢行する。 12月、呂布の将、魏続・侯成・宋憲らが陳宮を捕獲し降伏する。呂布軍、脱出を試みるが大軍に囲まれて降伏。呂布・高順・陳宮ら処刑される。張遼、関羽の計らいで曹操配下となる。奇才禰衡、江夏の黄祖に殺される。 呂布は部将の高順をやって劉備を破り、9月、沛城を失った劉備は単身で逃亡する。12月、曹操は呂布を攻め、生けどり処刑する。曹操は、上表して孫策を討逆将軍に任じ、呉侯に封じる。この当時、禰衡が黄祖に殺される。
199年 3月、袁紹が公孫サンを易京で滅ぼし幽州を掌握する。 4月、董承、献帝より密命を受け曹操暗殺計画を企て、劉備・王子服・馬騰らが血判状に名を連ねる。 6月、袁術が袁紹の長男袁譚を頼り北方へ向かうが、曹操の命で劉備・朱霊らが迎撃する。劉備、袁術を滅ぼし徐州へ滞在、朱霊軍は玉璽を持って帰国する。劉備、徐州の車冑を殺害して再び徐州を占拠し、曹操を裏切る。 11月、張繍、賈クの進言により曹操に降伏し侯となる。孫策・周瑜らは袁術の敗軍兵を滅ぼし、廬江を掌握する。二喬を娶る。 3月、公孫サンは、易京において袁紹に敗れ、自殺する。6月、袁術は、皇帝を称したが、孤立無援の中で憤死する。袁紹が兵を進めて許昌を襲撃しようとし、それに対抗して曹操が官渡を固める。12月、孫策は黄祖を破る。劉備は、曹操のもとを離れて小沛で独立し、袁紹と結ぶ。
200年 1月、董承の曹操暗殺計画が露見され、董承ら一族全員が処刑される。曹操、郭嘉の助言で徐州の劉備を攻め、撃破する。劉備は袁紹を頼り北方へ、関羽は三つの条件の下で曹操の軍門に降る。 4月、曹操、白馬にて袁紹軍の顔良・郭図・劉延らと対峙する。荀攸の策にて、張遼・関羽を動かし顔良を討ち取る。第二陣の文醜・劉備らも、荀攸の策にて文醜を討ち取る。 6月、孫策、三人の刺客に襲われ重傷を負う。その後、于吉仙人の呪いで憤死する。孫策、孫権に後を継がせ「外事には周瑜・内事には張昭」の遺言を残し没する。 7月、関羽、劉備の生存を知り、五関の六将を斬って劉備と再開する。劉備、袁紹から汝南に派遣され張飛・趙雲らと合流する。 10月、曹操、郭嘉の進言で烏巣の淳于瓊を破り大勝利を収める。袁紹軍先鋒の張儁乂・高覧らが曹操に寝返り、袁紹軍は歴史を揺るがす敗退となる。(官渡の戦い) 曹操は劉備を討伐して下ヒを落とし、関羽を虜にする。劉備は袁紹のもとに身を寄せる。やがて劉備は、袁紹のもとを離れ、汝南へ行く。4月、孫策が舟徒において刺客のために殺される。後事を弟の孫権に託す。曹操は、上表して、孫権を討虜将軍に任じる。10月、袁紹の軍は、曹操の攻撃を受けて壊滅する。この年、鄭玄が死去する。
201年 1月、袁紹と袁譚、濮陽へ退却し田豊を処刑する。曹操、曹純・曹洪・楽進・李典らに命じて倉亭を攻略し戦局は一変して袁紹軍は総崩れとなる。 9月、曹操軍の曹仁、汝南の劉備を自ら攻め、劉辟らを討ち勝利する。劉備、今度は荊州の劉表を頼る。曹操軍の高覧、戦死する 曹操は汝南の劉備を攻め、敗れた劉備は劉表のもとに身を寄せる。
202年 5月、袁紹、病死する。三男の袁尚が後を継ぐが、長男の袁譚が対立する。 5月、袁紹が死去する。曹操はその息子の袁譚と袁尚を攻める。 于テン国から象が献上される。
203年 3月、曹操、濮陽を攻略し占拠する。袁譚と袁尚は冀州へ逃亡。 8月、袁譚と袁尚、政権争いで分裂し、袁譚は平原へ追われる。袁譚、曹操へ降伏。辛ピョウが使者となり侯を受け賜る。 袁譚と袁尚が仲違いをし、互いに攻撃しあう。袁譚は曹操の援助を求める。8月、曹操は劉表を攻め、西平まで軍を進める。孫権は黄祖を討伐し、その帰途、豫章郡を平定する。
204年 2月、袁尚が平原の袁譚を攻める。その隙をうかがい、曹操軍は袁尚の主城ギョウを攻略する。 8月、袁尚、降伏を申し出るが曹操はこれを拒否。袁尚は南皮へ逃亡する。ギョウ城守将の名将審配、城内兵の安全を交渉し降伏。審配は忠義を貫き処刑される。曹操、絶世の美女甄氏を保護し許都へ送る 8月、曹操は袁尚を破り、冀州を平定する。公孫度が死去し、息子の公孫康が後を継ぐ。
205年 1月、曹操軍の曹純・荀攸、反乱した袁譚を破り討ち取る。袁煕の配下、張南らが裏切り袁煕・袁尚らは遼東へ逃亡。 4月、黒山賊の張燕が曹操に降伏する。 1月、曹操は袁譚を青州で破って、これを斬り、河北の袁氏のすべてを手中に収め、その地の名士たち、陳琳、阮ウらを配下におさめる。4月、黒山賊の張燕らが曹操に降服する。 荀悦が「申鑒」五篇を奏上する。
206年 4月、曹仁、ヘイ州で反乱を起こした高幹を攻め平定する。 8月、楽進・李典らが北方東海の海賊を平定する。 3月、曹操は高幹を破り、并州を平定する。済北・北海・阜陵・下ヒ・常山・甘陵・済陰・平原の八国が廃止される。
207年 2月、曹操、ギョウへ一時凱旋帰国する。曹操、荊州の劉備を気にするが郭嘉の進言により再び北方遠征へ向かう。劉備、古城新野を主城とする。 7月、郭嘉、北方遠征中に遼東付近の柳城にて病死する。劉備、司馬徽に出会い臥龍と鳳雛の存在を知る。徐庶が劉備の軍師として迎えられる。 8月、曹操軍、烏丸の白狼山にて、張遼が先鋒となり袁尚・袁煕を撃破。遼東の公孫康、曹操を恐れて袁尚と袁煕を殺害し降伏する。 9月、曹操軍、北方を完全平定し凱旋帰国する。 10月、宛の曹仁、新野の劉備を攻めるが敗れる。徐庶の策により趙雲に宛を占拠するが、すぐ放棄する。徐庶、曹操の偽手紙により劉備を離れ曹操の元へ行く。 12月、劉備、三顧の礼で諸葛亮を軍師に迎える。天下三分の計を説く。 8月、曹操は、烏丸討伐のために柳城へ兵を進め、白狼山において勝利を収め、トウ頓を斬る。郭嘉が死去する。9月、公孫康が袁尚、袁煕の首を斬って、曹操に差し出す。 劉備は、襄陽の隆中に諸葛亮をたずねて、彼を軍師に加える。 長く南匈奴にとらわれていた蔡文姫が中原にもどってくる。
