しばえん

司馬炎

安世 武皇帝 生没年236年 – 290年 所属

魏を承け天下を統一した晋の初代皇帝

能力値
統率 D
武力 E
知力 D
計略 D
政治 C
人望 B
関連年表
236年 司馬昭の子、司馬懿の孫として生まれる
265年 父・司馬昭の死により晋王を継ぐ
265年 魏の元帝から禅譲を受け、晋を建国して帝位につく(武帝)
269年 羊祜を荊州都督に任じ、呉平定の備えを進める
279年 諸方面から呉を攻める大号令を発する
280年 呉主・孫晧を降し、三国を統一する
280年代 泰平の世は「太康の治」と称される
290年 没する。死後まもなく八王の乱が起こる

略歴

司馬炎、字を安世といい、司馬昭の子、司馬懿の孫である。祖父・司馬懿が高平陵の変で曹爽を討って以来、司馬氏は父・司馬師、叔父にあたる司馬昭と三代にわたって魏の実権を握ってきた。司馬昭が晋王・相国として位人臣を極めながら禅譲を目前に病没すると、咸熙二年(265年)、その世子であった司馬炎が晋王の位を継いだ。 同じ年、司馬炎は魏の元帝・曹奐に迫って禅譲を受け、帝位につき、国号を晋と改めた(武帝)。かつて曹丕が後漢の献帝から禅りを受けて魏を建てたのと、そっくり同じ形で、今度は司馬氏が魏を承けたのである。都は洛陽に置かれた。 即位した司馬炎は、父祖以来の宿願であった呉の平定に本腰を入れる。荊州で長く呉と対峙した羊祜が、周到な征呉の策を練り上げて世を去り、その後を継いだ杜預が荊州方面を、益州から長江を下る王濬らの水軍が下流を、それぞれ受け持った。咸寧五年(279年)、司馬炎は諸方面へ一斉に呉を攻める大号令を発する。翌太康元年(280年)、晋軍は破竹の勢いで進み、呉主・孫晧を降した。後漢末の群雄割拠から実に九十年余、ここに三国の分裂はついに終わり、天下は晋のもとに再び一つとなった。 統一直後の治世は年号にちなんで「太康の治」と呼ばれ、久しぶりの泰平に人々は安んじた。しかし天下を得た司馬炎は、しだいに驕奢に流れる。後宮には呉から接収した者も加えて数千人を擁し、羊の曳く車のおもむくままに夜ごとの相手を定めたと伝わる。加えて、暗愚とうたわれた皇太子(のちの恵帝)を廃さず後継に据えたことは、致命の誤りとなった。太熙元年(290年)に没する。その死後まもなく、皇后一族と諸王が権を争う八王の乱が起こり、晋は自壊して天下は再び大乱へと転がり落ちていく。

逸話

建国にあたり、司馬炎はある問いを臣下に投げたと伝わる。祖父・司馬懿と父・司馬昭は魏の臣でありながら実権を握り、ついに己が禅譲を受けて帝位に立った。その正統性をいかに語るかは、晋にとって難しい問題であった。曹丕が漢を承けた「禅譲」の形をそっくりなぞることで、司馬炎は簒奪の実を、天命の推移という体裁で包んだのである。 天下を統一したのちの奢りを物語る逸話は多い。なかでも名高いのが「羊車望幸」である。数千人にふくれあがった後宮を前に、どの相手のもとへ渡るか決めかねた司馬炎は、羊に車を曳かせ、その羊が足を止めた戸口の妃のもとで夜を過ごすことにしたという。すると妃たちは、竹の葉を戸口に挿し、塩水を地にまいて羊を誘い寄せようと競った——という、泰平に緩んだ宮廷の姿を伝える話である。 臣下の司馬攸(弟)の器量を惜しむ声や、皇太子の暗愚を危ぶむ諫めもあったが、司馬炎はついに後継を改めなかった。統一の英主が晩年に犯したこの一事が、彼の死後、天下を八王の乱の惨禍へと導くことになる。

評価

司馬炎は、三国の争乱に終止符を打ち、久しく分かれた天下を再び一つにまとめた統一の君主である。父祖の遺した基盤の上に立ち、賢臣を用いて呉を平らげた手際は評価に値する。 一方、統一後の緩みと後継選定の誤りは、まもなく到来する大乱の遠因となった。創業の成功と、守成の失敗とを併せ持つ帝王であった。

演義

小説『三国志演義』では、物語の最終盤に登場し、魏の禅譲を受けて晋を建て、呉を滅ぼして天下を統一する人物として描かれる。 「天下大勢、分かるること久しければ必ず合す」という語りとともに、長い群雄の物語を締めくくる帰結の象徴として位置づけられている。