そんりょう

孫亮

子明 生没年243年 – 260年 所属

幼くして立ち、権臣に廃された呉の少年皇帝

能力値
統率 E
武力 E
知力 D
計略 E
政治 E
人望 D
関連年表
243年 孫権の末子として生まれる。母は潘夫人
250年 二宮の変ののち、八歳で皇太子に立てられる
252年 孫権の死により十歳で即位。政は諸葛恪が執る
253年 孫峻が諸葛恪を誅し、実権を握る
256年 孫峻の急死により、従弟の孫綝が政を継ぐ
257年 親政を始め、全公主らと孫綝の排除を謀る
258年 計が漏れ、孫綝に廃されて会稽王に落とされる(十六歳)
260年頃 候官侯へ降される途上で世を去る(享年十八)

略歴

孫亮、字を子明といい、呉の大帝・孫権の末子である。母は潘夫人。二宮の変によって兄たちが相次いで廃され、あるいは死に追いやられたのち、赤烏十三年(250年)、わずか八歳で皇太子に立てられた。 神鳳元年(252年)に孫権が没すると、孫亮は十歳で帝位を継いだ(呉の第二代)。あまりに幼かったため、政は孫権の遺命を受けた大将軍・諸葛恪が執った。だが諸葛恪は東興の勝利に驕って翌年に大挙北伐し、新城で大敗して人望を失う。建興二年(253年)、孫峻が宴席でこれを誅すると、こんどは孫峻が実権を握った。その孫峻も太平元年(256年)に急死し、従弟の孫綝が跡を継いで、専横はいよいよ甚だしくなる。皇帝は名ばかりの存在に置かれ続けた。 長ずるにつれ、孫亮は聡明さと気概を見せるようになる。政務の記録をみずから調べ、過去の裁きの誤りを問いただすなど、傀儡に甘んじない姿勢を示した。太平二年(257年)に親政を始めると、姉の全公主や側近の全紀らとひそかに謀り、孫綝を除こうと図る。 だがこの計画は、全紀の父・全尚を通じて漏れた。全尚の妻が孫綝の従姉であったためである。太平三年(258年)九月、先手を打った孫綝は兵を発して宮を囲み、孫亮を廃して会稽王に落とした。時に十六歳。 その後、孫亮は候官侯へさらに降されたが、赴任の途上で世を去った。孫綝の遣わした者に毒を賜ったとも、自ら命を絶ったとも伝わる。享年十八。のち孫晧の代になって、その遺骸は改めて葬られた。

逸話

孫亮の聡明さを伝える、よく知られた逸話がある。あるとき梅を口にしようとして、蜜漬けを蔵から取り寄せたところ、蜜の中に鼠の糞が入っていた。孫亮が蔵役人を呼んで尋ねると、役人は「宦官が私に蜜を求めましたが、断りました」と答える。孫亮は糞を割らせてみた。中はまだ乾いており、外側だけが濡れている。「長く蜜に浸かっていたなら、中まで湿っているはずだ。外だけ濡れているのは、たった今入れられた証拠である」——問い詰められた宦官は、役人を陥れるために自ら入れたと白状した。まだ十代半ばの裁きであった。 政務においても、孫亮は傀儡に甘んじなかった。過去の裁きの記録をみずから取り寄せて調べ、誤りを見つけては担当者を問いただしたという。長ずるにつれて権臣を除く志を固めていったのは、こうした資質があってのことである。 だが、その最期はあまりに早かった。孫綝を討つ計は、姉の全公主や側近の全紀らと謀られたが、全紀の父・全尚の妻が孫綝の従姉であったために漏れてしまう。十六歳で廃され、十八歳で世を去った。呉の宮廷が権臣に呑まれていく時代に生まれ合わせた、才気ある少年皇帝であった。

評価

孫亮は、幼くして帝位につきながら、相ついで現れる権臣の傀儡とされ続けた不運の少年皇帝である。長じて権臣を除こうと試みた気概はあったが、経験も基盤も乏しく、逆に廃位されて短い生涯を閉じた。 その運命は、大帝・孫権の死後、たちまち権臣の専横に沈んでいった呉の宮廷の乱れを、そのまま映し出している。

演義

小説『三国志演義』では、孫権の死後に幼くして即位する皇帝として登場する。権臣・孫綝の専横に苦しみ、これを除こうと図る。 だが計は破れ、逆に廃位される。呉の宮廷が権臣に振り回される混乱の一齣として描かれている。
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