208年 6月、献帝、曹操を丞相に任命する。 7月、夏侯惇、新野の劉備を攻めるが博望波にて火計にはまり大敗退する。 8月、劉表が病死し、蔡瑁が実権を握って次男の劉琮が荊州牧となる。曹操、自ら本隊を連れ荊州征伐を行う。 9月、曹操軍先鋒の許チョ、新野を占拠。劉備軍、民を連れて江陵を目指す。張飛が長坂橋にて曹操軍を一喝する。趙雲、長坂にて阿斗を抱き一騎で、曹操軍の中央を突破する。曹純率いる虎豹騎に敗れた劉備軍、進路を変え江夏へ入城。曹操、荊州を掌握し蔡瑁・張允らを水軍都督に任命する。 10月、諸葛亮、魯粛と共に孫権を説き伏せる為、単独で呉へ向かう。周瑜・孫権らを説得し、曹操と対立することを決意する。 12月、曹操軍、赤壁にて劉備・孫権連合軍に歴史的大敗退を喫する。(赤壁の戦い)曹操、華容道から無事退却し許昌へ帰国する。周瑜、江陵の曹仁を攻めるが、劉備軍の趙雲に先手を取られ占拠される。 孫権は、黄祖を破ってその首を斬る。6月、三公の制度をやめ、丞相と御史大夫との官を復活し、曹操みずからが丞相となる。8月、孔融が曹操の意に逆らって死刑に処せられる。曹操は、7月に軍をおこして南征し、劉表を攻めていたが、8月、劉表が死亡すると、その息子の劉琦と劉琮とが反目し、劉琮は荊州を挙げて曹操に降る。 劉備は、荊州より逃亡し、当陽の長阪で敗北を喫しながらも、夏口にたどり着く。そこで呉の使者の魯粛と会い、呉と協力関係を結ぶ。劉備の使者として諸葛亮が柴桑におもむき、孫権と会見する。 曹操は呉に書簡を送って降服をすすめる。張昭らが曹操への帰順を主張するが、孫権は、魯粛、周瑜らの意見を用いて抗戦を決意する。 周瑜は赤壁において曹操の軍を破る。曹操は、江陵・襄陽に兵を留めて北へもどる。周瑜、程普らが、江陵を守る魏の曹仁を攻める。 12月、孫権はみずから合肥を包囲し、張昭には九江の当塗を攻撃させたが、戦果なく膠着する。
209年 1月、劉備、荊州を一時呉からの借地として預かることで交渉する。 9月、周瑜、南郡を攻略し曹仁を敗走させる。 10月、劉備、伊籍の推挙で馬良・馬謖を陣営に加え、荊州南部の桂陽、零陵、武陵、長沙を制圧し荊州全土掌握となる。黄忠・魏延らが配下となる。 12月、劉備が孫権の妹君孫夫人と政略結婚、更に荊州牧として正式に認可される。 孫権は合肥から軍を引く。7月、曹操が笏坡に屯田を開き、張遼に合肥の守備を命じる。 曹仁は、周瑜の包囲を打ち破れず、南郡を放棄して逃亡する。かわって周瑜が南郡太守となる。孫権は、妹を劉備の妻とする。
210年 3月、周瑜、益州攻略を目論み荊州を奪取する計画途中に病死する。魯粛が周瑜の跡を継ぎ大都督となる。 11月、鳳雛のホウ統、劉備の副軍師となる。曹操、銅雀台を築く。虎豹騎の曹純が病死する。 春、曹操は令を出し、人物任用にあたっては才能のみを重視することを宣言する。曹操はギョウに銅雀台を築く。 劉備は京におもむいて孫権と会見し、荊州の借用を申し出る。周瑜は、蜀の経略をもくろむが、その準備中に死去する。孫権は、歩隲を交州刺史に任じる。士燮兄弟が呉の支配を受け入れ、呉に属すことになる。
211年 1月、五斗米道の張魯が漢中を占拠する。馬騰、曹操の勅令に反感し暗殺を企てるが逆に討ち取られる。 3月、馬騰の長男馬超が激怒して韓遂軍と連合し長安に攻め込み占拠する。 7月、曹操軍の先鋒・曹洪と徐晃が援軍に向かうホウ徳に敗れる。馬超、許チョと名勝負を演じ名を天下に知らしめる。 12月、曹操、賈クの離間の策にて渭水で馬超と韓遂の仲を裂く。韓遂は曹操に投降する。夏侯淵、長安を任され西涼を掌握し、馬超一族を処刑する。 1月、曹丕が五官中郎将となり、その下に官職が置かれる。3月、曹操は鍾ヨウを張魯討伐に向かわせる。馬超、韓遂らは潼関を固めて曹操の軍の関中進出に抵抗する。曹操はみずから韓遂らを討ち、9月、関中の地が平定される。 劉璋は、法正の意見をいれて、劉備を益州に迎え入れる。
212年 6月、曹操が帝位への画策を目論む。それに対し荀彧、曹操に忠節と徳義を語り曹操との間に溝ができる。 10月、曹操、孫権討伐軍を起こす。荀彧が曹操より「空の器」を賜れ自殺する。 孫権は、石頭城を築き、その役所を秣陵に移し、秣陵を建業と改名する。10月、曹操は孫権討伐の兵をおこし、濡須へ軍を進める。 荀彧は、曹操の帝位簒奪の野望を阻止しようとするが、結局、寿春で服毒自殺をする。 劉備は劉璋に対して軍事行動をおこす。
213年 1月、曹操、濡須口にて孫権と対峙する。一進一退の攻防が続き無益な消耗を防ぐため、孫権が毎年貢物を贈るという形で和睦。 5月、献帝、曹操を魏公に封じようとするが、曹操はこれを辞退する 1月、曹操は濡須から兵を引く。天下十四州を合併して九州(豫・冀・エン・徐・青・荊・楊・益・雍)とする。5月、曹操は魏公となり、九錫を受ける。9月、馬超は、冀城を占領したが、まもなく楊阜らに破られて、張魯のもとに身を寄せる。11月、魏国は尚書・侍中・六卿の組織をととのえ、荀攸を尚書令に任じる。
214年 3月、再三に渡る馬超の反撃に夏侯淵が抑え、曹操より賞賛を浴びる。 7月、曹操、第二次孫権討伐軍を起こす。荀攸が病死する。討伐は長く続かず、すぐにまた和睦。 11月、献帝皇后伏氏、董承一族の恨みで曹操暗殺を企むが露見され、皇后含む一族が全員処刑される。 春、夏侯淵は、略陽で韓遂を破る。 諸葛亮は、関羽を荊州に留めると、張飛、趙雲とともに蜀に入り、劉備の軍の増援をなす。劉備は、ラク城の包囲戦中にホウ統を戦死させたが、やっとのことでラク城を落として、つづいて成都を包囲する。5月、劉璋が劉備に降服する。劉備は益州牧の職務にあたり、諸葛亮は軍師将軍となる。7月、魏の尚書令荀攸が死去する。11月、曹操は、献帝の伏皇后を幽殺し、二人の息子を毒殺する。
215年 2月、劉璋、漢中の張魯の侵攻を恐れ張松を使者として曹操に赴く。張松、曹操を侮辱し百叩きの刑に処せられる。 3月、張松、すぐ帰国せずに荊州の劉備へ赴く。劉備、巴西蜀の地図を手に入れる。 5月、劉璋、重臣の反対を押し切って劉備に援軍要請を求める。王累が憤死する。劉備軍、ホウ統を中心に魏延・法正らで劉璋の暗殺を目論む。張松、劉璋を裏切った書簡が見つかり処刑され、これによって劉璋と劉備が敵対する。 6月、ホウ統、張任と交戦し落鳳破にて戦死する。更に劉備軍、張任の策で総崩れとなり敗退。諸葛亮、張飛を援軍として送り劉備を救う。李厳・呉懿・厳顔を加える。 7月、諸葛亮、名将張任を捕獲する。張任は忠義を貫き処刑される。劉璋、益州の半分を譲渡する申し出で漢中の張魯に援軍を求める。これに応じ客将馬超を援軍として劉備軍と対峙する。馬超、李恢の説得に応じ劉備の陣営に加わり、劉璋を降伏させる。劉備、蜀・益州を掌握する。 10月、曹操、漢中の張魯討伐軍を編成する。陽平関を落として張衛を討ち取る。張魯、客将ホウ徳らが曹操軍と対峙するが、ホウ徳、曹操の軍門に降る。これにより張魯は降伏し曹操は漢中を掌握。張魯、侯に封じられる。 11月、孫権、第三次合肥侵攻を行い合肥城を包囲する。合肥城主張遼、李典・楽進らで挟撃し孫権を敗退させる。曹操、漢中に夏侯淵・張儁乂らを残し、急いで許昌へ帰国。 1月、曹操の娘の曹氏が皇后に立てられる。3月、曹操は、張魯討伐の兵を動かす。河池まで軍を進めて竇茂を滅ぼす。西平・金城の部将たちが、韓遂を殺して曹操に降る。7月、張魯は、曹操の軍を避けて巴中へ逃げる。8月、孫権は十万の兵で合肥を包囲する。その撤退に際し、張遼の急襲を受け、孫権は危うく難を逃れる。10月、魏は、軍功を賞するため、号名爵十八級を置く。11月、張魯が曹操に降る。 孫権は劉備に荊州返還を要求する。劉備がそれを拒否すると、呂蒙、魯粛らの軍を荊州に派遣する。曹操が漢中に進出してきたことから、劉備は孫権に和を請う。孫権と劉備が荊州を二分して支配することになる。
216年 5月、献帝、曹操を魏王に取り立てる。 8月、曹操、鍾ヨウを相国とする。 5月、曹操が魏王となり、8月、鍾ヨウが魏の相国となる。曹操が中尉の崔エンを殺す。匈奴南単于の呼廚泉が魏に来朝する。呼廚泉はそのままギョウに留められる。
217年 2月、曹操、呉を警戒するため居巣で張遼・曹仁らの軍を置く。 12月、劉備、張飛・馬超・呉蘭らを編成して下弁を占拠。曹操軍の曹洪・曹休らが防戦する。 曹操が左慈の妖術に悩まされる。占術師の管輅の予言をうける。 2月、曹操は、孫権討伐のために濡須まで軍を進めたが、3月、夏侯惇、曹仁、張遼らを居巣に留めて、軍を引く。孫権は使者を送って、曹操のさしずを受けることを申し入れる。 曹丕が魏国の太子となる。 劉備は張飛などを派遣して漢中に軍を進める。曹操は曹洪を派遣してこれを対抗させる。この当時、はやり病があり、王粲、劉楨、徐幹らが死去する。
218年 1月、呉の柱石である魯粛が病死し呂蒙が跡を継ぐ。許都にて、耿紀・韋晃・金イらが反乱を起こす。騒ぎに駆けつけた夏侯惇が反乱軍を平定し、その一族全員を処刑する。 9月、曹操、劉備討伐軍を編成し長安へ入る。 1月、耿紀、韋晃らが許昌においてクーデターをおこし、曹操を誅殺しようとするが、失敗に終わる。呉の魯粛が死去する。3月、曹洪が呉蘭を打ち破り、張飛、馬超は逃亡する。4月、代郡・上谷の烏丸や異民族らが反乱をおこし、曹操は息子の曹彰にその討伐を命じる。曹洪は代郡の烏丸を討伐して勝利し、鮮卑の大人軻比能が投降、北方が安定する。 劉備は陽平関において夏侯淵、張コウ、徐晃らと対峙する。9月、曹操はみずから軍を率いて長安まで進出する。
219年 1月、黄忠・法正、定軍山の夏侯淵を討ち取り張儁乂を敗走させる。(定軍山の戦い)劉備、漢中を掌握する。 3月、曹操、陽平関にて劉備と対峙する。諸葛亮の策によって、曹操軍は赤壁以来となる被害を被る。曹操、「鶏肋事件」で楊修を処刑する。 6月、劉備、漢中王を名乗り後ほど正式に献帝より印綬を渡される。劉備、五虎大将軍に関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超を選ぶ。劉備、魏延を漢中太守に任命する。荊州の関羽、宛の曹仁を攻め大勝利を納める。 7月、曹操、宛の曹仁の救援として于禁・ホウ徳を派遣する。 8月、関羽、漢水の水攻めで大勝利を収める。于禁、投獄される。鳳徳、忠義を貫き処刑される。 10月、孫権、曹操と不可侵条約を結ぶ。司馬懿が曹操に進言し関羽討伐軍を起こす。 1月、曹仁が宛を攻め落として、侯音を斬る。 劉備は、定軍山に本拠を定め、夏侯淵を破る。曹操は斜谷まで兵を進めて劉備と対峙したが、やがて軍を引き、5月、劉備は漢中を確保する。7月、劉備はみずから漢中王を称し、劉禅を王太子に立てる。 関羽は、曹仁を樊城に攻め、于禁を捕虜とする。 魏諷がクーデターをはかり、曹丕に誅殺される。相国の鍾ヨウが連座して官を免ぜられる。 孫権は、関羽討伐の軍を動かし、呂蒙が関羽の根拠地の南郡を占領する。関羽の軍はばらばらになり、12月、関羽と関平は捕らわれて斬られる。 曹操は上表して、孫権を驃騎将軍に任じ、荊州牧の職務にあたらせる。
220年 1月、孫権、呂蒙に荊州奪還作戦を命じる。呂蒙、書生の陸遜を従軍する。虞翻、襄陽の傅士仁・糜芳らを説得しあっさり荊州城を占拠。関羽、宛の曹仁・荊州の呂蒙軍に挟まれ孤立し廃墟となった麦城へ逃げ込む。呂蒙、関羽親子を捕らえ処刑する。関羽の首を曹操に届ける。 2月、曹操、洛陽にて病に倒れ病死する。曹丕が跡を継ぎ魏王となる。 4月、呂蒙、原因不明の病に侵され病死する。夏侯惇、大将軍となるが間もなく病死する。 10月、曹丕、献帝の勅令によって禅譲され帝位に就く。ここに魏国を興し漢朝400年の歴史に幕を閉じる。都を洛陽とする。陳羣、九品官人法を制定する。 1月、曹操が洛陽において死去する。曹丕が魏王の位を継ぐ。延康と改元する。3月、賈クが大尉に、華キンが相国に、王朗が御史大夫になる。曹丕は弟の曹植を安郷侯におとし、曹植グループに属する丁儀一族を皆殺しにする。 陳羣が九品官人法を定める。7月、蜀の武将の孟達が魏に降り、魏は房陵・上庸・西城を手に入れる。10月、後漢の献帝は魏に禅位を行い、曹丕が帝位につき、黄初と改元する。11月、献帝は山陽公となる。12月、洛陽に宮殿をいとなみ、魏は洛陽に都を定める。
221年 4月、劉備、諸葛亮らの薦めで帝位に就き蜀漢を建国。諸葛亮が丞相になる。李厳がフウ陵・白帝城太守となる。 6月、劉備、関羽の仇を討つ為に呉へ出兵する。張飛、部下の范彊、張達に暴力を奮い、彼らに暗殺される。 12月、黄忠が呉軍へ奇襲の際に戦死する。 1月、魏は孔羨を宗聖侯に任じ、孔子の祀をつがわせる。4月、蜀の劉備が帝位につき、章武の年号を建てる。諸葛亮を丞相に、許靖を司徒に任じ、5月、呉氏を皇后に、劉禅を皇太子に立てる。6月、曹丕が甄夫人を殺す。7月、劉備は呉に向けておよそ六万の軍を動かす。その出発に際し、張飛が部下に殺される。8月、孫権は、魏に使者を送って臣と称し、于禁らを送り返す。魏は刑貞をつかわして、孫権を呉王に封じ、九錫を加える。呉は、鄂を武昌と改称し、武昌城を築く。11月、涼州刺史の張既が異民族の反乱を鎮め、河西の地を安定させる。
222年 7月、劉備、関興・張苞を従え六十三万の大軍を率い夷陵にて呉軍と激突する。(夷陵の戦い)呉、甘寧らが戦死するなど大きな被害を被り、和睦を求めるが拒否される。亡国を決意した孫権、総大将を陸遜に命じる。劉備軍、孫桓を包囲。その間、劉備本隊は陸遜を攻めるが、陸遜の火計に遭い敗退する。劉備、白帝城へ退却。馮習・沙摩柯らが戦死。逃げ場を失った黄権は魏へ降伏。 8月、孫権、魏の認可の下で呉王となる。 2月、蜀、西域より使者がやって来て、関係が復旧し、戊己校尉が置かれる。 劉備は、巫峡から夷道まで軍営をつらね、呉と対峙する。 閏6月、陸遜が蜀の軍を破り、劉備は白帝城に逃げ帰る。魏は、孫権に息子を人質として差し出すよう要求するが、孫権が応じないため、9月、魏は呉に兵を進める。10月、呉は黄武の年号を建てる。11月、呉と蜀との間の外交関係が修復される。馬超が病死する。
223年 4月、魏、曹休・曹真を派遣し呉の隙をうかがい濡須口より攻め入るが、朱桓・陸遜に敗れる。 6月、劉備、心痛で白帝城にて病死する。後事を諸葛亮に任せる。白帝城含む周辺の地名を「永安」と改州する。皇太子劉禅が跡を継ぎ即位する。 7月、諸葛亮、呉へ鄧芝を使者に送り再び同盟を結ぶ。 2月、呉の朱桓が曹仁の軍を濡須で破り、魏は兵を引く。4月、劉備が永安で逝去する。5月、後主劉禅が即位し、建興と改元する。諸葛亮が丞相として蜀の政治を執る。張氏を皇后に立てる。8月、魏は鍾ヨウを太尉に任じる。10月、蜀は鄧芝を使者として呉におくり、友好関係を固めさせる。
224年 8月、呉、第三次山越討伐軍を起こす。陸遜が総大将となる。全琮・徐盛らが活躍する。 4月、魏は太学を建て、五経による課式の法を定め、博士を置く。呉は、張温を使者として蜀におくり、公式の訪問をさせる。 曹丕は、呉の討伐の軍をおこし、9月、みずから広陵まで進む。呉の徐盛が疑城を築いて魏をおどろかせ、曹丕は軍を引く。 呉では曁艶が官吏の粛清をくわだてたが、反対派のために自殺においこまれて、まきぞえをくった張温も失脚する。
225年 1月、建寧にて孟獲の乱起こる。建寧太守王伉が孟獲軍を防ぐ。諸葛亮、南蛮討伐軍を編成し南下する。(孔明の南蛮行) 3月、蜀の馬岱が活躍し、孟獲の副将忙牙長を討つ。孟獲、阿会喃・董荼那の策にはまり捕獲されるが釈放される。 6月、孟獲、朶思大王を頼るが味方に裏切られ捕獲される。再び釈放。 9月、孟獲、猛獣を使って諸葛亮に挑むが策にはまり捕獲される。またしても釈放。 11月、諸葛亮、火攻めで兀突骨を破り孟獲を七度目の捕獲。孟獲、諸葛亮の配慮に心を打たれ心服する。 2月、魏の陳羣が鎮軍大将軍となり、また司馬懿は撫軍大将軍となって許昌の守りにあたる。3月、并州刺史の梁習が鮮卑の軻比能を破る。6月、呉は顧雍を丞相に任じる。 諸葛亮は、南中に軍を進め、孟獲を降し、テン池にまでいたる。益州・永昌・越スイなどが蜀の勢力下に入る。 曹丕はふたたび呉討伐の軍を動かし、10月、広陵までいたるが、戦果のないまま軍を引く。
226年 1月、諸葛亮、南蛮討伐より凱旋帰国する。馬超、後事を馬岱に託して病死する。 曹丕、病で逝去し曹叡が即位する。劉曄・司馬懿・陳羣らが補佐となる。投獄されていた曹洪が復帰する。 6月、司馬懿、西涼駐屯中に謀反の疑いをかけられ免職となる。 5月、魏の曹丕の病気が重態となり、曹真、陳羣、司馬懿に後事を託す。曹丕が逝去し、曹叡が帝位につく。8月、孫権は、魏の大喪に乗じて江夏郡を攻め取ろうとするが、太守の文聘は守りを固めてこれを撃退する。12月、魏は、鍾ヨウを太傅に、曹休を大司馬に、曹真を大将軍に、華キンを大尉に、王朗を司徒に、陳羣を司空に、司馬懿を驃騎大将軍に任じる。この当時、士燮が死去し、呉は南方の支配を強化する。
227年 8月、諸葛亮、劉禅に「出師の表」を捧げ北伐軍を起こす。先鋒の趙雲が夏侯楙を破る。魏の曹真、大都督となり蜀軍と対峙するが、魏延・関興・張苞らに大敗を喫する。諸葛亮、逸材の姜維を帰順させる。 3月、諸葛亮が漢中へ軍を進める。4月、魏では、経済的な混乱から、ふたたび五銖銭の使用が許可される。10月、焉キ王がその子を使者としてつかわし、魏に来朝する。
228年 2月、司馬懿が復権し蜀軍の兵糧道を馬謖軍から奪い街亭で勝利する。(街亭の戦い)これによって蜀軍は全軍撤退を余儀なくされる。諸葛亮、漢中にて右将軍に自ら降格し馬謖を処刑する。 6月、魏の曹休、呉を攻めるが降将・周鮑の羊降に騙され失態し敗北する。これが元で曹休は間もなく病死する。 9月、諸葛亮、第二次北伐を起こす。武都、陰平を攻略し曹真・郭淮を敗退させ王双を討つ。 1月、司馬懿は新城を攻め、蜀に内通しようとした孟達を斬る。諸葛亮が関中へ出て祁山まで兵を進め、天水・南安・安定の諸郡は魏に叛いて蜀につく。 馬謖が諸葛亮の指示を守らなかったため、蜀軍は街亭で敗れ、軍を引く。8月、呉の周魴が、いつわって魏に降服を申し入れて曹休をさそいこみ、陸遜が石亭で曹休を打ち破る。曹休は、賈逵の援護で生還する。12月、諸葛亮は、散関から兵を出して陳倉を包囲するが、兵糧がつきて兵を引く。この年、公孫淵が公孫恭から遼東太守の地位を奪い取る。
229年 7月、諸葛亮が丞相に復権し第三次北伐。武都にて郭淮軍を大敗させる。北伐中の蜀軍、劉禅の勅令により成都へ無念の帰国。趙雲が病死する。 9月、孫権、蜀の認可の下で帝位に就き呉を建国。ここにて三国鼎立となる。 春、諸葛亮は陳戒をおくって武都・陰平二郡を攻めさせ、みずからも建威に出て、二郡を平定する。4月、孫権はみずから皇帝の位につき、黄龍と改元する。孫登を太子に立てる。9月、孫権は建業に遷都をし、太子孫登と尚書の役所を武昌に留める。10月、魏では陳羣、劉劭らに命じ、漢の法律を簡約にした新律を制定させる。12月、大月氏王の波調から使者が来て、波調を親魏月氏王に任じる。
230年 8月、魏の司馬懿・曹真らが蜀を討伐するため大軍をもって攻めるが、大洪水を招く長雨と疫病が発生したため退却。そのまま魏延軍に追撃され敗退する。 春、孫権は、衛温と諸葛直とを夷州・亶州の探索に派遣する。夷州は発見されたが、亶州には行きつけず。2月、魏は、曹真を大司馬に、司馬懿を大将軍に、公孫淵を車騎将軍に任じる。4月、魏の太傅の鍾ヨウが死去する。 曹真と司馬懿が蜀に兵を進め、諸葛亮は成固の赤坂でこれに対峙する。9月、雨にたたれて、魏は軍を引く。
231年 4月、諸葛亮、第四次北伐。祁山にて木牛流馬を使い曹真を誘き寄せ撃退する。曹真、病死し後事に司馬懿が引き継ぐ。諸葛亮と司馬懿、初めて正面より対決する。張苞が破傷風で没する。 5月、蜀軍、李厳の兵糧輸送が難航し兵糧問題でやむなく撤退する。張儁乂が蜀軍の追撃中に戦死する。 6月、李厳が流罪に処せられ平民となる。 3月、魏の大司馬の曹真が死去し、12月、太尉の華キンが死去する。呉の潘濬、呂岱が異民族を討伐する。 諸葛亮が祁山を包囲し、木牛を用いて軍糧を運ぶ。司馬懿が長安にあって、蜀と対峙する。軍糧不足のため、諸葛亮は兵を引く。12月、呉は明年より夏禾と改元することを決める。
232年   1月、孫権の末息子の孫慮が死去し、太子の孫登が武昌から建業にうつる。孫権は、周賀、裴潜を使者として、海上から遼東におもむかせ、公孫淵から馬を求める。7月、魏は董昭を司徒に任じる。9月、魏は許昌に宮殿を営み、景福殿・承光殿を建てる。11月、魏の田豫は、成山においてその帰途を襲い、周賀を斬る。曹植が死去する
233年 10月、魏の公孫淵が孫権より燕王を認められ魏より反乱する。 1月、摩波の井中に青龍が出現、2月、魏の明帝曹叡はそれを見に行き、青龍と改元する。 公孫淵は、使者をおくって、呉に帰属したいと伝える。3月、呉は張弥、許晏らをおくって、公孫淵に九錫を授け、燕王に封じる。しかるに公孫淵は、呉の使者を斬り、その首を魏に送る。12月、魏は公孫淵を大司馬に任じ、楽浪公に封じる。この年、孫権は合肥新城を攻めようとするが、満寵のために敗れる。 鮮卑の軻比能と歩度根とは、しめしあわせて魏に背く。
234年 7月、諸葛亮が第五次北伐を行う。関興が出陣前日に病死する。蜀軍、司馬懿を誘い出し火計で破るが、九死に一生で司馬懿は助かり陣門を堅く閉じられる。 8月、蜀軍、五丈原にて魏と対峙する。諸葛亮、司馬懿に女性用の衣服を贈り挑発するが失敗。巨星・諸葛亮は陣中にて病死する。後事を楊儀に託す。 9月、楊儀、漢中へ撤退する。魏延が謀反を起こし漢中へ攻め上るが馬岱に討たれる。漢の最後の皇帝・献帝劉協、病死する。 10月、蜀、蒋エンが丞相、馬岱が大司馬となる。王平・呉懿・張翼・張嶷・馬忠・王伉・廖化らが忠義の士に奉られる。楊儀が自殺する。諸葛亮の死を嘆き李厳が病死する。 3月、後漢の献帝劉協が死去する。4月、諸葛亮は、十万の兵を率い、斜谷からから五丈原に出て、司馬懿と対峙する。5月、孫権が合肥新城に兵を進め、別働隊として陸遜、諸葛瑾らは襄陽へ兵を進める。7月、魏の曹叡がみずから東征すると、孫権は兵を引く。8月、諸葛亮が陣中で死去する。蜀軍中で楊儀と魏延が勢力を争い、混乱がおきる。
235年   1月、司馬懿が魏の太尉となる。蜀の楊儀は、魏延を殺したが権力を握れず、自殺をする。4月、蜀は、蒋エンを大将軍・録尚書事に、費イを尚書令に任じる。この年、幽州刺史の王雄が刺客をおくって軻比能を暗殺する。
236年   春、呉は大銭五百を鋳造する。3月、呉の張昭が死去する。4月、魏は崇文観を設置し、文章家たちを召し集める。7月、高句麗王の位宮が、呉の使者の胡衛らの首を幽州の役所に届ける。12月、魏の司空の陳羣が死去する。
237年 9月、公孫淵、呉の認可の下で燕を建国し魏から独立する。 3月、魏は景初と改元し、青龍五年3月を景初元年4月とする。また服色を黄色に定める。太和暦を景初暦と改める。6月、魏は、陳矯を司徒に、衛臻を司空に任じる。陳矯は7月に死去する。 魏の曹叡は毋丘倹をつかわして遼東の公孫淵を討たせるが、遼東の出水のため、兵を引く。公孫淵は自立して燕王を号し、紹漢という年号を立て、百官の制度を整える。9月、曹叡は、郭夫人を愛し、毛皇后を殺す。10月、魏は洛陽の南に円丘を作り、天を祀る場所とする。魏は長安の銅人などを洛陽に移す。
238年 1月、魏の司馬懿、公孫淵からの和睦を2度拒否し、夏侯覇らの活躍で公孫淵を滅ぼす。 魏は、司馬懿を遼東の討伐にむかわせる。公孫淵は呉に救援を求める。2月、魏は韓曁を司徒に任じる。韓曁は4月に死去する。 蜀は張氏を皇后に立て、劉センを皇太子に定める。呉は大銭当千を鋳造する。6月、司馬懿は遼東にいたり、公孫淵を襄平に包囲する。9月、呉は赤烏と改元する。このころ呉では孫権の信任をえた呂壱が権力をふるったが、やがて悪事が発覚して呂壱は誅殺される。孫権は呂壱を寵愛したことを自己批判し、部将たちに詫びる。8月、襄平は陥落し、公孫淵父子は梁水のほとりで斬られる。遼東・帯方・楽浪・玄トの四郡はみな魏に属する。11月、魏は、衛臻を司徒に、崔林を司空に任じる。12月、魏の曹叡の病気が重態になる。この年、倭の女王の卑弥呼が使者を魏におくってくる。魏は卑弥呼を親魏倭王に封じる。
239年 1月、魏帝曹叡が崩御し、幼い曹芳が三代目皇帝となる。後見人として、曹爽・司馬懿が補佐する。 2月、曹爽、幼帝曹芳に進言して司馬懿を太傅に昇格させる。司馬懿、位は上だが兵権を持たない文官職を賜る。 1月、魏の曹叡は、司馬懿に後事を託し逝去する。曹芳が即位する。曹爽と司馬懿がその後見にあたる。何晏、丁謐らが曹爽と結んで権力をふるう。2月、魏は司馬懿を太傅に、3月、満寵を太尉に任じる。蜀は蒋エンを大司馬に任じる。12月、呉の部将の廖式が反乱をおこし、零陵・桂陽などの郡を攻めて、騒動は交州の諸郡に及ぶ。呂岱がその討伐にあたる。この年、西域から火浣布が献上される。
240年 6月、蜀の姜維、北伐軍を起こし隴西にて魏の郭淮と対峙する。 蜀の張嶷が越スイ太守となり、その地の異民族の多年にわたる反乱を鎮める。
241年 1月、呉と蜀で共同作戦をたて魏を攻略する。呉の総大将に全琮、蜀は蒋エンとして攻めるが、司馬懿に抑えられる。 5月、呉、孫権の跡取りとして期待が高かった孫登が病死する。希望の大器と謳われただけに悲嘆に暮れる。 呉は、魏に対し各地で軍事行動をおこす。4月、全琮は淮南を攻略し、諸葛恪は六安を攻め、朱然は樊を包囲し、諸葛瑾は柤中を攻撃する。魏は、王陵、孫礼、胡質らを派遣し、呉の進出を防ぎ止めさせる。5月、呉の太子の孫登が死去する。6月、司馬懿が樊城の救援に向かい、呉の軍を追い払う。蜀の蒋エンは、水軍を漢水ぞいに進め、魏興・上庸の攻略をはかる。
242年   春、呉は孫和を太子に立てる。7月、魏は蒋済を太尉に任じる。呉は、聶友、陸凱をおくって、朱崖らを討伐させる。8月、呉は孫覇を魯王に立てる。
243年 4月、蜀の大将軍蒋エンが持病の悪化が原因で兵権を費文偉に跡を継がせる。 11月、呉の丞相顧雍が病死する。 1月、魏帝曹芳は元服の礼を行い、4月、甄氏を皇后に立てる。 蜀の蒋エンの病気が重態になり、11月、費イが大将軍・録尚書事に任じられる。呉の丞相の顧雍が死去する。12月、倭の女王卑弥呼の使者がふたたび魏をおとずれる。
244年 3月、魏の曹爽、重臣の反対を押し切って蜀討伐軍を編成し進攻する。これを費文偉が迎え、見事に撃退する。 1月、呉は陸遜を丞相に任じる。3月、魏の曹爽は大挙して関中から漢中に攻めこむ。閏3月、蜀は費イを救援のため漢中におくり、魏は大きな損害を受けて軍を引く。
245年 11月、呉、孫和と孫覇が後継者争いをし、孫権より追放される。孫和の弁護をした陸遜、流罪に処せられ憤死する。孫権は今後の争いを避けるため後継者に孫亮を指名する。その後、後継者争いを発端で派閥争い起こる。 1月、魏は、趙儼を司空に任じ、8月には高柔を司空に任じる。呉では、太子孫和と魯王孫覇との間の確執が激化し、その争いの中で張休が自殺を命じられ、陸遜は憂死する。 蜀では、蒋エン、董允が死去し、陳祇が侍中となる。宦官の黄皓が朝政に口を出すようになる。
246年 3月、魏の毋丘倹、高句麗を占拠する。蜀の蒋エンが病死する。 魏の幽州刺史毋丘倹は、高句麗王の位宮を討ち、その都の丸都を落とす。毋丘倹は、さらに玄苑太守の王キを追って、沃沮から粛慎氏の南界へまで軍を進める。9月、呉は、歩隲を丞相に、朱然を左大司馬に、全琮を右大司馬に任じる。また荊州を二つに分けて、呂岱、諸葛恪にその軍事をあずからせる。呉は大銭の使用をやめる。蜀は、姜維を衛将軍に任じ、費イとともに政治の枢にあたらせる。
247年 8月、蜀の姜維が隴西の郭淮・夏侯覇を攻める。しかし、食糧難に見舞われ無念の敗退となる。 1月、呉の全琮が死去し、5月、呉の丞相の歩隲が死去する。蜀の姜維が隴右に兵を進め、魏の郭淮、夏侯覇らと戦う。このころ、曹爽が何晏、鄧ヨウ、丁謐らと結んで魏の政治をもっぱらにし、制度の改革を盛んに行う。司馬懿は病気と称して政治に与らない。この年、康僧会が建業にやってくる。孫権は彼のために建初寺を建てる。
248年 2月、魏の郭淮が夏侯覇と連合策にて蜀の廖化を破る。蜀に協力していた羌族も撃破し降伏させる。8年間に渡る姜維の北伐作戦もここで終止符を打つ。 4月、魏は、高柔を司徒に、徐バクを司空に任じるが、徐バクは固辞する。9月、王凌を司空に任じる。蜀の鄧芝がフ陵属国での反乱を鎮圧する。九真の異民族が反乱を起こす。呉は陸胤をさしむけてこれを安撫させる。
249年 1月、魏、司馬懿が宮廷にてクーデターを起こして成功し曹爽一族を処刑する。 1月、魏では、司馬懿がクーデターをおこし、曹爽とその一味の何晏、鄧ヨウ、丁謐、畢軌、李勝、桓範、張当らを誅殺する。右将軍の夏侯覇は蜀へ亡命する。3月、呉の大司馬の朱然が死去する。4月、魏は嘉平と改元を行う。 秋、蜀の姜維が雍州に軍を進め、麹山に城を築くが、魏の郭淮らがこれを破る。12月、魏は、王凌を太尉に、孫礼を司空に任じる。
250年   秋、孫権は、太子の孫和を廃して庶人となし、孫覇には自殺を命じる。孫覇にくみした楊竺、全奇、呉安、孫奇らが誅殺される。11月、かわって孫亮を太子に立てる。魏は、呉の混乱に乗じて軍を進め、州泰、王基、王昶らが攻撃をかける。
251年 4月、魏の王凌、事実上独裁政権を握る司馬懿を討つ計画が露見し自害する。夏侯覇、司馬一族に反感を抱き反乱するが、郭淮軍に敗退し蜀へ亡命する。 8月、司馬懿、長男の司馬師に大将軍を任せ病死する。享年73歳。 2月、魏は、司馬孚を司空に、4月、王昶が征南大将軍に任じる。魏の太尉の王凌がクーデターをくわだてたとして、司馬懿は軍を動かして王凌を攻める。王凌は降服し、自殺する。5月、呉は潘夫人を皇后に立て、太元と改元する。7月、魏は司馬孚を太尉に任じる。司馬懿が死去する。息子の司馬師が撫軍大将軍・録尚書事に任じられる。 孫権の病気が重く、諸葛恪を召し寄せて、太子孫亮の後見を託す。12月、魏は鄭沖を司空に任じる。
252年 4月、呉の孫権が崩御し孫亮が皇帝となる。大将軍諸葛恪が補佐となる。 12月、魏の司馬師、王昶・胡遵・毋丘倹らに呉討伐軍を起こす。しかし、呉の諸葛恪・丁奉らの奇襲により失敗し大敗を喫する。 1月、司馬懿が大将軍になる。2月、魏は張氏を皇后に立てる。呉は神鳳と改元する。孫権の病気が危篤になり、諸葛恪、孫弘、滕胤、呂拠を召して、後事を託す。4月、孫権が逝去する。大皇帝とおくり名される。諸葛恪が孫弘を殺して実権を握る。太子の孫亮が即位し、建興と改元する。 閏4月、諸葛恪が太傅に、滕胤が衛将軍に、呂岱が大司馬になる。諸葛恪が呉の実権を握り、政治改革を行う。10月、諸葛恪は、東興大堤としれに付属する両城を築く。12月、魏は、王昶に南郡の、毋丘倹に武昌の、胡遵・諸葛誕には東興の攻撃を命じる。諸葛恪は東興の救援におもむき、丁奉らが魏軍に打撃をあたえる。
253年 1月、蜀、正月の祝宴中に大将軍費文偉が魏の降将・郭循に刺殺される。 5月、呉の諸葛恪、独断による作戦で魏の合肥城を攻めるが一世一代の大失敗を犯す。この失策をきっかけに信用を失う。 10月、諸葛恪、宴会の席で孫峻に罪を咎められ殺害される。大将軍に孫峻が任命される。 月、蜀の大将軍の費イが、酒宴の席で郭循のために刺殺される。2月、呉軍は東興から凱旋し、諸葛恪は、荊揚州牧・督中外諸軍事を加官される。5月、諸葛恪は合肥新城を包囲し、魏は司馬孚に命じて救援におもむかせる。疫病が流行し、諸葛恪は兵を引く。10月、孫峻は、呉主孫亮とはかり、殿中において諸葛恪を誅殺する。孫峻は、丞相・大将軍・督中外諸軍事に任じられる。
254年 9月、魏帝曹芳、側近の夏侯玄・李豊らに司馬師暗殺を命ずるが失敗し両名処刑される。司馬師、魏帝曹芳を廃位させ曹髦を皇帝とする。 1月、呉は五鳳と改元する。2月、司馬師は、中書令の李豊を殺害し、夏侯玄、張緝らを捕らえて誅殺する。9月、司馬師がクーデターを発動し、魏帝曹芳を廃して斉王となし、10月、高貴郷公曹髦を帝位につける。改元して正元とする。
255年 1月、魏の毋丘倹・文欽らが反司馬師を掲げて寿春にて反乱を起こす。司馬師、諸葛誕に討伐を命じる。 2月、司馬師、鍾会の助言で策を練り毋丘倹・文欽らを撃破する。毋丘倹、逃亡中に殺害される。文欽、呉へ亡命する。 3月、司馬師、目癌が原因で病死する。弟司馬昭が実権を継ぐ。 9月、蜀の姜維・夏侯覇、魏北伐軍を再び起こす。狄道より大勝利を収め魏軍に大損害を与える。 1月、魏の毋丘倹、文欽が寿春において司馬師討伐の兵をおこす。司馬師は内外の兵を率いてこれを討伐する。毋丘倹、文欽の軍は敗れ、文欽は呉に投降、毋丘倹は土民に殺される。その後、司馬師は許昌で病死する。2月、弟の司馬昭が大将軍・録尚書事に任じられる。呉の孫峻は、寿春を攻める。魏の諸葛誕がこれを追い返す。3月、魏は卞氏を皇后に立てる。7月、呉の孫儀、張怡、林シュンらが孫峻をはかるが、発覚して失敗する。8月、蜀の姜維が狄道へ兵を進める。魏の陳泰らの攻撃を受け、9月、姜維は敗走する。12月、呉は建業に太廟を建て、孫権を太祖として祀る。
256年   1月、蜀の姜維が大将軍となる。6月、魏は甘露と改元する。7月、姜維が祁山へ兵を進める。魏の鄧艾がこれを破る。呉は、文欽、呂拠、劉簒、唐咨らをつかわして、淮水流域へ軍を進めさせる。9月、孫峻が死んで、孫リンが呉の実権を握ると、呂拠らに撤退を命じる。呂拠は孫リンの命令を拒否し、孫リンを討とうとするが、失敗し、滕胤が殺害され、呂拠は自殺をする。10月、魏は、鄭沖を司徒に、盧毓を司空に任じる。呉は太平と改元し、11月、孫リンを大将軍に任じる。
257年 5月、寿春を任されていた諸葛誕、呉と同盟し反司馬昭を掲げ反乱を起こす。(寿春の乱)呉に亡命した文欽、援軍として寿春に入城する。魏、司馬昭・陳騫・王基・鍾会らが寿春城を包囲し長期戦となる。 10月、蜀の姜維、またしても北伐を起こすが、司馬望・鄧(トウ)艾らと持久戦となる。結局、兵糧が尽きて撤退する。呉帝孫亮が崩御し、孫休が皇帝となる。 4月、呉主孫亮がみずから政治を執るようになり、実力者の孫リンとの関係が悪化する。5月、魏の征東大将軍の諸葛誕は、司馬昭の勢力が大きくなるのをおそれ、淮南の地で反乱をおこし、呉へ帰順したいと求める。6月、武昌を守っていた呉の孫壱が魏へ逃亡する。司馬昭は、魏帝をともなって淮南へ兵を進める。7月、孫リンは、諸葛誕救援のため寿春にむかったが、9月、包囲された諸葛誕を救えぬまま軍を引く。 蜀の姜維が秦川まで兵を進める。魏の司馬望、鄧艾がこれを防ぎ止める。
258年 2月、寿春の諸葛誕、兵糧問題や作戦上での対立などで文欽を殺害する。文欽の子、文鴦・文虎らが魏に降る。寿春城は士気の無い兵士らによって開城され、諸葛誕は処刑される。 1月、包囲された寿春城内で諸葛誕と文欽が対立し、諸葛誕は文欽を殺す。2月、司馬昭が寿春城を落とす。諸葛誕は逃亡しようとして斬られる。5月、魏は、司馬昭を相国に任じ、晋公に封じ、九錫を与えようとするが、司馬昭は辞退する。8月、魏は王昶を司空に任じる。呉主孫亮は孫リンの誅殺をくわだてたが、9月、孫リンがクーデターを発動して、孫亮を廃して会稽王とし、孫休を迎えて帝位につける。永安と改元する。孫リンは、丞相・荊州牧となる。12月、孫休は丁奉、張布と計らって、宮中において孫リンを斬る。
259年   蜀の尚書令の陳祇は、姜維をしのぐ権力をふるっていたが、8月に死去する。董厥が尚書令に、諸葛瞻が僕射になる。
260年 5月、魏帝曹髦、司馬昭暗殺を企てるが露見され逆に殺される。曹奐が皇帝となる。 5月、魏帝曹髦は、王経らとともに司馬昭を除くため、クーデターを発動する。賈充らの反撃にあい、曹髦は死亡する。6月、常道郷公曹奐を迎えて帝位につかせる。景元と改元を行う。王観を司空に任じ、12月、王祥を司空に任じる。
261年   7月、韓・穢貊が魏に朝貢する。10月、蜀は、董厥を輔国大将軍に、諸葛瞻を都護・衛将軍に任じて、協同して尚書の事をつかさどらせる。ただ実際には、中常侍の黄皓が蜀の宮廷を牛耳る。 呉の薛クが蜀に使いし、帰国ののち、蜀の政治の不振を報告する。この年、鮮卑索頭部の大人拓跋力微が息子をつれて魏に入貢する。
262年   8月、呉は、朱氏を皇后に、孫ワンを太子に立てる。10月、蜀の姜維は桃陽に軍を進める。魏の鄧艾がこれを討って退ける。呉は、濮陽興を丞相に、丁密、孟宗を左右の御史大夫に任じる。このころ張布が呉の朝廷で権力を振るう。
263年 8月、魏の司馬昭、勅令にて鄧艾・鐘会に蜀討伐を任命する。 9月、鐘会、傅僉を討ち漢中を占拠する。蜀の姜維、剣閣にて鐘会・諸葛緒らを足止めする。 10月、鄧艾、剣閣の険しい裏壁道を通り綿竹関を攻める。11月、綿竹関の守将、諸葛瞻親子らが戦死する。蜀帝劉禅、鄧艾軍に降伏し蜀滅亡する。劉禅の第6子劉シンが自害。剣閣の姜維・廖化・張翼らも降伏。劉禅は洛陽に送られ安楽公に奉じられる。 5月、交州郡吏の呂興らが、太守の孫ショを殺して反乱をおこし、九真・日南もこれに呼応する。8月、魏は、大軍をおこし、鄧艾、諸葛緒、鍾会らを指揮官にあて、蜀に攻めこむ。蜀は、廖化、張翼、董厥らをおくり、姜維を助けて魏を拒もうとする。同時に大赦を行い炎興と改元する。11月、蜀主劉禅は魏に降服する。12月、益州を分割して梁州を作る。魏は、鄧艾を太尉に、鍾会を司徒に任じる。鄧艾は、成都にあって、中央の指示を無視した行動を取る。
264年 1月、魏の鄧艾親子、蜀平定の功労者にも関わらず謀反の罪で護送中に処刑される。鐘会、姜維と計らい打倒司馬昭を掲げ反乱を企てるが、胡烈に裏切られる。魏兵に囲まれ、鐘会・姜維・張翼とも戦死する。呉帝孫休が崩御し、孫皓が皇帝となる。孫チンが補佐となる。陸遜の次男陸抗、荊州牧大司馬となる。 2月、呉、陸抗を総大将に編成し旧蜀へと進攻する。しかし、長期戦を避け戦果もなく撤退する。 1月、劉禅は安楽公となる。魏は、鄧艾の逮捕令を出し、鍾会、賈充に命じて軍を進めさせるとともに、司馬昭も長安にむかう。衛カンが成都に入って鄧艾を捕縛、みやこへ護送する。鍾会も、姜維や蜀の残存勢力と結んで司馬昭にそむくが、うちわもめのため姜維、鍾会はともに殺害される。 呉は、蜀の亡国に乗じて、蜀の故地に兵を進めようとするが、巴東太守の羅憲がそれを阻止する。3月、魏は、王祥を太尉に、何曾を司徒に、荀顗を司空に任じる。司馬昭が晋王となる。5月、呉主孫休の病気が重態となり、濮陽興を召し後事を託したあと逝去する。濮陽興は、孫晧を招いて帝位につけ、元興と改元する。9月、魏は、司馬炎を撫軍大将軍に任じる。11月、孫晧は、濮陽興と張布とを捕らえて殺す。
265年 3月、魏、司馬昭を晋王に取り立てる。8月、晋王司馬昭、病死する。長男司馬炎が跡を継ぐ。11月、呉、孫皓の強行にて建業から武昌へ遷都する。これを諌めた濮陽興・張布らが処刑される。12月、魏帝曹奐、晋王司馬炎に禅譲し帝位を譲る。魏が滅亡し晋が建国される。内事は賈充、大都督に羊枯が任命される。 3月、呉主孫晧は、紀陟、洪キュウをつかわして、魏を聘問させる。4月、呉は甘露と改元する。 8月、司馬昭が死去する。太子の司馬炎が相国・晋王となる。 9月、司馬炎は司徒となる。冬、孫晧は武昌に遷都し、丁固、諸葛セイが建業の留守をあずかる。民衆は武昌遷都をいやがる。 12月、司馬炎は、魏帝曹奐にせまって禅譲を行わせ、魏は亡びる。司馬炎が帝位につき、泰始と改元を行う。景初暦を改めて太始暦となす。
266年 3月、晋、賈充が中央集権・地方分権新律令を制定する。旧蜀益州を名将王濬に統治させる。12月、呉帝孫皓、気まぐれで武昌から建業へ再び遷都する。 1月、晋は楊氏を皇后に立てる。3月、呉は張儼と丁忠とを晋につかわし、司馬昭の死を弔問させる。 8月、呉は宝鼎と改元、陸凱を左丞相に、万彧を右丞相に任じる。11月、晋は、円丘と方丘の祀を并せる。倭人が晋を訪れて、ささげ物をする。 12月、孫晧は、都を武昌から建業にもどし、滕牧が武昌の留守にあたる。
267年 6月、呉帝孫皓、呉国財政を考えず昭明宮を建築。結果、財政を破産寸前まで追い込む。12月、晋、予言緯書・陰陽五行説など占い行事を禁制する。 1月、晋は司馬炎を皇太子に立てる。6月、孫晧は昭明宮を造営する。人々は労役に苦しむ。 9月、晋は、何曾を太保に、司馬望を太尉に、荀凱を司徒に任じる。12月、晋は、星気・讖緯の学を禁じる。
268年 10月、呉、孫皓自ら指揮を執り晋討伐軍を編成し先鋒を丁奉軍で合肥へ進攻する。晋の胡奮・胡烈・文鴦らに奇襲を受け敗退する。 1月、晋の賈充らが新しい律令を作って上呈する。2月、呉は、丁固を司徒に、孟仁を司空に任じる。10月、呉は各地で晋に侵攻し、施績は江夏に、万彧は襄陽に、丁奉は笏波に軍を進めるが、みな晋の軍に撃退される。 11月、晋は、司馬望を大司馬に、荀顗を太尉に、石苞を司徒に任じる。
269年   1月、呉は孫瑾を皇太子に立てる。2月、晋は、雍州・涼州・梁州を分割して泰州を置き、胡烈を太守に任じて、異民族の対策にあたらせる。 10月、呉は建衡と改元する。
270年   6月、胡烈は鮮卑を討伐するが、かえって軍を破られて戦死する。11月、孫晧の従弟の孫秀が晋へ逃亡する。 元蜀の臣のショウ周が死去する。
271年   1月、呉主孫晧は、江南の主君が天下を統一するであろうとの讒言を信じ、太后ほか後宮数千人を率いて西方に向かう。従者たちに不満がひろがり、孫晧は帰還する。7月、呉の薛ク、陶曠らが交州を攻めて、これを落とす。 この年、劉禅が死去する。
272年 2月、益州刺史の王濬、呉水軍に対抗すべく大艦隊を建造。大都督羊枯が王濬の艦隊を絶賛する。 1月、呉は年初より鳳皇と改元する。晋の益州刺史王濬が大艦を建造する。 建平太守の吾彦は、晋が呉の攻略を計画していると警告するが、孫晧はそれを無視する。 7月、晋は賈充を司空に任じる。 9月、呉の歩闡が西陵城をあげて晋に投降しようとする。呉の陸抗が歩闡を討伐する。晋は楊肇、羊コ、徐胤らをつかわして歩闡を救援させるが、12月、陸抗は西陵城を降して、歩闡を誅殺する。
273年 3月、呉、功臣歩シツの孫の歩センが呉帝孫皓の横暴に嫌気をさし晋へ亡命。これをきっかけに、荊州西陵を巡って両軍が動くことになる。呉の陸抗と晋の羊枯が西陵にて対峙する。 11月、陸抗と羊枯の間に敵同士ながら友情が芽生える。 3月、呉は陸抗を大司馬・荊州牧に任じる。4月、呉主孫晧は韋昭を獄に下して誅殺する。
274年 7月、呉、最後の柱石である陸抗が病死する。呉帝孫皓、後事の人選をせず大司馬不在のままとなる。 2月、晋は幽州を分割して平州を置く。7月、呉の大司馬の陸抗が病死する。 9月、晋は陳騫を太尉に任じる。杜預が富平津に河橋を作る。
275年   6月、鮮卑の拓跋力微が息子をつかわして、晋に入貢する。
276年 10月、晋の羊枯・杜預らが呉討伐を上奏するが、議会で否決される。 7月、呉は天璽と改元する。このころ、しばしば祥瑞の報告があって孫晧をよろこばす。8月、晋は、何曾を太傅に、陳騫を大司馬に、賈充を太尉に、司馬攸を司空に任じる。 10月、晋の羊コは、呉の討伐を献策する。杜預と張華は賛同するが、多くの者がそれに反対する。 晋は楊氏を皇后に立て、12月、父親の楊駿が車騎将軍・臨晋侯となる。
277年   1月、呉は天紀と改元する。3月、晋の文鴦は鮮卑の樹機能を撃破する。 7月、晋は宗室の諸王たちの改封を大々的に行う。
278年 3月、晋の羊枯が病死する。後事を杜預が跡を継ぐ。晋帝司馬炎、その死を深く悲しみ片腕を失くしたと嘆く。 3月、山濤が晋の尚書左僕射となる。6月、涼州刺史の楊欣が若羅抜能と武威で戦い、敗死する。 9月、晋は、何曾を大宰に、李胤を司徒に任じる。 10月、晋の揚州刺史の応シャクが呉の皖城を攻めて損害を与える。 12月、羊コが死去する。杜預が都督荊州諸軍事となる。
279年 8月、呉の南部広州から、財政難のために重税を課したことで住民が扇動。 11月、晋、ようやく呉全面侵攻作戦を実施。杜預・王濬・胡奮・司馬由・王戎・王渾ら六路より建業を目指す。 1月、樹機能が涼州を攻略する。馬隆がその討伐にむかい、12月、涼州を平定する。夏、呉の桂林太守の脩允が死去すると、その部下の郭馬が反乱をおこす。呉は滕循をその討伐のために派遣する。 8月、呉は、張悌を丞相に、何植を司徒に、滕胤を司空に任じる。 11月、晋は大動員をかけて呉に攻めこみ、司馬チュウがト中に、王渾が江西に、王戎が武昌に、胡奮が夏口に、杜預が江陵に軍を進め、王濬、唐彬は巴蜀の兵を率いて長江をくだる。賈充が総指揮にあたる。
280年 5月、王濬艦隊が張悌水軍を撃破、王濬副将の周旨が沈瑩・孫震らを討つ。杜預、荊州主要の城をすべて占拠し、建業を包囲。呉帝孫皓、あっさり降伏し死罪を免れ洛陽へ送られる。こうして三国時代は晋の統一にて幕を閉じる。 呉の軍は総崩れになり、3月、王濬らの軍が建業にせまると、孫晧は、使者をおくって晋に降服を申し入れ、呉国は亡びる。4月、晋は太康と改元する。 5月、帰命侯に封じられた孫晧は、護送されて洛陽に到着する。